20/03/11 19:45:49 LbWtd3Wz.net
【南岳懐譲】瓦を磨いて鏡となす (六七七~七四四)
『伝灯録』に「南嶽磨甎」〔なんがくません〕
中国では開元と言われる年頃、道一という沙門(お坊さん)が、伝法院に住んでいました。
彼は朝から晩まで、坐禅ばかりしていました。
南岳和尚がこれを聞いて、この男は見込みがあると見ると伝法院へ出かけていきました。
案の定、道一は眼を瞑って頑張って坐禅をしています。
これを見ると南岳が、「お前さんは何の目的で、そんなに力んで坐禅ばかりしておられるんじゃな」と聞きます
道一は、「何とかして仏になりたい一心で」と答えました。
すると南岳は、どこからか一枚の瓦を持ってきて、庵の前の岩の上でそれを、ゴシゴシと磨き始めたのです。
道一が驚いて、「老師はそんなことをして、何になさいますか」と聞く
、「鏡を作ろうと思ってな」との答え。
「瓦を磨いても、鏡にはなりますまい」と言うと、「坐禅しても仏にはなれるまい」。
「それじゃ、どうすればよろしいのですか」と問い返す
、「人が駕(馬車)に乗って行くとき、車が止まったら車を打つがよいか、牛を打つがよいか」。
道一はグッと詰まってしまったのでした。
南岳は続けて次のように言われたのです。「お前さんはそして坐禅を学び、坐仏を学びたいのであろう。
しかし、もし坐禅を学びたいのなら、禅というものはそんな格好の上にはないのだ。
また坐仏を学びたいというのなら、仏さんはそんなにじっと坐ってばかりいるものではない。無住法(決まった形のない仕方)において、取捨してはならぬ(わざとらしくないのがいい)のだ。
お前のように格好ばかり仏さんでは、かえって仏を殺すことになる。
また坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい」。
これを聞くと道一は醍醐(美味しいもの)を飲むような思いがしたという。
(『伝灯録』南岳懐譲の章)