【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15at PSY
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15 - 暇つぶし2ch795:神も仏も名無しさん
19/01/28 01:40:02.13 lRCvUL0P.net
>>779 レスありがとうございます。
大乗仏教における「戲論」、「勝義諦」の関係について承知しました。
> 戯論寂滅はテーラワーダというよりも龍樹の教えで中論冒頭の帰敬序に出てくる言葉です。
「戯論寂滅」については、下記引用にもある通りテーラワーダにおいても言及され、「papanca」という物語形成の作用、すなわち「分別」を止めて現象のありのままを如実知見することが、実践面で重視されています。
上記を踏まえ繰り返しになりますが、テーラワーダの教理において「分別の相(戯論)が寂滅している」という意味において、勝義諦は「無分別」といえると思われます。
----下記、引用です----
 ゴータマ・ブッダや、その弟子の阿羅漢たちは、「現法涅槃」に達しており、六根六境を滅尽して「世界」を終わらせていただろうが、だからといって、彼らは「知ることもなく見ることもない」ような、石と変わらない存在になってしまったわけではない。
そうではなくて、六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるpapancaであろう。
「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戯論寂滅(papancavupasamo)」であるということだ。
(中略)
 ミャンマーの瞑想センターでウィパッサナーの実践を行っていた時に、指導する僧侶からしつこく言われたのは、「一つ一つの現象のありのままを見よ、イメージを作るな」ということであった。
(中略)
 なぜ私たちは、そのような「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。
それは、本章で引用した経典に繰り返し語られていたように、私たちが、五蘊・十二処・十八界といった認知を形成する諸要素に欲望を抱き、それに執著して実体視する(「我」だとみなす)からである。
(中略)
 私がしつこく言われたのも、このpapancaという物語形成の作用を止めて、苦なる「世界」に繋縛され続けることを終了させるための、親切な指導だったわけだ。
(魚川祐司.仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―)


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