19/03/29 12:20:13.74 tYLRvfsk.net
>>656
>つか、「【文言】上」は、ここぞとばかりに引用してもいいくらいなのに。
>それとも、「【文脈】上」使えない?w
あくまでも“大乗の教義”なので、意識的に殆ど採り上げて来なかったということ。
大乗は、当時の上座部に反旗をひるがえして独自の創作経典を制作していったのだけれども、
その創作過程においてヒンドゥーを取り込み利用していくという流れにおいて、
しかし結果的には、テーラワーダが誤解し放棄してきた“ブッダ本来の説かれた「真実の自己」の探究”
という最重要なキーポイントへと独自に近づくことが出来たのだということ。
これを一般的には、“ヒンドゥー化”(反仏教的)と称して批難する評価があるわけですね。
私は読誦経典の一つとして、観音の御縁日(毎月18日)や納骨堂での読経などで唱えています。
>(臨済)禅家が持て余す(w)延命十句の常楽我浄を、
> 神智学的に読み解いてみてほしいもんだw
<<「無常」「苦」「無我」「不浄」>>とは、真逆の世界が涅槃の<「常」「楽」「我」「浄」>>となる。
なるで、涅槃が無我である筈がないのです。セブンの説明にあった「この現象界が無我であるということを悟ること」によって、
という言い方はもちろんとてもイイと思います。現象界が「無我」だと悟って、その「無我」から解脱して「我」の境地へと至るのだと。
>>588の私の説明というのは、真言宗智山派の機関誌における解説を元にしたものです。
(真言宗)だから、より「常」「楽」「我」「浄」の理解が明確なのだと思います。