【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16at PSY
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 - 暇つぶし2ch461:桃太郎
19/04/16 21:38:41.88 4a6EtvPH.net
法華経「法師品」から
「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。
若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。
如来の所遣として如来の事を行ずるなり」
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この人は、行いによって得た、清浄な仏国土に生まれるべき果報を自ら捨てて、私の滅後に、衆生をあわれみ、利益するために、悪世に生まれて、広くこの経を演説するのである。
もしも、この善男子、善女人が、私の滅後に、ひそかに一人のためであっても、たとえ一句であっても、法華経を説くならば、まさに知るべきである。
この人は、如来の使いであり、如来から遣わされたものとして、如来の仕事をなすのであると。
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昨日の続きです。
※たぶん前にもここのスレで書いたような覚えがある。ような気がする。(笑
※加筆修正して再投稿する。
参考文献:中村元、早島鏡正訳の『ミリンダ王の問い』全三巻(平凡社・東洋文庫)、仏法 西と東(東洋哲学研究所)より
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「実体としての人格的個体の否認」
ミリンダ王は、まずナーガセーナに質問をします。
「尊者よ、あなたは何という名なのですか?」
これに対して、ナーガセーナは、
「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。大王よ、同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます。
しかしながら、大王よ、この『ナーガセーナ』というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。
そこに「人格的個体」は認められないのであります」と答えています。
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※冒頭から、ナーガセーナというのは単に仮名にすぎなくて、そこに人格的個体は認められないと、はっきりと仏法の"無我的立場"を打ち出している。
彼らにしてみれば、たとえばナーガセーナと呼ばれる人物があれば、そこに人格的個体があると見るのは微塵の疑いも許さない自明の事柄であったろうと思う。
それを頭から否定されたわけだから、さぞかし驚いたであろうと思う。


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