【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15at PSY
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15 - 暇つぶし2ch794:神も仏も名無しさん
19/01/28 00:40:55.90 C0RMr3el.net
>>778
戯論寂滅はテーラワーダというよりも龍樹の教えで中論冒頭の帰敬序に出てくる言葉です。
無分別も空の教えです。
帰敬序
(何ものも)滅することなく(不滅),(何ものも)生ずることなく(不生),
(何ものも) 断滅ではなく(不断),(何ものも)常住ではなく (不常),
(何ものも)同一であることな く(不一義),(何ものも)異なっていることなく(不異義),
(何ものも)來ることなく(不來),(何ものも)去ることのない(不去)〔ような〕,
〔また〕戲論(想定された論議)が寂滅しており,吉祥である (めでたい),
そのような縁起を說示された,正しく覚っ者(ブッダ)に,もろもろの說法者のなかで最もすぐれた人として,私は敬礼する。
(原典:三枝充悳編《中論偈頌総覽》)
無分別については龍樹の空が無自性空と言われてああるように法には自性(特有の性質)はなく空である(法空)であると説かれていることから、
空とは無分別のことであるとも言えます。
無分別であるが故に本来は言葉にはできません。
龍樹において勝義諦とは空のことなので勝義を言葉で説くことはできないのですが、世俗諦の言葉によって勝義諦を(なんとか)表現するのである、としています。
二つの真理(二諦)にもとづいて,もろもろのブッダの法(教え)の說示〔がなされている〕。
〔すなわち〕,世間の理解としての真理(世俗諦)と,また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。
およそ,これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は,何びとも,ブッダの教えにおける深遠な真実義を,知ることがない。
〔世間の〕言語習慣に依拠しなくては,最高の意義は,說き示されない。最高の意義に到達しなくては,ニルヴァーナ(涅槃)は,証得されない。
(中論24章)

テーラワーダは分別説部と自称しているように法をきっちり分別するのを教理としておりそれは勝義においても変わりません。
無分別・戯論寂滅どころか心、心所、色についてこれ以上分別できないところまで分別しています。


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