--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻at PSY
--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻 - 暇つぶし2ch700:神も仏も名無しさん
19/03/31 14:01:54.18 aDeyBZxL.net
無記は毒矢の喩えで有名な箭喩経ですかね、あとヴァッチャ火経やアーナンダ経でも形而上のことには無記ですが。
それらの経典や般若心経や観音教普門品偈も輪廻前提ですよ。
そもそも、仏教における苦が生病老死であること、お釈迦様は菩提樹下で生存の素因を滅却して解脱した時に「これが最後の生である」と言ったと自称していふこと、
解脱智見において「生は尽きた~もはや後有はない」としていることから、苦からの脱却、苦を度する、解脱というものは二度と再生しないことであります。
つまり、経典に苦と書いてあれば輪廻について書いてあることになります。
細かく見ていくと
マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『永遠でないのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。
わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。
(箭喩経)
ここに輪廻という言葉は直接には出てきませんが、
「あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。
わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。」
とは涅槃に入り二度再生しない(=後有はない)、輪廻からの解脱のことを説いているのを読み取るべきですね。
種種諸惡趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
(観音教普門品偈)
ここからも輪廻を読み取らないと。
照見五蘊皆空 度一切苦厄
(般若心経)
これも輪廻前提であることがわかります。一切苦と書いてあれば生も含まれるそれを度するということは輪廻からの解脱を意味します。

701:ポッタン師
19/03/31 14:06:36.56 MAwpiH6N.net
700.輪廻がない。
輪廻からの解脱もない。
バカには理解できない。大爆笑である。

702:神も仏も名無しさん
19/03/31 14:33:58.78 Jwr9MaLT.net
>>699
だから、それを言ったら、古代インド仏教以前からある話。(それこそアートマンとして。)
十句観音経が、インド由来の(≒バラモン教由来の)お経だとでも言いますか?
インド的解釈(→大乗涅槃経的読み)でいいなら、中村さん一人で十分だよ。
また、そこで問われるのは
「大乗涅槃経は、(先祖返りをして)永遠なる真の自己を説き始めた」
という仮説の検証でしょう。
けれども、今問われているのはそうじゃない。
十句観音経のその四文字が、近現代禅宗の中でどう読まれているか、
の話じゃなかったか?
勿論、それが、「大乗涅槃経の解釈がベースである」ということであってもいいけれども、
それなら、大乗涅槃経と(近代仏教における)十句観音経の流行との関係性が示されねばならない。
その上でようやく、
「近現代禅宗は、(真のバラモン教としての)真我を、”アートマン”を説こうとしている」と見做すかどうか、
という次の話題へ繋がってくわけ。

703:神も仏も名無しさん
19/03/31 14:45:38.88 Jwr9MaLT.net
或いはまた、高弟東嶺円慈の註釈でも引いていれば可愛げのあるものを・・。 >>679
常。無常計常、常計無常。
楽。苦計楽、真楽計苦。
我。無我計我、真我計無我。
浄。不浄計浄、浄計不浄。
真浄縁因、即一心帰命諸仏智徳、冥加了因即性徳自現義。正因同前句。
(東嶺円慈釈/白隠全集八巻拾遺)
常。人これ、無常を常なりと解し、常なる法を無常と見、
楽。苦なる世間を楽となし、真の安楽(法)を苦と想う。
我。無我なる我を我と抱き、真我を無我なりと錯誤する。
浄。不浄なる六身を浄と為し、浄なる行を不浄と為す。
真浄の縁因は、諸仏の智徳に一心に帰命することにあり、さすれば、仏の性徳自ら現ずること必定なり。
正因即ち、根本因は前句に同じ。
(→自己の本仏と面前の妙法、既に不二合一なることを明かす)。
(春秋社「延命十句観音経霊験記」/伊豆山格堂)

704:宝珠真範@迦楼羅
19/03/31 17:12:05.31 lQSdb2U6.net
>>699
情報ありがとうございました。
>>702
イヤハヤ.七セブン!
「中国発祥だ」だなんて嘘をいってたら成仏できなくなるとさ!
(おっと危ねぇ~!! オイラも巻き添えを喰らうところだったわw)
まっ、元々最初から転生なんて信じてはおらず、
今生で死んだら、それでもう二度と母胎に宿ることはない、というのが七の見解なのだから、
それはつまり、今生でブッダにまで成れなかったら、それですべてがお終いということなんだな!!
だから、ヨカッタじゃない! その思ってた通りなんだからさ。
それとも、
七は本気で今生だけでブッダに成るつもりで、日々精進していたということなのかな?
もしも、それだったならば本当に頭が下がる想いだ。
金夜TVでやったチベットのリンポチェなど問題ないくらい素晴らしいことです。
是非、供養したいくらいだ!
とはいえ、
本題としては、「常楽我浄」の正しい意味は何か? が、
解ればそれでいいことだけれどね...。

705:神も仏も名無しさん
19/03/31 17:39:20.97 Jwr9MaLT.net
>>704
そうじゃねーよw
近現代の十句観音経解釈が、本当に大乗涅槃経に則ってるか?が重要なの。
「道元の本覚思想」問題も、同じ構図なのw

706:参
19/03/31 17:40:07.24 Jwr9MaLT.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

707:参
19/03/31 17:42:21.55 Jwr9MaLT.net
ちなみに、大乗涅槃経ベースの解釈↓
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

708:神も仏も名無しさん
19/03/31 17:46:47.54 Jwr9MaLT.net
十句観音経を見る時に、大乗涅槃経に常楽我浄があるからといって、
「わーい、仏説だー!」とか、「ちゃんとインド経典に根拠があってよかったぁ・・嘆」
と安心するほど素直じゃないんでねw

709:承狂
19/03/31 17:48:07.20 GAKPsq7V.net
>>690
宝珠は、>>687から、仏教のいう「輪廻」と、宝珠のいう「輪廻転生」は別のことだとは読み取れないので、こんなレスになる。(笑)
>>700はその通り、輪廻を読み取る事も出来るけど、
「個人主体が輪廻する」という話は読み取れないんだよね。(笑)
縁起してるから、輪廻してるし、本質的なものはないし、無常だし、無我と読み取れる訳だから。(笑)
以て「空」の一文字に約された訳だが、
宝珠解釈だと、「本当の私」についてだけは「不生不滅不垢不浄不増不減」ではないし、「意識界も無い」事もなく、「無明が尽きることも無く」って事も無く、「苦集滅道も無く」も間違いで、「無所得を以ての故に」も間違いな訳だ。(笑)
龍樹菩薩以来の般若経典群も大否定しといて、論拠をその般若経典群に求めるというね。(笑)
(^。^)ちょっと面白かったよ。(笑)
あ、こっから先は中観派の論になるから反論とか説明は一切しません。(笑)
なので、逃げたとか知らないんだとか悦に入ってて下さい。(笑)
では、サラバじゃ。(笑)

710:神も仏も名無しさん
19/03/31 17:49:36.84 Jwr9MaLT.net
単語、術語が共通して存在する事と、
その語によって指示される概念、考え方が同義である・共通するものかどうかは別問題。
まさに、無我や無為に関して、宝珠が抱いている相違が、そこにもあり得るよ、と。

711:神も仏も名無しさん
19/03/31 17:53:25.08 Jwr9MaLT.net
>>707は、ご希望なら、
(強調記号入れながら)6レスくらいには削ってレス入れることも吝かでないよ。 >>宝珠
ノシ

712:宝珠真範@迦楼羅
19/03/31 18:13:46.45 lQSdb2U6.net
>>711
はい。
解説できるのならば、どうぞ宜しくです。
ただし、シロウトにもわかる優しい説明でね。
>>709承狂
>宝珠は、>>687から、仏教のいう「輪廻」と、宝珠のいう「輪廻転生」は別のことだとは読み取れないので、こんなレスになる。(笑)
いやいや意味不明ですよ。
私のいう転生とは、仏典のこのことでいいんだけど。
(『スッタニパータ』278)(『ディーガ・ニカーヤ』『沙門果経』出家の功徳2:93~94)
 スレリンク(psy板:21番)
是非とも、
これがどう一個人による輪廻転生のことではないというのか? の、あなたの説明を願う!!
今回は絶対に逃げないように。あなた元プロ(密教僧)なんだから!!
>では、サラバじゃ。(笑)
おやおや?
また、逃げるのか~い!!!!!!!!
今回もまた逃げるのならば、もう二度とここに来なくてもいいからね。

713:ポッタン師
19/03/31 18:27:18.67 bN7tIANl.net
712、輪廻転生は科学の問題である。
それは仏教の問題ではない。
バカには理解できない。大爆笑である。

714:神も仏も名無しさん
19/03/31 19:15:49.16 aDeyBZxL.net
>>703
>我。無我なる我を我と抱き、真我を無我なりと錯誤する。
・無我なる我を我と抱き→凡夫の顛倒(有為の顛倒)
・真我を無我なりと錯誤する→二乗の顛倒(無為の顛倒)
残り3つも同じでこの註釈はインドで成立した大乗大般涅槃経に沿っていると思います。

715:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:10:45.28 Jwr9MaLT.net
>>714
そう。
格堂さんが解説するように、
「本来は」、≪大乗涅槃経の常楽我浄≫に立脚した「常楽我浄」である筈のもの。
問題は、
『近現代(特に現代)の仏教者・禅家が、ちゃんとその上に乗っかっているかどうか』
が一つ。(六祖以降、「己事究明」が「アートマン究明」になってないかどうか?)
もう一つは、
『そもそも、大乗涅槃経で掲げられた「常楽我浄」が、釈尊その人に反してはいないか』
ということ。(田上さんの修士論文もまた同じ。)
永遠常住なる存在を希求していないか(→自身の永遠を望んでいないか)? と・・・。

716:宝珠真範@迦楼羅
19/03/31 20:13:00.90 lQSdb2U6.net
>>709承狂
>宝珠解釈だと、「本当の私」についてだけは「不生不滅不垢不浄不増不減」ではないし、「意識界も無い」事もなく、
>「無明が尽きることも無く」って事も無く、「苦集滅道も無く」も間違いで、「無所得を以ての故に」も間違いな訳だ。(笑)
>龍樹菩薩以来の般若経典群も大否定しといて、論拠をその般若経典群に求めるというね。(笑)
> (^。^)ちょっと面白かったよ。(笑)
この私は、そんな発言など何一つしてないから。
参加したての新しい人が、へぇ~そうなんだと勘違いするようなデタラメを書くんじゃないよ。
こりゃ~もう、ほとんど犯罪レベルだぞぉ(怒)
破戒僧もいいところだ。あんたは訴えて遣るぅぅぅ~
>>713
もしも、本気でヤル気あるんだったら相手してやってもいいぞ!!
その変わり、こっちの問いには必ず答えてもらうからな。
そんな幼児の三行レスなんかじゃ~
とても返答の説明は無理だぞ。
まずはPC買え!!

717:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:15:40.53 Jwr9MaLT.net
そう。
宝珠というか、神智学の方向性は、
『所詮、【自己の永遠】【永遠なる自己】の希求、仙道の如き【不老不死】の希求になってないか』
ということ。
昔の遣り取りで言えば、不公平の帳尻合わせをのzんでるだけじゃねーのか?と。
一位もビリもない、皆で手を繋いで一緒にゴール、
みたいな似非平等じゃねーのか? と。
ああ、なんか当時の遣り取り思い出したらイラついてきたwww   凡夫だなぁ・・・(しみじみ) orz

718:解説でなく、局所引用なw
19/03/31 20:48:15.31 Jwr9MaLT.net
常楽我浄は涅槃(さとり)の四徳と―。
―煩悩・迷いの火を吹き消した状態を言い、「滅」と訳され―。
「四徳」の「徳」は優れた性質を言う。
涅槃には有余(有余依)涅槃・無余―
以上の小乗の―、大乗は無住処涅槃・不住涅槃を説く。
生死・迷界に住せざるのみならず、
衆生を敘うため、涅槃・覚界にも住しとどまらざる
真の涅槃という意である。
==
 「常・楽・我・浄」は
【凡夫(仏の教えを知らぬ凡庸な人)の「四顛倒」(四倒)】と
【涅槃の「四徳」】の二種に区別される。「顛倒」は道理に背く見解を言う。
「凡夫の四顛倒」とは、
【無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思う】ことである。
凡夫・凡人といえども無常の世の姿を見ていないわけではないが、―、
【いつまでも一切が存続するように考えている「常見」に】とらわれている。
この「常見」「常顯倒」に対し、仏教では
「諸行(変じ滅ぶ一切の存在・現象)無常」を説いた。
「常」とは「永遠」の意である。
『涅槃経』聖行品第十九の「諸行無常、是生滅法。
生滅滅己、寂滅為楽」の諸行無常偈(雪山偈)は有名で、
わが「いろは歌」にも―。
==

719:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:49:21.44 Jwr9MaLT.net
四顛倒の第三は「我顛倒」である。
「我」は「常一主宰」の義とされている。
【おのれの内に一の主宰者があって常住なりと認めること、
実体的・個体的の自我を認めること】は誤りである。
それ故仏教では「諸法無我」を説く。
人を含め、すべての存在には実体が無い。
自己は五蘊和合の存在に過ぎず、空であり、
常一主宰者を自己に認めることはできない。
しかるに凡夫は
【「我」に執らわれ「我愛」に陥り、利己に奔る】。
「諸行無常」が現象を時間的に観ているのに対し、
「諸法無我」は現象を空間的に観ている。
何れも一切の実体は認められず、畢竟空なる理を示している。
==
 さて素朴な「常想」を打破するためには
「諸行無常」観を説き、「心念処」を説くのは適切であったが、
しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。
そこで大乗の涅槃はついに「無常」をさらに否定・超克して
【高次元の「常」の世界に出た】。涅槃の四徳の一としての「常徳」である。
大乗は無常に対立し無常の外に常を求めることをせず、
【無常のただ中に常を】見るのである。
それは思慮分別を絶した深い体験的な世界である。
==

720:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:50:59.09 Jwr9MaLT.net
 涅槃の四徳の第三は
凡夫の四倒の一たる【「我見」を転じて「我徳」とする】。
凡夫が「我」としているのはいわば小我である。
小我を超克して無我に入り、【無我に徹すれば「真我」が現われる】。
それは「大我」であり、【自在の妙用をなす「自在我」】でもある。
小我を脱すればすべてが我れならざるは無きに至る。
真の主体性の実現と現代風に言うこともできよう。
ただし「無我」と言っても単なる無意識・無心の段階に留まってはならない。
そこからさらに一歩を進めなければいけない。
「無心猶隔万重関」である。ここが極めて難関なのである。
==
 以上、『十句経』本文の「常楽我浄」について、
『涅槃経』に基づき、凡夫の「四顛倒」が涅槃の「四徳」に転ずること、
「四徳」の内容について概観した。
 そもそも『涅槃経』には小乗の―大乗の―。
「涅槃の四徳」は大乗のそれに述べられているものである。
小乗の―は釈尊の死を中心としてその前後のできごとを記したもので―。
身心滅した「無余涅槃」に入るということである。
大乗『涅槃経』は『法華経』と並び、
【仏を仏たらしめ、覚者を覚者たらしめる根源は法であり】、
【法は永遠に変らない】ものであるから
【仏には生死が無い】とする【「法身常住」】を説く。
―。そしてこの永遠性の法は
【同時に普遍的】なものであるから
【「仏凡一体」「一切衆生悉有仏性」】である。  〔→更には煩悩則菩提、本覚・始覚へ〕
悉有仏性ではあるが、凡央・衆生が有する
【仏性は】【煩悩・惑に覆蔵されていて】【露われていない】。
前述の如くこれを「如来蔵」と言う。
==

721:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:51:58.66 Jwr9MaLT.net
天台では空仮中の三諦を―。
一切は無自性の故に「空」であるとする空諦(真諦・無諦)、
一切は縁に依って仮に存在すると肯定的に見るのが仮諦(俗諦・有諦)、
空・仮と一面的に考えず、この二つを越えた存在の第一義を示すのが中諦(中道第一義)である。
そしてこの三諦が究極において別々に隔歴することなく
「相即(融合)」すると見るのを「三諦円融観」と言う。
==
原始仏教においては「中道」は主として
「不苦不楽の中道(苦行と快楽の両極端を排斥)」
を意味していたが、大乗においては、
形而上的体験的に、対立を絶した不二・空の意に深められた―。
「涅槃の四徳」としての「常楽我浄」は、
凡夫の「常見」としての常楽我浄と、
それを否定する「断見」としての小乗の無常・苦・無我・不浄の、
二つの四顛倒・四倒見を超克した境地である。
常・無常を超えた絶対的の常、
苦・楽を超えた絶対的の楽.
我・無我を超えた絶対的の我.
浄・不浄を超えた絶対的の浄 が四徳の常楽我浄で.
それは「空」の世界の四面を表わしている.
==

722:神も仏も名無しさん
19/03/31 20:54:30.55 Jwr9MaLT.net
>しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
>【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。
>そこで大乗の涅槃はついに「無常」をさらに否定・超克して
>【高次元の「常」の世界に・・・・・・

723:パーピマン
19/03/31 21:35:45.98 OqAzpJGP.net
>しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
> 【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。
そしてここから、二種のバカ・・・・・先尼外道と自然外道が生まれるとww

724:神も仏も名無しさん
19/03/31 23:00:48.84 Jwr9MaLT.net
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)

725:宝珠真範@迦楼羅
19/03/31 23:42:09.63 lQSdb2U6.net
>>717
一体、何が神智学なんだい!
だから、そうやって自分の無理解を
いつまでもいつまでも神智学のせいにして説明責任を逃げるんじゃないっていうの。
いやいや.望むも何も...。
今、ここで問題にしてるのは“ブッダの教え”でしょうよ!!
で、涅槃とは常住にして永遠の境地だと認めるのかな?
そして、ブッダが教えたのは、真実の自己の探究とその実現であるということは理解したのかな?
つまり、涅槃の境地とは真実の自己(真我)の実現のことなのだと認めますか?
それが涅槃を、自分が涅槃に達したものとして自覚する所以だということを。
そして、無くなる自己とは、煩悩に塗れた自我意識なのであり、
低級な性質の自己のことをいってるに過ぎないのだということを。
これらすべては経典内容と何も矛盾しない。
矛盾してるのは自分(あなた)の頭の中だということ!!
もう、さっさと素直に白旗を上げなさいな!
意地っ張りは、ただ見っともないだけだ。
以上.

726:神も仏も名無しさん
19/04/01 01:49:08.27 Oe74HNWc.net
>>694
「苦であるものは、我ならざるものである」って・・・  一体この文章、どっから持ってきたんだよ?
この文章だと、「苦であるもの」は、「我」ではないけど存在する、っていう
含みを持っちゃうぞ。
同じように、「色はアートマン(真実の自己)ならざるもの」 っていう文章にしちゃうと、
「色」が「偽の自己」として存在することになっちゃう。
もう、おまえの主張はめっちゃくっちゃだよ。
そもそもアートマン(真実の自己)とは「一」として全ての物を内に含んでいるから、
>>470の文章を、「○○はアートマン(真実の自己)のものではない」、という風に読み取るのはおかしい。
ありとあらゆるものはアートマンに包含されていて、アートマンのものではないものなんて無い。
しかし、アートマンを今の自分と別異のように扱って、目指すべき対象としたり、
自己が変化(進化)して達成せられるべきものとするのは、
非常に誤ってる。
釈迦の教えが錯覚を取り除くことに始終しているのは、基本的に、我々の自己の内奥が
唯一性のアートマンであることを知っているからだよ。
自分とは別に目標にするものではなく、また、自分を変化(レベルアップ)させて得られるもんじゃない。
そういった自分とは別のものじゃなく、「本来」なんだよ。
だから、全体を一としてみる唯一性ではなく、「個」としてみる錯覚を無くせばいいと言ってるわけ。
その錯覚を無くせば、「本来」なわけだ。
宝珠の考え方は、本来の唯一性のアートマンからも外れてるし、仏教の教えからも逸脱してる。
もうこれは宗教でもスピリチュアルでも何でもないよ。
狂ってる。

727:神も仏も名無しさん
19/04/01 01:57:00.08 yjLFs5x2.net
>>725
>つまり、涅槃の境地とは真実の自己(真我)の実現のことなのだと認めますか?
涅槃の境地とは真実の自己の実現である
とお釈迦様は説法しましたか?
如来の滅後は完全なる涅槃に入るので輪廻から解脱するようなことは説いていたと思いますが
・「如来は死後存在する」のではない
・「如来は死後存在しない」のではない
・「如来は死後存在し、かつ、存在しない」ということはない
・「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」ということはない
と箭喩経でマールンキヤープッタの問いに対して答えていて、死後に完全なる涅槃に入れば真実の自己が実現するというようなことは言いませんでした。
スッタニパータ
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
ヴァッチャ火経
「五蘊として如来を認知する者は、如来にはその五蘊は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は意識という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、〔底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく〕再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない」
どこにも死後般涅槃すれば真実の自己が実現するとは説かれていません。

728:神も仏も名無しさん
19/04/01 01:57:17.25 yjLFs5x2.net
生きてる間の涅槃については無記です。
ウダーナの涅槃に関する経でも「そこには識別される何かがあるのではなく、またそこでは私は何も説かない」と引き算で説明していることはしていますが、結局は無記です。
もちろん経典を色々と足し合わせて「ブッダはこう悟ったのだ!」と個人が思うのは自由ですが、それが真相だとか人に押し付けるものではないと思います。
もちろん、お釈迦様本人の言葉で「涅槃に入れば真実の自己が実現する」と説いている経典などがあって、私がそれを知らないだけという可能性も多々ありますが。

729:神も仏も名無しさん
19/04/01 02:15:01.33 yjLFs5x2.net
>>726
バラモン教の仙人であったヤージュナヴァルキヤにおいては認識されるものはアートマンではありません。
つまり、お釈迦様が色とか識とか眼識とか耳識とか名付けた認識の対象となるものはアートマンとはされません。
 ヤージュニャヴァルキヤ
  「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 
URLリンク(user.numazu-ct.ac.jp)
ただし、お釈迦様のいうアートマンとはヤージュナヴァルキヤのいうアートマンともまた違うようで、不壊であると同時に思う通りになるもの(苦ではないもの)をお釈迦様はアートマンとしていたようです。
アートマンの有無について聞かれた時は答えるのを避けていましたのはご承知の通りですね。

730:神も仏も名無しさん
19/04/01 06:18:25.80 Oe74HNWc.net
>>729
全然間違った解釈をしている。
アートマンとは認識主体そのものであって、そしてアートマンとは「唯一」のもであって、
「一切」がアートマンであって、一切が認識主体であるということ。
なので、本来、「認識対象」というものは存在しない。
もし、「認識対象」というものが存在したら、そこには区別(差別)が起こることになり、
アートマンの唯一性を破壊することになる。
もし、色はアートマンではない、識別作用はアートマンではない、と、区別すれば、それ自体が認識対象を見ていることになり、
「認識主体」と「認識対象」に分裂していることになる。
『実にその人にとって、一切が自分自身のアートマンになった場合に、
かれは何によって何ものを嗅ぐことが出来ようか。』
(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
『しかし、他を見、他を聞き、他を認識する場合には、それは小である。
・・・・しかし小は死すべきものである。』
(チャーンドギヤ・ウパニシャッド)
『この世において多様であるかのように見るものは、死から死に至る。』
(ブリハット・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
「色とか識とか眼識とか耳識とか」を認識対象として、これらはアートマンではない、と、
区別するのではなくて、アートマンと平等と見れなければ、唯一性は保てない。
アートマン以外のもの(認識対象)は存在しない。
『しかしアートマンにおいて一切万有を見、一切万有においてアートマンを見るものは、
それから畏縮することはない。』
(イーシャー・ウパニシャッド)
『一切万有の中にかくされているこのアートマン。』
(カタ・ウパニシャッド)
『最高の自在主は一切万有の中に平等に住す。』
(バガヴァッド・ギーター)

731:神も仏も名無しさん
19/04/01 06:29:25.90 Oe74HNWc.net
>>>>729
>不壊であると同時に思う通りになるもの(苦ではないもの)を
>お釈迦様はアートマンとしていたようです。
だからそれは >>470 を、勝手に、
自分なりに解釈したんだろ?
な~にが 「お釈迦様はアートマンとしていたようです」、だ。
勝手に決めるなよ。
>アートマンの有無について聞かれた時は答えるのを避けていましたのはご承知の通りですね。
何が「ご承知の通りですね。」だ。
気持ち悪いなぁ~
言ってることが矛盾してるだろうが。
お釈迦様が言及を避けるってことは、示唆することも避けるってことだ。
バカじゃねーか?
ご承知の通りだったら、「無我」は「真実の自己ならざるもの」じゃなくて、
「(単なる)自己ならざるもの」じゃねーか。
アートマンの有無について回答を避けてる人が、「それはアートマンじゃない」「これもアートマンじゃない」っていうか?
よく考えろ。

732:神も仏も名無しさん
19/04/01 07:26:04.23 yjLFs5x2.net
>>729-730
改めて
URLリンク(user.numazu-ct.ac.jp)
ここに書いてあるヤージュナヴァルキヤのアートマン論を理解できるまで何度も読んでください。
そして
この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
の意味が分かるようになってくださいね。
認識の主体を認識したら認識した瞬間にそれは認識の客体へと変わり認識の主体ではなくなる。
ですから非らず、非らず、でしかアートマンは表現できない。
色は認識の客体だからアートマンではないのですよ。
受想行識も客体だからアートマンではないのですよ。
あとお釈迦様がアートマンの有無について聞かれた時に答えるのを避けていたのは事実でしょう。
もしあなたが事実ではないというのなら
URLリンク(zhaozhou-zenji.hatenablog.com)
URLリンク(manikana.la.coocan.jp)
を読んで事実ではないということを確認してください。
合掌

733:神も仏も名無しさん
19/04/01 13:30:03.19 Oe74HNWc.net
>>732
こいつアホだぁ~
ときどきコイツ出てくるよね
あたかも自分が知ってるかのように、教師ぶってるやつ。
一番気持ち悪いのは、こういう言い方しちゃうところ。
>の意味が分かるようになってくださいね。
こいつは自分の論が一番正しいと思ってて、しかも、それを論証しなくても
世間に通用すると思ってる。
非常に幼稚な、自己中心的な態度。
「○○はこうなんだよ。」 までだったらまだいいよ。
こいつが気持ち悪いのは、
「○○はこうなんだよ、だから考えを改め治してくださいね。」 というところ。
ここまでくると仏教の議論以前に、精神的な回路に問題があるというしかない。
こういう人は議論スレや、公共の場所でやるんじゃなくて、自分の妄想を自由に語れるブログとか、
ツイッターでやるべきだよ。
あるいは独自で自分のためのスレを立てるか。
ここで割って入られたら迷惑以外の何ものでもない。

734:神も仏も名無しさん
19/04/01 13:40:56.20 yjLFs5x2.net
>>733
人のことを言う前にまずあなたが
>>731
で使っている
>気持ち悪いなぁ~
>バカじゃねーか?
>よく考えろ。
という言葉遣いから見直した方がいいと思いますよ。
>>733での言葉遣いもまた酷いですけどね。

735:神も仏も名無しさん
19/04/01 13:51:12.68 yjLFs5x2.net
読み直したら私が書いた
>>732
>あとお釈迦様がアートマンの有無について聞かれた時に答えるのを避けていたのは事実でしょう。
>もしあなたが事実ではないというのなら
URLリンク(zhaozhou-zenji.hatenablog.com)
URLリンク(manikana.la.coocan.jp)
>を読んで事実ではないということを確認してください。
この最後の一行が自分でも分かりにくいかな、と。
を読んで事実ではないというあなたの言い分が正しいのかどうかを確認してください。
に改めさせて頂きます。

736:神も仏も名無しさん
19/04/01 13:59:27.37 Oe74HNWc.net
>>732
それで、コイツが愚かななのは、自分のレスで自分の間違いを
暴露しちゃってるところ。
理解しないでしゃべってるから、そういうことになる。
>この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
って、書いてあるだろ?
真にアートマンを知ってる人は、認識対象が存在しないことを知っている。
認識対象が存在しないということはどういうことかというと、すべてがアートマンに帰してるときだよ。
すべてが認識主体であれば、どうやってその認識主体を認識できるのか、一体誰が認識し、アートマンを認識対象に出来るだろうかと
そのウパニシャッドは言っている。
色がアートマンのものではない、となれば、そこに分離が起こる。 つまり、認識対象が生まれる。
つまり有無の二元性が生まれる。
『二元が存在するかのように思われる場合は、AはBを見る。』
(ブリハッド・アーラニカヤ・ウパニシャッド)
二元性が存在しないというのは、アートマンに全ての物が帰一し、唯一になってるから
対象が存在しないということだ。
ありとあらゆるものがアートマンにならなければ、アートマンの唯一性が壊れる。
すなわち、二元性が生まれる。
また一方で、「そうではない、そうではない」、というのは、アートマンを全体として捉えようとした時だ。
アートマンとはこういうものだと、定義づけをしようとしたとき。
そのとき、アートマンを対象としてしまってることになる。
ならば、認識対象としている認識主体は誰か? という誤りが起こる。
アートマンを個として捉えると、内と外が生まれ、認識対象化され、外側から見ていることになる。
だから、そういう風に捉えようとすることに対して、ただ、「そうではない、そうではない」として、
アートマンを個別化することを避けるんだよ。
『内も外もなく』
(ブリハッド・アーラニカヤ・ウパニシャッド)
『内も外も含み、不生であり』
(ムンダカ・ウパニシャッド)
全ての物をアートマンに包含すると見た場合は、すべてにおいてアートマンが遍満すると見るのが正しい。
「すべてのもの」を外側から対象化するとしたら、それは「そうではない、そうではない」 ということになる。

737:神も仏も名無しさん
19/04/01 14:08:37.35 Oe74HNWc.net
>>735
「Aは自己ではない」という文章と、「自己は存在しない」という文章が
違うということに気付け。
「Aは自己ではない」というときは、「自己」の存在自体の有無を
判別しているわけではない。
仏教は二元性を越えた中道を本分としているから、有無に関してはあくまで
「非有非無」の立場をとる。

738:神も仏も名無しさん
19/04/01 14:20:19.47 Oe74HNWc.net
補足:
相対否定で「そうではない、そうではない」といって唯一性を示すのも、
「すべてがアートマンである」、といって唯一性を示すのも、
二元性を排除するということ関して同じなんだよ。
「すべてがアートマンである」ということは、「相対否定」と同じということ。
たとば、「鳥も雲も花もアートマンである」というとき、アートマンは限定されていない。
すべてが無限のアートマンになっている。
ところが、「アートマンとは○○というものだ」と限定するとき、内と外、認識主体と認識対象、など
二元性が生まれる。
だからこの二元性を生み出すような限定がアートマンにおいてなされようとするとき、「そうではない、そうではない」といって、
その限定を解除するわけだ。
相対否定ということが、「そうではない、そうではない」の真意ということ。

739:神も仏も名無しさん
19/04/01 14:57:19.94 Jel9xS3/.net
>>734
貴方と問答している人はセブンといって臨済宗のお坊さん
臨済宗では罵倒したり足で蹴ったりの暴力的指導が当たり前
だからセブンも自分の暴言は正しいものと思っている
それが臨済宗の伝統なのだから
先輩の雲水の暴力的指導に耐えきれないといっぱしの臨済宗の僧侶にはなれない
優しい僧侶では荒々しい臨済宗僧侶会で渡り歩けないからね

740:神も仏も名無しさん
19/04/01 15:16:49.79 bUPUxDnI.net
おいおいw
ワシは、彼とレスの遣り取りしたことは一度もないぞ? >>739
IDくらい確認しとけよ。
口が悪いのは認めるけどw

741:パーピマン
19/04/01 15:17:20.59 LSpGBD21.net
ID:Oe74HNWc は、セブンじゃないよw

742:パーピマン
19/04/01 15:18:24.62 LSpGBD21.net
セブンは、もっと口が悪いwww

743:神も仏も名無しさん
19/04/01 16:36:55.35 yjLFs5x2.net
>>736
やはり読めてないですね。
「この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか」
というのは
「ああ、認識の主体を何によって認識することができようか」
と同じ意味です。
ですから、非ず非ずでしかアートマンは表現できないわけです。
あと、全てにおいてアートマンは内在している、と全てはアートマンである、では意味が違うのにあなたは一緒くたにしていることに気づいていますか?
鳥や雲や花がアートマンであるというのと鳥や花や雲にもアートマンが内在している、というニュアンスの違いに気づいていますか?
内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。
>塩の塊には内も外もなく、完全に味の塊であるように、このアートマン(自己)には内も外もなく、完全に英知の塊のみである。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4巻5章13節)
引用するなら部分だけではなくこのように全体を引用しないと。
『内も外も含み、不生であり』
(ムンダカ・ウパニシャッド)
これについてはあなたもお読みになっているでしょうシャンカラ本に記載のパリサンキヤーナ想念
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
において、その言葉の直前にこの言葉があります。
>また、私を信愛する者もその反対の者も、身体と感覚器官の集合体のみに注意を向けて、
>〔私に〕好ましいもの、好ましくないものなどを結合させようと願い、その結果、善業と悪業などを得るのである。
>善、悪の業を得るのは、それらの人々のみであって、不老、不死、不畏の私ではない。
ここを無視して自説に都合の良い言葉だけ引用しては駄目です。
善悪の業をえるそれらの人々と、不老不死父畏の私は違うのですから。
あとアートマンの解釈もウパニシャッドによって微妙に違うし、それらをまとめたシャンカラは最終的にはアートマンブラフマンに帰するけども幻影のマーヤというものももってきていたはず。
あなたは現象世界のマーヤまでアートマンそのものだと言っているようですが(鳥や花や雲の例から察して)、それは違うのではないですか、と問わせて頂きましょう。

744:神も仏も名無しさん
19/04/01 23:57:38.10 Oe74HNWc.net
>>743
こいつ気持ち悪いほどアホだぁ~
>「この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか」
>というのは
>「ああ、認識の主体を何によって認識することができようか」
>と同じ意味です。
だからぁ、>>736に、
>認識対象が存在しないということはどういうことかというと、すべてがアートマンに帰してるときだよ。
>すべてが認識主体であれば、どうやってその認識主体を認識できるのか、
って書いてあるだろ?
おかしなこと言ってんじゃねーぞ。
何が、やはり読めてませんね、だ。  気持ち悪いなぁー
>あと、全てにおいてアートマンは内在している、と全てはアートマンである、では意味が違うのにあなたは一緒くたにしていることに気づいていますか?
>鳥や雲や花がアートマンであるというのと鳥や花や雲にもアートマンが内在している、というニュアンスの違いに気づいていますか?
>内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。
こいつ気持ち悪いわぁー
内在じゃねーよ、何もわかってねぇじゃねーか、こいつ。
「アートマンが内在している」って、主体と述語に分離してんじゃねーか、バカが。
認識主体と認識対象に分かれないって言ってるのに、なんでアートマンが何かをするんだよ、バカが。
で、こいつが全く分かってない、ってのが明らかになったんだけど、内在ってことは、アートマンと鳥、花、雲などは別ものだってことだよね。
分別しちゃってる。  
こういう典型的な二元性の文章を書きながら、平然とウパニシャッドの文章をコピペして
知ったかぶりしてくる。
挙句の果てには、重要箇所の抜き出しを、全体の文章を抜き出さないといけないと、
難癖をつけ、知ったかぶりして全体をコピペしたものの、全く意味が変わらないというw
バカじゃねーか。

745:神も仏も名無しさん
19/04/02 00:05:34.77 7WxZmlgB.net
シャンカラはウパニシャッドの相対否定を越えて、アートマンを説明しようとしているのであって、
ウパニシャッドの真意がわからないやつがシャンカラの教えを見ても、
曲解するだけで理解なんて出来ないだろ。
あと、アートマンの教えの基本はウパニシャッドだからな。
シャンカラの文章を真意もわからずに絶対視して、ただコピペすればいいってことじゃないからな。
こいつ、全然自分の言葉で語ってないだろ。
自分で理解してないのに、ただウパニシャッドだ~、シャンカラだ~、と、コピペ引用が主体になっちゃってる。
自分で咀嚼出来てない。
ただ表面的な理解だけで、わかったと思ってる。
バカじゃねーかコイツ。
気持ち悪いなぁ~。
虫唾が走るよ

746:神も仏も名無しさん
19/04/02 00:18:49.46 7WxZmlgB.net
>>743
>内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。
だからそう書いてるだろうが、オレがウパニシャッドから引用して。
頭大丈夫か?
それで、おまえはその意味分かってないだろ?
なぜ内と外が無いか。
オレが前のレスで説明したから、今は答えられるかもしれないけど、
全然意味わかってなかっただろ。
全部丸写しじゃん。

747:神も仏も名無しさん
19/04/02 01:20:13.40 aAkqhLVD.net
>>744-776のレスを拝読して、これ以上やりとりしても決して分かり合えることなく悪い方向に向かうだけなのがよく分かりました。
互いにとって益がなく戯論を繰り広げるだけだろうというのがよく分かりました。
もうこれ以上レスはしません。自分まで口汚くなりたくもないですしね。
>>744-776の人はその人が信じるアートマンをどこまでも持ち続けたら良いでしょう。

748:神も仏も名無しさん
19/04/02 01:34:14.54 7WxZmlgB.net
>>743
>あなたは現象世界のマーヤまでアートマンそのものだと言っているようですが(鳥や花や雲の例から察して)、
>それは違うのではないですか、と問わせて頂きましょう。
稚拙な判断を基に反論したり、引用したり、こういうやつは議論するのが大変。
こいつの稚拙な理解をいちいち尻拭いしてから反論しないといけない。
「アートマンそのものだ」というのは、オマエの稚拙な理解でそう聞こえるわけだよな?
おそらくコイツは、アートマンというものを限定していると思ってるんだろ。
違うんだよ。
認識主体のみであれば、他に一切の認識対象は存在しない
すべてがアートマンに帰一すれば、すべてがアートマンにおいて平等になるんだよ。 わかるかな? わかんねーだろうな。
アートマンにおいて平等ということは、それらが「空」になるということ。
あれもこれもアートマンで区別がなければ、どうして鳥、花、雲、というものが実体を持っていることになる?
何がマーヤーがアートマンだ、ボケナスが。
こいつは唯一性の特徴を理解出来てないよね
こっちの言ってることが何を言ってるんだか分かってないんだろ。
何もかもがアートマンだったら、アートマンを明示出来てると思うか?
「雲がアートマンだったら雲の内と外が出来るだろう」って、こういう稚拙な考えしか出来ないんだろ。
バカじゃないか?
雲も鳥も、花も、その隣の空間も、右も左も、上も下も、みなアートマンだったら
アートマンを明示できるか?
限定することが出来るか?
内と外があるか?
よく考えろ、このボケナス。

749:神も仏も名無しさん
19/04/02 01:44:06.33 7WxZmlgB.net
>>747
今後一切話しかけないでくれ。
汚い言葉を使うのは、あなたがあまりにも気持ち悪い態度をとるからだよ。
自分の考えてることは正しい・・・ ここまで思うのはよい。
だが、あなたは間違ってるからこうしたほうがいいよ、的なことを言うのは、もはやどちらが正しいかを計る議論じゃない。
議論にはならない。
最初から自分の方が高レベル、相手が低レベルだと見下して、そのような態度でレスをするもんだから、
議論じゃなくて、まるで「師」のように振る舞ってる。
こういうヤツはもっとも議論スレで嫌われるということを気づいた方がいい。
おまえの主張を土台にいろんな議論を展開したとしても、そこにあるのは
矛盾と御解釈に気付くだけだよ。
試しにやってみるといい。
コピペではなく、自分の言葉で語ったら、あっという間に矛盾に陥るから。
それが分かってるから、自分の言葉で語れない。
コピペ引用で議論したつもりになってる。
こういうヤツは議論スレに来るべきではない。
時間の無駄。

750:宝珠真範@迦楼羅
19/04/02 05:32:55.81 xxm5SiiQ.net
>>726
>この文章だと、「苦であるもの」は、「我」ではないけど存在する、っていう
>含みを持っちゃうぞ。
いや、何も間違ってはいない。
仏教が説くところの苦を感受するのは“仮和合の自己”のことです。
それはつまり、形而上的な意味での実在(実体)という意味ではなくて、
日常において、我々が普段から自覚し意識するところの状態の自己です。
つまり、いつも歯を磨いたり、上司に叱られたりしてる自己のことだ。
仏教では、それはアートマンではない自己だというのです。
>ありとあらゆるものはアートマンに包含されていて、アートマンのものではないものなんて無い。
あなたのそれは「一元論」でしょう。
『ウパデーシャ・サーハスリー』とハマルシは読むから一元論の内容は分かってる。
しかし、“ブッダの教えは一元論ではないから” (要するに「二元論」なのです)。
一元論の視点だけを唯一の絶対のものとして、元々、一元論ではない教えについて述べているこの私を、
「それは一元論ではない」といって批難するのは完全にアホのやることだ。

751:宝珠真範@迦楼羅
19/04/02 05:34:18.75 xxm5SiiQ.net
>釈迦の教えが錯覚を取り除くことに始終しているのは、基本的に、我々の自己の内奥が
>唯一性のアートマンであることを知っているからだよ。
いやいや.そんなことは解ってる。
ただし定説上、仏教的にはウパニシャッドのアートマンとの同一性はまだ認められてはいない。
あくまでもただ個人において、そう読み解く者がいるというだけだ(私の様に)。
>だから、全体を一としてみる唯一性ではなく、「個」としてみる錯覚を無くせばいいと言ってるわけ。
>その錯覚を無くせば、「本来」なわけだ。
百も承知だ。
>宝珠の考え方は、本来の唯一性のアートマンからも外れてるし、仏教の教えからも逸脱してる。
>もうこれは宗教でもスピリチュアルでも何でもないよ。
仏教は二元論だ!
二元論で説くところがブッダの特徴であり、ブッダ独自の素晴らしい手法なのだということをだ。
それがわかってからココに来な!! 知ったかさんよ。
【でなければ、あなたとは対話しない(時間の徒労でまったく無意味だから) 】
何故、ブッダは一元論にて教えなかったのか? それが解ってからココにおいで。
一つだけアドバイスをしよう。一元論で得意になっているようだけど、『ギーター』は読んだのか?
『ギーター』のクリシュナを教えを理解すれば、
あなたのようなアホ(一元論のみを唯一絶対の真理とする見解者)はいなくなるから。
>狂ってる。
「鏡」は無いのか?
とにかく、出直して来な!
あなたには以上だ!!! お・わ・り

752:宝珠真範@迦楼羅
19/04/02 05:38:44.71 xxm5SiiQ.net
>>750
誤字訂正:
 正-(ラマナ)マハルシ

753:神も仏も名無しさん
19/04/02 17:38:33.20 w4wXCkCQ.net
たまたま拾ったものだが、結構面白かったw
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)

754:神も仏も名無しさん
19/04/02 22:21:23.08 w4wXCkCQ.net
今、クローズアップ現代で、
元号の案の考案者捜しをやってるが、
NHKまで、そこまでやらんでも・・、と少々げんなり・・。
勿論、世間の興味として、或いはエンターテインメントとして、
或いは、何らかの経済的波及、知的文化的啓蒙として、
今の時代には、あってもいいムーブメントかもしれんけど、
NHKだけは、そういうミーハー要素とは一線を画していて欲しかった・・w
いや、わかる。
(日本人としてという面もあろうが)、
娯楽を求める現代人・知的遊戯を楽しむ文化人、人生に余裕のある生を生きていられるものにとっては、
実に、興味をそそられる話。
けれども、
「元号の主たる考案者が知りたい!」 ってのと
「涅槃を知覚する主体が知りたい!」 ってのと、
全く同じなのよね・・・。

755:宝珠真範@迦楼羅
19/04/02 23:35:51.54 xxm5SiiQ.net
>>754
>元号の案の考案者捜しをやってるが、
『報道ステーション』でも万葉集の研究家○○らしいと紹介してましたね。
取りあえず、見た目も響きもイイので決まって良かったと思います。
>「涅槃を知覚する主体が知りたい!」 ってのと、
> 全く同じなのよね・・・。
う~~ん。そんなに腐らないのぉ!
あのね...別に主体が知りたいのではなくて、
仏典から明らかな諸事実を無視して、ヒンドゥーをコケにしているから指摘してるだけ。
ただ伝統仏教が勝手に、
経典の記述から読み取れる涅槃の知覚主体を示唆する文言を無視して、
部派教団の勝手教義であり、ブッダが言いもしなかった(と見られる)「アートマンはない」という意味での「無我」を説き、
「涅槃には何一つ主体なるものはない」といい、そして、>>581-583でも示した通りの、
“探究すべき真実の自己”“自己の主である自己(真実の自己) ”“完成者である真人”の教えも無視して、
「涅槃には自己なるものはない」と言い張る。
そして、自分らの未熟かつ無理解を棚上げしておきながら、
ヒンドゥーを「有我論」として馬鹿にする...。
まっ、結局は、
信仰なのだから何でも自由でいいんだけれども、
自分らの勝手な誤解にしか過ぎない“ヒンドゥーを「有我論」として馬鹿にする”
その醜態さえ辞めるならば、別に私からは何もいうことはない。
あとはどうぞお好きなだけ自分らの信仰を続ければ、それでいいこと....。
たった、それだけのことですよ。

756:神も仏も名無しさん
19/04/03 00:27:24.05 FsM/KYMB.net
>>750
あなた、そもそも日本語がおかしいんだよ。
>「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」
苦であるものは「我」ではないのは当たり前。
「苦」は「自己」じゃなくて、「自己」が感じるものだよね・・・?(笑)
だからお釈迦様は、「色、識別作用、感受」などを、「自己」と錯覚するな、
と言ってるんだよ。
色が、識別作用が、感受が、(自己が、)「苦」を感じるだろ?
もうメチャクチャじゃないか(笑)
>しかし、“ブッダの教えは一元論ではないから” (要するに「二元論」なのです)。
ここもメチャクチャ。
本来ウパニシャッドのアートマンも、ブッダの教えも、二元論は元より、
一元論をも超えてるんだよ。
だから、「そうではない、そうではない」 ということで、相対否定をしているわけ。
一つの特定された何かを示してしまったら、必然的に、相対的なものを生み出してしまう。
だからハッキリと言ってはいけなかったわけ。
>仏教は二元論だ!
>二元論で説くところがブッダの特徴であり、ブッダ独自の素晴らしい手法なのだということをだ。
仏教の「楽」とは何だよ?
ふだん、われわれ「自己」が感じる「楽」か?
瞑想して頭がスッキリして「楽」になった~、という「楽」のことか?
違うだろ。(知ったかさんよぉ~。)
座を組んで「無」を目指すのが仏教か?  ちがうだろ。
仏教の「楽」とは、「苦楽」を越えた中道にあるんだよ。
「無」を目指すんじゃなくて、「無と有」を越えたところに、本当の「空」があるんだよ。
(わかるかな~? わかんねーだろうなぁ・・。)
二元論を越えたところに一元論があるんじゃないんだよ。
二元論を越えた中道・・・・ イコール 「空」なんだよ
もうね、あなたは仏教は愚か、スピリチュアルも全然分かってないし、
それでは本質は見えてこないだろ。
印象としては、スピリチュアル知識の低レベルな人が、下手な仏教やウパニシャッドの知識を得て、
こねくり回してるという感じ。
だから支離滅裂。
ちょっと、議論のレベルが合わなさ過ぎて、こっちが書いてることや、時間が、
もったいない感じ。
ここまで教えてやる必要があるのかと・・。

757:宝珠真範@迦楼羅
19/04/03 03:37:07.14 8CsUThK2.net
>>727-729
>涅槃の境地とは真実の自己の実現である
>とお釈迦様は説法しましたか?
では、例えばですが(上手な譬えではありませんけれど)、
それじゃ~まるで、「赤ワイン」のことを「“赤色のアルコール”を飲んだら美味しかった」とその人が言った言葉(文章)には、
直接、“「赤ワイン」を飲んだ”とは書かれてなかったから、この記述は“「赤ワイン」のことではない”といってるようなものでしょう。
もちろん、別の飲物ということも在り得ますけれど、しかし、それは文章の前後と全体との繋がりで読み解けば理解されます
(つまり、赤ワインのことを敢えて別の表現でいっただけだったのか、或いはまったく別の飲物かは...)。
ですから、あくまでも文意から読み解かないことには意味がないと思う。
私は、経典の記述から、それは十分に分かることであると主張しています。
ただの繰り返し重複となってしまうため、
後はすみませんけれど、七セブン宛てのレス>>576-578 >>674-675 >>681 >>755...等々を
ご覧頂きたいと思いますm(__)m

758:宝珠真範@迦楼羅
19/04/03 03:39:25.98 8CsUThK2.net
>>756
では、「中道」について少しお話してあげるから、後はおとなしく黙って“消えな!! ”。
“涅槃は中道だ”とはいわない。「中道である」とか、「~ではない」とかさえも超えた領域ですから。
そもそも「中道」というのは「道」のこと、“涅槃に至るための道”のことであって、ゴールである涅槃のことじゃないから。
具体的に言うと、中道とは「八正道」のことをいう。それは“涅槃に至るための八つの道”です。
涅槃は何ら縛りもない。自在そのものですよ。
ということで、あなたの話は~
ゴールに向かうための道(方法論)をゴールの状態そのものと履違えてるということだ。
>二元論を越えたところに一元論があるんじゃないんだよ。
>二元論を越えた中道・・・・ イコール 「空」なんだよ
はいはい。
あなたの願望はどうぞお好きにして!
とにかく、
『ギーター』のクリシュナに学びなさい。
一元論と二元論の関係、非行為と行為の道の関係が示されているから。

759:神も仏も名無しさん
19/04/03 15:53:26.79 FsM/KYMB.net
>>758
「道」というのはその人の「歩んでいる姿」、ということなんだよ。
本来の人の正しい姿ということ。
正しい姿を示しながら、そのように歩みなさい、ってこと。
いわば、ゴールでもあり、目指すものでもあるわけ。
もっと深くいうと、仏教の本義っていうのは、手段とゴールが
同じ(平等)にならなければダメなのよ。
道を方法論としてしまったら、「正見」を直ちに実践しなければならなくなる。
「正見」がいきなり出来るか?
「正見」が方法論だとするならば、「正見」は「涅槃」と別になる。
筏のように捨て去るべきものとなる。
そんなバカなことがあるか?

「迦旃延よ, この世人はたいてい二つ (の極端) に依っている。 『それは有る』 と 『それは無い』 とである。 」
「迦旃 延よ, 世間の集起を如実に正慧もて見るひとには, 世間において無がなくなる。
迦旃延よ, 世間の滅 を如実に正慧もて見るひとには, 世間において有 がなくなる」
「迦旃延よ, 『一切のものが有る』 というのは, 一つの極端 (一辺) である。 『一切 のものは無い』 というのは他の極端 (第二辺) で ある。
之等の両極端 (両辺) を受けないで, 中を 以て如来は法を説く」
もし方法論というなら、聖なる弟子になる成り方を教えるべきだろ?
方法論なのに、いきなり聖なる弟子からスタートするわけないだろ。
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、
また万物を自己のうちに見る。」
「人がその知識により、万物の中に唯一不変の状態を認め、区別されたものの中に区別されないものを認める時、
それを純質的な知識と知れ。」

760:神も仏も名無しさん
19/04/03 20:39:17.18 +Fa55Rrk.net
何も捉われることが無い、ってのは、
言い換えて見れば、
大海に身一つで浮いているようなもんで、
それをこそ、釈尊は「涅槃」だと看破したわけでね・・。
錨も鎖も“もやい綱”もない。ぷかぷか「事象の変遷=縁起」の波に漂うだけ。
そこに、「絶対的に揺るがない足場(自我・真我)」や「すがりつくべき大木(=自我・真我)」が
『あるだろう』『あってほしい』なんて俗っぽい願望を抱くのが愚者でなくて何なのか?とw
浮いていることに堪えられない者だけが、確かなコアを希求する。

761:神も仏も名無しさん
19/04/03 20:45:43.31 +Fa55Rrk.net
浮いていることに堪えられない者は、
縋り得る「島(洲)」を求める。
その時、釈尊が示したのは、
「波の中で、波に乗りながら一定の姿勢をキープするテクニック」
だと思うんだよね・・。
で、それが。「法」であり「自己」である、と。(大般涅槃経)
さて、この「自己」は、いったいどういう自己であろうか?

762:神も仏も名無しさん
19/04/04 00:09:13.88 RwFR0Eo9.net
水に触れないよう橋をかけて苦しみの海を渡る人がいる。
木々を蔓縄で結びつけて筏を作って苦しみの海を渡る人がいる。
真理を見る者は、すでに渡り終わっている。

763:神も仏も名無しさん
19/04/04 12:14:48.70 RwFR0Eo9.net
「敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、
毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、
彼は私にとって愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
「執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
「自己との類比により、幸福にせよ、不幸にせよ、それを一切においても等しいものと見る人、
彼は最高のヨーギンであると考えられる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章
「この世では、決定(けつじょう)を性とする知性は唯一である。決定を欠いた者たちの知性は、多岐に分かれ、限りない。」
(「バガヴァッド・ギーター」第二章)

「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
「すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、
常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私は信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。」
(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)

764:神も仏も名無しさん
19/04/04 13:36:13.88 nRVySoHB.net
ここはヴェーダスレか?w

765:神も仏も名無しさん
19/04/05 00:22:29.93 aoVv/8mH.net
>>760
>>761
パピーマンみたいな文章だな。。。
非常に低レベル
矛盾に満ちてる
>大海に身一つで浮いているようなもんで、
>それをこそ、釈尊は「涅槃」だと ---
>錨も鎖も“もやい綱”もない。ぷかぷか「事象の変遷=縁起」の波に漂うだけ。
縁起の波に漂う『もの』があるから、こういう文章になる
『縁起』という時には全ての物が一体で、わけ隔てなく、『漂うもの』 な~んてのは存在しない
もし存在したら、その瞬間『縁起』が破壊される。
『縁起』の波に漂ってるものの状態が涅槃だなんて、まるで縁起を理解していないし、
涅槃の考え方も大きくズレてる
こういう大きなズレを平然とやらかして、オレ仏教知ってるっていう顔をするのが
パピーマンの特徴
最近文章のおかしなヤツが多いよね。。。。
波にプカプカ浮かんでるのは涅槃だと。。  だと言いながら、浮いてることに耐えられない??
なんなんだこりゃ
涅槃の状態にあるものが、浮いてることに耐えられない、だと。。。
そして極めつけは、波乗りをするテクニックだと(爆)
どこまで行っても『波乗りをするもの』、『浮いているもの』、 
縁起から分離した『もの(独立した主体)』が現れる
この人は縁起をわかってないし、そもそも仏教というものをわかっていない
仏教を洞察できないレベル
これはパピーマンの特徴なんだよ

766:宝珠真範@迦楼羅
19/04/06 03:49:48.49 spJ/hbbD.net
>>765
パーピは、まず殆ど私のスレにおいては、しっかりとコテハンを名乗ります。
対して、七セブンは気分のイイときだけ名乗りますが、しかし、多くの場合は名無しです。
そして、恐らくこの内容と文体からみてこれは七に間違いないでしょう。
これらの下手クソで陳腐な譬え(本人はご満悦)が七の特徴でもありますw
七とは現役禅僧のオッチャンのことです。
そして、この投稿の中で問題となる残念な部分というのは、
ブッダ自らが説き、しっかりと経典にも残されている“真実の自己”の探究の教えを、
勝手にそれらは、「自己がなければ困る...自己を欲している」者の主張のせいへと摩り替えようとしている点です。
ここまできてしまうと、もう、これはブッダの教えに対する非礼と侮辱になってくるものと思います。
確かに、
自分が何十年も信じ続けてきたものが間違いだったと認めることは、
やはり、途轍もなくとても悲しく苦しいものだということはよく分かります。
何故なら、この私もその同じ経験を乗り越えてきたからです。
しかし、勇気を以てそれを乗り越えなければならない...。
本当は、それは悲しい出来事ではなくて、より真実に大きく近づいた喜ばしい出来事だということ。
祝うべく有難いことなのだということを。

767:宝珠真範@迦楼羅
19/04/06 03:52:57.85 spJ/hbbD.net
>>763
私が学ぶようにいってるギーターの教えの部分とは、こういうことですよ。
文章が長くなるので下記リンクに譲りますが、これが以前にした投稿の詳細です(必読必見!!)。
尚、ここでいう「(行為の)遠離の道」及び「哲学サーンキャ」とは、
「一元論アドヴァイタ哲学」や「ジニャーナ・マールガ(知恵の道)」のことです。
 『(行為の)遠離と行為の実修とは、ともに至福(解脱)をもたらす。しかし両者のうちでは、行為の実
修が行為の遠離よりすぐれている。哲学サーンキャが得る境地は、実修者ヨーギンによっても達せられる。
哲学と実修とを(同じ結果を生ずる点で)同一であると見る人は、真に見る者である。しかし、力の強い
者よ、行為の遠離は行為の実修なくしては容易には達せられない。』
(『バラモン経典/原始仏典』ギーター第五章より/中央公論社刊)
 スレリンク(psy板:751-756番)
まっ、仏教徒がギーターを学んだリ、奨めることもないだろうとは思いますが、
しかし、これをしっかりと理解するならば、勝義一辺倒のアホ(私たちは今のこのままですでに悟りの状態にある。
ただそのことに気付いていないだけだといい、だから、特に何も修行すらも要らないとまで言い出す始末)になることはない。
それから、この私が『中論』を認めないのは、ブッダの説かれた有難い二元論の教えを自分勝手に一元論へと組換えようとしているからです。
仏典があれば、『中論』は要らない(私個人の趣向ですが...)。

768:神も仏も名無しさん
19/04/06 10:34:29.96 +WqAyTkG.net
空は実体とか有ではない(かつ無でもない)ので一元論というのは違うと思います。

769:神も仏も名無しさん
19/04/07 00:09:25.65 5/NtSIbc.net
スレリンク(psy板:252番)

770:神も仏も名無しさん
19/04/07 00:58:59.42 0oJ2r7lB.net
>767
まずブッダが説かれたのは、二元論ではないのは明かですよね。
それは>>759のカーティヤーヤナに語った文章でも明らか。
>『一切のものが有る』 というのは、一つの極端 (一辺) である。 『一切のものは無い』 というのは他の極端 (第二辺) で ある。
>之等の両極端 (両辺) を受けないで, 中を以て如来は法を説く
有と無を越えるというのは、有と無がゼロになるということ。
つまり、「相対的な価値判断」が無くなるということです。
「相対的な価値判断」が無くなれば、両者は平等になります。 
差が無くなるので、「どちらでも同じ」、という状況になります。
たとえば、「病気でも健康でもどっちでもいいよ」、「晴れでも雨でもどっちでもいいよ」、
「暑くても寒くてもどっちでもいいよ」、ということと同じです。
なにかの基準において平等ということではなく、空において平等ということですね。
健康基準3において平等ということじゃない。
健康+6も3に見える、病気-6も3に見える、ってことじゃないです。
健康と病気が消えて、まっ平になる・・・
このとき、病気や健康そのものが現象的に消えるということではなくて、価値判断が消えるということです。
これが「空」ということですよね。 「無」じゃない。
中道というのは「空」のこと。
価値判断が消えて両極が平等になれば、両極が有っても意味をなさなくなる。
無いのと同じ。
ブッダが説いてるのは中道ということで、二元論を越えてる
全ての物が平等になる道、空になる道ということで、「一」なる存在も説いていない。
なので、一元論をも超えている

771:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:00:08.68 0oJ2r7lB.net
>>767
ウパニシャッド等のアートマンも、全てのものが平等で、相対を越えているということで
言ってることは同じ。
だから、「このアートマンはただ『そうではない、そうではない』と表現されるにすぎない。」
ということになる。
これは言葉のあやみたいなもんで、アートマンという一元的なものが表現されているが、その内容は、一元的には表せないものだ、
という説明が、いくつもなされてるわけ。
一元的と見てしまうと、自分とアートマンは別で、修行によって達成するものとなっちゃう。
事実、あなたはそうなってるわけで・・。
一元的と見ると、内と外がある存在と見てしまうんだよね。
そこであなたみたいな弊害が起こってくる。
結論的には、ブッダが説いたのは二元論と一元論を越えるものだってことと、中論も一元論ではなくて
一元論をも超えるものだってこと。

772:宝珠真範@迦楼羅
19/04/07 01:13:24.22 FR5bXNow.net
>>769
そういうのは、あくまでも禅の立場のものでしょう。
ハッキリいって禅には仏典は要らないし、要するに全然、読んでないから(苦笑)。
>>770-771
「中道」や「空」を連呼すれば分かってるつもりになってる典型ですね...。
>結論的には、ブッダが説いたのは二元論と一元論を越えるものだってことと、中論も一元論ではなくて
>一元論をも超えるものだってこと。
“そのもの”を指し示すことは不可能です。
それが言語における限界性なのですから。
よって、ブッダの教えは二元論であり、そして、中論は一元論なのです。
だから、教えとして“説いたら”、そのときそれはすでに“そのもの”からは外れたただの「論」になる。
「論」以外を述べることはブッダにも不可能ですから。
>>768
ですね!
「空」というのは、この現象界の実態とその性質を言い顕したものです。
“現象界の事象のすべてには実体がない”という意味です。
なので、これは要するに現象界のことを説明した言葉ですから、
これを「涅槃」のことだとするのは大間違いなのです。
伝統信奉者によく見られる勘違いが、この涅槃は「空」であるというものです。
“現象界が「空」であることを悟ることによって、~涅槃に至る... ”という表現は間違いではないけれども、
しかし、“涅槃が空である”と述べている経文を見つけることはできませんから(あると思う人はそれを提示して下さい)。
同じようなものとして、先ほどの“涅槃は中道である”というものもない。
“中道(~を歩むことによって)によって涅槃に至る”というのは当然ありますが...。
前回、「中道」とは、「八正道」のことであると説明しましたけれど、
この八正道というのは、すべてに必ず「正」がつくのです。
つまり、これは“正誤”という二元論における「正」だということです。
涅槃というものは、その正誤も超えているし、仏道における善の歩みにおいても同じく、
涅槃においては、その善悪の二元も超えているわけです。

773:宝珠真範@迦楼羅
19/04/07 01:20:55.13 FR5bXNow.net
>>770-771
まっ、これ以上は相手するの辞めておきますよ。
* 何度も投稿するつもりならば、コテハンをお願いしたいと思います。
あなたのいいたいことは判らないでもないし、
大変、勉強されていることはよく分かる。それは評価しておきます。

774:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:30:13.82 n/PjHZRL.net
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解
(小川一乗)
URLリンク(fallibilism.web.fc2.com)
小川一乗の唯物論的な真宗の解釈、輪廻の解釈はどうかと思うが、この空についての論文はケチのつけようがないと思います。
空は何かの根源となるものではないし、個人が空性を悟って空と合一するというものでもありません。

775:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:51:53.85 0oJ2r7lB.net
>>767
たとえば、ある惑星には(登りの)坂道しか
なかったとします。
平坦な道、下り坂という概念が無い。
相対的なものが無いので、価値判断が生じません。
なので、「上り坂はキツイ(平坦な道・下り坂は楽だ)」、という概念が発生しない。
とすると、その惑星の人にとっては、上り坂が「あたりまえ」になるわけです。
だから価値判断無しに、淡々と登っていく。
中道と同じことになるわけです。
それで、「行為の実修」、ということですが、これは道元禅師の言う、
「只管~」と同じことです。
「お前の関心は行為にのみあり、決して行為の結果にあってはならない。
行為の結果を、おまえの動機としてはいけない。」
これは例えば、座禅というのは「雑念を無くすため」にやるもんじゃありません。
「無」を目指すものじゃない。
「ただ行う」ってことです。
「ただ行う」というのは前後裁断の「今」にある状態で、価値判断が収束している状態。
たとえば、面接を受ける時に緊張する・・・・
緊張しないで面接を受けれることを「善」とし、面接のときに緊張してスムーズに
受け答え出来ないことを「悪」とする。
とすると、この人は、「善」の結果を求めてあれこれやりくりすることになります。
面接の前に緊張しないようにしようと、心をあれやこれや計らう。
この人は、相対的な概念の世界で生きてる、ということになります。
もしもこの人が、緊張する、しない、という善悪はさておいて、
「ただ面接を受ける」ということにしたとする。
善を目的とするんじゃなく、悪を排除することを目的とするんじゃなく、
「ただ行う」。
そうすると、やがてこの人は、「行う」ことが目的となって、
「結果」が目的とならない。
「結果」・・・ つまり、「善・悪」という相対的な両極が止んで、空(平等)になる。
これが、「行為の実修」、ということ。

776:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:52:36.23 0oJ2r7lB.net
>>767
「行為の実修」を短絡的に、「~~になるための修行」と捉えると、それは「結果」を求めた行為ということになって、
相対的な世界に捉われていることになる。
相対的な世界を脱するには、「~~になるため」ではなく、「只行う」、ということ。
それが中道(空)につながる。
上り坂しかない惑星でも、坂道を行くときは相対的な概念が働かないから、価値判断もなく、
「ただ登る」、ということになる。
登ってる時に、「坂道はキツイな」、「平坦な道はいいな」、と、
良し悪しの相対的な概念は起きない。

777:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:54:28.09 n/PjHZRL.net
>>772
八正道というのは龍樹でいう世俗諦のことで世俗諦は言葉による分別が必要なので正が付くのはもっともか、と。
涅槃が空であるのは、まず涅槃においては識別作用はないということ、これはスッタニパータなどで散々説かれていたと思いますが空は無分別ですから識別作用は死滅しています。
次に前にも書いた覚えがありますが、涅槃について具体的な自説経の涅槃に関する経において、
 「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
―そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所なく、識別無辺なる〔認識の〕場所なく、無所有なる〔認識の〕場所なく、非想非非想なる〔認識の〕場所なく、この世なく、
他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
と説明していますが、涅槃とはこれと示すものは何もない、識別作用がなく無分別な境地であると言えると思います。
涅槃を知覚するのは五蘊で構わないと思います。
同じ自説経のバーヒヤの経で
「見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう~そう出来れば苦しみは終わります」
と説かれています。
見たり、聞いたり、思ったり、識ったりしても想念を働かさなければ行識と進みません。
ですから涅槃を体験するのは想受滅定と言われているのだと思います。

778:神も仏も名無しさん
19/04/07 01:59:34.20 0oJ2r7lB.net
>>775)に補足
・実修ヨーガの中にあって、
 執着を捨て、成功・不成功に対して心を平等に保ち、行為せよ。平等心こそ実修とよばれる。
・結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(2-49) 心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを
 捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。

779:神も仏も名無しさん
19/04/07 02:10:40.42 0oJ2r7lB.net
>>772
>“そのもの”を指し示すことは不可能です。
だからこそ、一元論をも超えているのです。
相対を否定しているってことは、二元論を否定していることと同じですよね。
その上、一元的にもそのものを指し示すことは不可能である、ということになると、
一元論をも超えているということになる。
>“現象界の事象のすべてには実体がない”という意味です。
>なので、これは要するに現象界のことを説明した言葉ですから、
>これを「涅槃」のことだとするのは大間違いなのです。
現象界が「空」ということになれば、この世のすべてのものは平等になる。
たちどころに戦争なんて無くなりますよ。
この世を空と見ることが出来ない・・・・ だからこそ「苦」があるわけで、
戦争があるわけです。
「空」というときには、あらゆる「個我」が無くなっているときで、
それが「縁起」ということになります。
「個我」が相依性によって繋がっている、ということが明らかになれば、「個我」は消滅するんです。
これが「空」ということ。
「縁起」とはワンネスのことで、個我が一つもない状態で
初めて成立するものです。
だから「空」は、アートマンにも繋がるんです。
「空」がないとアートマンは成立しない。
(だからといって、そのアートマン(ワンネス)が内と外のある一つの存在ということではない。)

780:神も仏も名無しさん
19/04/07 02:25:26.79 0oJ2r7lB.net
>>772
>前回、「中道」とは、「八正道」のことであると説明しましたけれど、
>この八正道というのは、すべてに必ず「正」がつくのです。
>つまり、これは“正誤”という二元論における「正」だということです。
>涅槃というものは、その正誤も超えているし、
言葉の説明というのは、注釈がすべてなんですよ。
たとえば、「アートマンは○○というものだ」、というとき、「アートマン」と言ってるから「一元論」とするのは早計なんです。
「アートマン」とは「内と外がない」、とか、「そうではない、そうではない」で現されるとか、
その説明を見ないとダメです。
つまり、注釈によって「相対を越えている」、「内と外のある一つの存在ではない」、という風にされていたら、
そのように受け取らないといけない。
で、「正見」というのも、>>759の、カーティヤーヤナの「正見」とはどういうものですか?
という問いに対して、「無と有の両極が無くなる見方だ」、と、説明しているわけです。
つまり、相対を越えているということ。
なので、「正」と書いてあるから「正誤」の二元性の話をしているだ、と、
短絡的に受け取ってはダメなんですよ。
「正」というのは、「無と有が無くなる(平等になる)正しい見方」、ということ。
「正見」とは二元を越えた見方、ということ。
つまり、中道を見るということが「正見」ということ。

781:宝珠真範@迦楼羅
19/04/07 03:15:39.50 FR5bXNow.net
>>775-776
もう一つ、おまけ。
ご理解開陳の全般においては、まぁまぁ良しとしても...
しかし、一番最初のそれしか知らないことを「中道」と同様に見なすのは如何なものかと?
ていうか、意味合い的にはそれは全然、異なるものだと思いますよ!
まったく北朝鮮のこと(からの偏った情報)しか知らない人間と、
一方、自国(北朝鮮)以外の、世界の諸外国についても知っている人間が採る
自国と世界の関係における姿勢の「中道」とはまったく違うものです。
“両極端にならない中道”と“それしか知らないこと”とは同じではないですから。
中道とは目指すべき理想の歩み方であって、しかし、もう一方の、
それしか知らないことのそれが最も良いものであるとは限らないのです。
だから、これはそういう意味ではない。
>>774
小川氏当人の持つ、
唯物主義者+伝統仏教的ニュアンスから感じられてくるウパニシャッド否定意については同意しないけれども、
それでも、論文全般においてはなかなか良い解説かもしれませんね。
それから説一切有部の説く、“法の実体視”に対する批判という意味合いもまったく同様なのでしょうが、
しかし、“法の永遠性”については動かし難い事実として認めざる得ないものと思う。
「如来が出現しようがしまいが、諸法の法性は存続している」(原始経典の縁起真如/大乗の諸法実相)
>龍樹の「空」においては、「不生不滅の法性」とは、
>「縁起しているものは、自性として生じたり滅したりしているのではない
>という事物の在り方が真実である」という意味です。それ以外の意味がそこにあるわけではない。
(小川一乗)
はい、これについてはイイ!!

782:宝珠真範@迦楼羅
19/04/07 03:29:47.88 FR5bXNow.net
>>770
>中道というのは「空」のこと。
だから、これも違うって!
「中道」は理想の歩み方、正しい姿勢と見解のことです。
しかし、「空」にはそのような意味はまったくないから。それは理想でもなければ望ましいものでもない。
「空」とはこの現象界の実体、その状態そのものをいってるだけですよ。
そう、小川氏の説明が正解です。「それ以外の意味がそこにあるわけではない。」 (小川一乗)>>781
ただ、自分の知ってることだけを書き連ねられても...
見ている側は困惑するだけですね(苦笑)。

783:神も仏も名無しさん
19/04/07 13:11:55.28 0oJ2r7lB.net
>>781
>ていうか、意味合い的にはそれは全然、異なるものだと思いますよ!
価値判断が停止する、という例を示したかったわけです。
わかりやすく。
価値判断が停止するという点については、全く同じ原理なんです。
他と比べることが起こらない。
坂道としては同じですよ。 まったく。
地球でも、その惑星でも、全く同じ坂道を登っていると仮定します。
地球の場合は、「この坂道キツイな」「ここに坂道が無ければ良かったのにな」、と、
価値判断が起こって「両極」が生起します。
その惑星ではもちろん、両極が生起しませんから、「上り坂」についての一切の価値判断が起こりません。
これが両極に対する中道と同じなんです。
つまり、「上り坂」というものは全く同じで消えていないが、「上り坂」に対する「両極」の
価値判断が消えるんです。
(比較して)キツイとか、楽だとか。
この両極が消えることが「空」ということで、その両極が消える道のことを、
「中道」というんです。
中道 = 「両極に捉われない道」 という風に訳すことが出来ます。
このときの両極は相依しているんですよね。
「下り」があるということは、「上り」が意識されているんです。
「(坂などの)起伏のある道」、ということがあれば、「平坦な道」、というものがあるわけです。
「起伏のある道」、ということがなければ、「平坦な道」、というものがありません。
そのような価値判断は起きない。
惑星の例では、ちょうどこのような相依性による生起が、意図的に
起きないようにしたわけです。
中道の状況を意図的に作り上げたということ。
また、「起伏のある道」と「平坦な道」という価値判断の両極は、相依しているから
単独では存在出来ないんだ、(実体がないんだ)、という状態が
「縁起」というんです。
惑星の例では、「起伏のある道」、という価値判断の一辺は、
単独で存在出来ません。
単独で存在出来ないので、「上り坂」という価値判断の概念が
消滅するわけです。

784:神も仏も名無しさん
19/04/07 13:19:55.87 0oJ2r7lB.net
>>783
>「中道」は理想の歩み方、正しい姿勢と見解のことです。
>しかし、「空」にはそのような意味はまったくないから。それは理想でもなければ望ましいものでもない。
その「正しい姿勢」、「見解」とはなんでしょう・・・?
それは、「両極に捉われない姿勢、見方」、ということです。
それが「中道」ということ。
相対的なものが「空」になる、あらゆる二元性のものが「空」になる、
そのようなものの見方が、「正見」というのです。
だから、「中道」 = 「空」 = 「縁起」 ということになるわけです。
すべてのものがアートマンになったとき、そこに価値判断は起きますか?
それは惑星の例で示された通りです。

785:宝珠真範@迦楼羅
19/04/07 15:05:20.29 FR5bXNow.net
>>783-784
あなたのような自分勝手な屁理屈を展開するならば、
そりゃ~もう何でもありでしょ! 
だから、どうぞあなた自身はあなたの好きにやって下さいよ。
>すべてのものがアートマンになったとき、そこに価値判断は起きますか?
「なったとき」ではなくて最初からなってるの。ただ、我々にはそれが分からないということなの。
そして、最も肝心なのことというのは、この二元世界で生きる通常の我々にとっては、
現実的に理解して実践可能なものは、世俗諦(二元論)だけなのだということ。
だから、今のこのままで「すでにアートマンだ! 涅槃そのものだ!」などと連呼したところで実際には何も進展はない。
あなたに『ギーターを』読めといったのは、そのあなたの“勝義的な一辺倒の愚”に気付けということなの。わかる?
以下のこの部分を、あなたは毎日、読誦すると良いのでは?
 『(行為の)遠離と行為の実修とは、ともに至福(解脱)をもたらす。しかし両者のうちでは、行為の実修が行為の遠離よりすぐ
れている。(5-2) 哲学サーンキャと実修ヨーガとを、異なった(結果を生ずる)ものとして愚者は語るが、しかし賢者はそうではない。たと
えそのいずか一方にでも正しく専念すれば、両方の結果を得る。(5-4) 哲学者サーンキャが得る境地は、実修者ヨーギンによっても達せら
れる。哲学と実修とを(同じ結果を生ずる点で)同一であると見る人は、真に見る者である。(5-5) しかし、力の強い者よ、行為
の遠離は行為の実修なくしては容易には達せられない。実修を修めた聖者は直ちにブラフマン(宇宙の最高原理)に到達する。(5-6)』
(『バラモン経典/原始仏典』ギーター第五章より/中央公論社刊)

786:神も仏も名無しさん
19/04/07 16:58:32.43 0oJ2r7lB.net
>>785
>>782
>「中道」は理想の歩み方、正しい姿勢と見解のことです。
>しかし、「空」にはそのような意味はまったくないから。それは理想でもなければ望ましいものでもない。
>「空」とはこの現象界の実体、その状態そのものをいってるだけですよ。
これについては何度も言うように、>>759に載せたカーティヤーヤナの問答で明らかです。
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか?」
「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。
カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、
この世間には無というものはない。
またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、
この世間には有というものはない。
<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、
苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。
ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。
これはひとつの極端である。
また、<すべては無である>という。
これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、
中によって法を説くのである。」
これを見てもまだわかりませんか?
中道というのは「二つの相対を越えた道」、ということ。
それはどういうことかというと、両辺が無くなるということ。
そして、そのように見ることを、「正見」、ということ。
あらゆる相対が無くなるということは、すべてが平等になるということです。
そのとき、相対を持っておのおの差が生じていた「個我(実体)」が、無くなる(空になる)ということです。
これはもう、疑いようがないですよね。
上記の文章からみれば。
またこれは個人の見解や妄想ということじゃないです。
中道が空を説くというのは、一般的な見解といってもいいものなんですよ。
あなたが知らないだけ。

787:神も仏も名無しさん
19/04/07 17:29:17.58 0oJ2r7lB.net
>>785
あなたはまず、「行為の実修」というものが何を指すのか
全然分かってないでしょう?
「行為の実習」とは「結果を目的にしない」、ということです。
なぜなら「結果を目的とする」ということは、分別の価値判断が働いている、
ということになるからです。
結果を求める、というのは、相対的な価値を求めていることになるんです。
・結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(2-49) 心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを
 捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。
「心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを捨てる。」
というのは、二元性、相対を越えるということです。
つまりこれは「中道」のことを言っているんです。
「行為の実修」というのは前にも言った通り、「只行う」ということです。
「結果本意(相対的な価値本意)」ではなく、「行為本意(今行っていることに意識を向ける)」ということです。
もう一度例を上げると、
たとえば、バンジージャンプをしようとするときに、「不安」が起きたとします。
このとき、「不安」を「安心」に変えてから飛びこもうと、あれやこれや息を整えたり、意識を反らしたり、
計らったりすることが、「安心」という結果を求めた行為、ということになります。
つまり、相対的なものに引っかかったものの行為、ということになります。
反対に、心に不安があろうと、それはそのままに、只飛び込む・・・・ それが「行為本意」、
そういう行いをすることが、「行為の実修」、ということになります。
不安や恐怖は消えるわけではなくても、不安や恐怖に捉われなくなる。
不安と安心という相対的なものが、主体にならなくなる。
それは、不安や安心という相対的なものが無いのと同じです。
つまり、それら両極が空になったのと同じ。
どちらでも行為には関係ない、ということで、価値としては平等なわけです。

788:神も仏も名無しさん
19/04/07 17:30:18.89 0oJ2r7lB.net
>>785
そして、「行為の遠離」というのは、これもあなたは全く分かってないでしょうが、
これは親鸞の「信」と同じなんです。
100%完全な「信」というのは、「全てを託する」ということなんですよね。
相対的な価値判断をもとに、ああだこうだしない、ということ。
人は多かれくなかれ、だいたい相対的な価値判断をもとにああだこうだして苦しんでいるわけです。
病気になったら不安になる。
なんとかしないとと、余計なことを考えたり、右往左往するわけです。
相対的な価値判断をもとに、良い「結果」を求めるからです。
「結果」を求めて行為する。
100%の「信」があれば、すべてを任せられるので、良いも悪いもすべてお任せ・・・
そうすると、相対的な価値判断が止むわけです。
つまり、中道に至るということ。
ただ、100%の信というものは、そうそう簡単に出来るもんじゃない。
そこで、「行為の実修」・・・ 念仏があるわけです。
念仏は阿弥陀様に救われようとする、「結果」を求めるものではありません。
もし、救われようとして「結果」を求めるなら、それは相対的な価値判断ということになり、
「行為の実修」にはなりません。
阿弥陀様にもう既に救われているんだ、ということを基に、
念仏をしているわけです。
相対を離れて行う行為のことを、「只」と言います。
相対がないから、何かを求めるということがないから、「只」ということですね。
この相対を越えることを、「行為の実修」というわけです。

789:神も仏も名無しさん
19/04/07 21:15:40.51 5/NtSIbc.net
まぁ、
(幼虫が繭蛹を越えて)「完全な隠居化」を果たした、
ということだろうかね・・・。   >>宝珠

790:神も仏も名無しさん
19/04/07 21:44:27.13 5/NtSIbc.net
宝珠の欠点は、ただ二つ。
 ・「不公平の清算」及び「これまでの不幸の“見返り”と”補償”の希求
 ・「この世に存在するのは事象のみ」ということが受け入れられない
   (→『主体(「私」)のない事象』は存在しない、というこだわり)
寧ろ、
「事象のみの事象」(―こういう滑稽な言い方をしなきゃならないほど宝珠がイカレてるって証左でもあるがw―)で、
世界は構築されてるわけで、
その中に、「意志(≒個我)」を盛り込む余地はあるんだろうか・・?

791:神も仏も名無しさん
19/04/07 22:29:31.33 5/NtSIbc.net
スレリンク(psy板)

792:パーピマン
19/04/08 00:14:56.52 LjPRMiD9.net
>・「この世に存在するのは事象のみ」ということが受け入れられない
>   (→『主体(「私」)のない事象』は存在しない、というこだわり)
通常の世俗における世界観・・・・また、キリスト教やその他の宗教的世界観でも
「わたし」が存在することが、まず全ての前提になっている。
ということは、仏教の世界観の方が圧倒的少数派であって、さらにその仏教の中においてさえ
「わたし」の存在を前提として説かれてきたことが、あまりにも多いw
(悪いことすると地獄で罰を受けるとかねw)
主体を排除した事象のみ・・・・を受け入れるというのは、やっぱり難しいんだよw
でも、そこを納得できなければ、少なくとも釈迦のいう仏教はわからんでしょ?w
人間は、ある行為に焦点をあてたとき、必ず「何が?」とその行為の主体を問題に
してしまう。  行為を単なる一つの事象に落とし込み、その主体を問わない視点は
やっぱり難易度たかいんだろうなあw

793:神も仏も名無しさん
19/04/08 09:32:18.83 CyciMyeY.net
お釈迦様がTwitterトレンド入りしてるから思い出したけど、今日はお釈迦様の誕生日。

794:神も仏も名無しさん
19/04/08 20:44:36.19 WJqVUrrA.net
お釈迦様は4月8日に生まれるがこの生まれがお釈迦様にとっては最後の生まれとなる。
35歳くらいの時に悟りを開き如来(真如から来た者)、仏陀(目覚めた者)、つまり修行完成者となった。
80歳の時の3月15日に入滅したとされる。
さて、お釈迦様にはアーナンダという直弟子がいたがアーナンダはお釈迦様を越える120歳まで生きたとされる。
なぜアーナンダはそこまで長いきできたのか?
それはアーナンダが修行完成者(梵行完成者)であったからと思われる。
修行完成者は請われれば寿命よりも長くこの世にとどまることができる。
アーナンダはお釈迦様からそのことを直に教えられたので知っていた。
もちろんアーナンダは修行完成者であり煩悩を燼滅したので必要以上の生存欲はない。
だが彼には多聞第一としてブッダの教えが正しく伝わるかどうかが気がかりで死ぬに死ねなかったのかもしれない。
アーナンダは後輩の弟子に修行完成者は請われれば寿命を伸ばすことを伝え、それを察した弟子が出来る限り長くこの世にとどまって下さいと懇願したので120歳まで生きることができ、お釈迦様の教えを正しく伝えることができた、のかもしれない。

795:神も仏も名無しさん
19/04/08 21:05:00.13 8v+ljQOq.net
趙州も120と言われるな・・。

つか、在家か?w  >>794

796:神も仏も名無しさん
19/04/08 22:32:35.31 CyciMyeY.net
>>794
その説はなかなか面白いですねw
ちなみに私が持っている大般涅槃経は増谷文雄氏の訳ですが、
それでは「アーナンダよ、もし欲するならば、如来は一劫でも、それ以上でも、生を保つことを得るであろう」と訳されていて、
如来はほぼ不死身となっています。
この訳が正しいのならあるいは如来常住はこの辺が起源なのかもしれませんね。

797:神も仏も名無しさん
19/04/08 23:13:02.70 8v+ljQOq.net
自演を疑いたくなるほど、
どちらも在家臭の強いレスだな・・・。

798:神も仏も名無しさん
19/04/08 23:44:02.35 GOKI8UEV.net
こいつは例の、気持ちの悪いやつだろう >>796

799:神も仏も名無しさん
19/04/09 00:19:47.68 xHmOqjYd.net
>>797(7氏?
>>794の人は在家と呼ばれてる人にそっくりなのですか?

800:神も仏も名無しさん
19/04/09 00:27:56.37 xHmOqjYd.net
Twitterで「花祭り」で検索したら続々とツイートされてますね。
形はどうであれ仏教に帰依ないし心惹かれている人がたくさんいるようで何だか安心しました。
URLリンク(search.yahoo.co.jp)

801:神も仏も名無しさん
19/04/09 01:01:19.16 ZBu/Kn+5.net
気持ち悪いよ

802:宝珠真範@迦楼羅
19/04/09 12:24:23.29 4k/SszXp.net
>>800
私のところでは不動尊をお祀りしているのですが、
この日(花祭り)は祭壇に、(「誕生仏」まではありませんけど)「白象」と“水面に散華を浮かべた飾りつけ”をしています。
寺院に行ける場合には、私も甘茶掛けの供養をしてきます。
 URLリンク(houjugusya.web.fc2.com)
>>801
寺院での本格的な花祭りに初めて参加したときは、この私も少し驚かされました。
でも、参拝する側にとってはなかなか楽しめる変わった行為ですよ。甘茶も飲ませて頂けるし...。
その意味も伝承と合わせて理解するとなかなか微笑ましいものがあります。
まっ、果たして本当に甘茶掛けをお釈迦様が喜ばれるかどうかは分かりませんけれどね(笑)
「誕生仏」というのは、生まれてすぐのお釈迦様が、
右手で天を指さし左手で地を示して自分が「天上天下唯我独尊」であると示したとされるポーズの仏像のこと。
しかし近年は、“お釈迦様って随分と威張って偉そうな人だったんだ”などと批難されるのを避けようとして、
意図的に、「これはすべての人間一人一人が唯一独自の存在であり、そして、皆それぞれに等しく尊いと示したもの」といった、
まるでSMAPの名曲、「世界に一つだけの花---もともと特別なOnly oneオンリー・ワン」的な話へとすり替えたところが圧倒的に増えましたね...。
これはとても残念なことですね!
どーして、そうやって無知なる大衆たちの批難の目から弱腰になって逃げてしまうのか!
これはどう見ても、明らかなに自分が目覚めたひと仏陀であるとの自覚を周囲へと向けて宣言したものです。
それは我々が威張り散らすのとはもののレベルが違うこと。
ゴータマ王子は仏陀となるべき人としてバラモンに予言された者であり、そして、それが見事に成就してこの世に誕生された方です。
究極の完成者たる者は必ずそのことを自認し、その高次の意識境から初めての自覚のメッセージを発するのです。
そして事実、世界にゴータマ王子の他には仏陀という存在はいなかったし、そして、それ以降も二度と出現されることがなかった。
これは、そういう意味のことを伝えている逸話です。
確かに、実際には後付けの神格化かもしれませんが、その意味としては変わらない。


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