【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15at PSY
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15 - 暇つぶし2ch600:神も仏も名無しさん
18/12/30 23:37:31.64 emzwY8u2.net
このスレ的に、経典と言えばパーリ仏典
それ以外の経典は怪しい

601:神も仏も名無しさん
18/12/30 23:37:47.37 ppaYeJSK.net
原田氏の和訳もリンクしておこう。
梵文『小本・般若心経』和訳
原田 和宗(著) 密教文化 2002(209), L17-L62, 2002
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)
実践なくして仏教の理解は無いと俺は思うが、
他者に対する知識なくして他者を批判することは出来ないとも思う。
瞑想にもいろいろなやり方、捉え方があって面白いとも思う。

602:神も仏も名無しさん
18/12/30 23:44:33.55 emzwY8u2.net
まずブッダやサーリプッタ尊者を創作した経典に登場させるのは
モラル的にどうかと思う

603:神も仏も名無しさん
18/12/30 23:55:30.30 ezlS1BdA.net
>>582
空も色も有でもないし無でもない
(参考)
カッチャーヤナよ 、実に 、この世間の多くは 、「有ること」と 「無いこと」の二つに依存している 。
この世間の多くは 、カッチャーヤナよ 、近づき 、執って 、とらわれ 、縛られるのである 。
この世間の多くは、カッチャーナよ、近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。
( 『サンユッタ ・ニカ ーヤ 』一二 ・一五 )
龍樹も仏陀も断定や見解を持ちませんでした

604:神も仏も名無しさん
18/12/31 00:21:16.70 m0NWFRS8.net
>>590
同じ性質を持つから同じもの、異ならないとはならないでしょう
それなら色も受も想も異ならないことになる
ブッダの説いた五蘊説と矛盾する

605:神も仏も名無しさん
18/12/31 00:34:32.44 m0NWFRS8.net
しかし今日は頑張りすぎた
しばらく5chは見ないようにする
見るとつい書き込んでしまうから
勉強になることもあるけど、基本不毛だからね、キリが無いし

606:神も仏も名無しさん
18/12/31 00:36:46.26 m0NWFRS8.net
5chは脳も疲れるし目も疲れる
やっぱり瞑想してる方がいい
さようなら

607:神も仏も名無しさん
18/12/31 00:51:21.51 xcQmKR4S.net
>>591
いろかたち(色)は泡粒のごとくである。
感受(受)は水泡のごとくである。
表象(想)は陽炎のごとくである。
意欲・行為(行)は芭蕉のごとくである。
識別作用(識)は幻のごとくである。
と日の御子(ブッダ)は説かれた。
瞑想するにしたがって、それ(心身)を正しく考察するならば、〔それは〕実体なく(リッタカ)、空虚(トゥッチャカ)である。」
(『サンユッタ・二カーヤ』ⅩⅩⅠⅠ』)
五蘊皆空が正見、正念、正思惟と仏は説きました。

608:神も仏も名無しさん
18/12/31 00:57:45.35 xcQmKR4S.net
>>592
頑張ったというよりも嬉々として連投していたでしょう?
貴方にとっては自説を語るのは楽しい、だから連投をする。
この楽しさ、快楽がもたらすドーパミン体験はくせになるので貴方はまた5ちゃんねるに戻ってきますよ。
しかも近いうちにね。

609:神も仏も名無しさん
18/12/31 01:37:57.11 8uS9Wba3.net
貪りですな

610:神も仏も名無しさん
18/12/31 19:49:23.04 nWq86pVm.net
名色分離智について疑問があるのですが、精神と肉体を別々に分ける状態とのことです。
でも精神は体(脳)から発生していますよね?
分けられないと思うのですが、どう理解すればよいでしょうか?

611:神も仏も名無しさん
18/12/31 21:24:31.72 qzVbfPKT.net
精神のどの部分のことでしょうか。
思考や五感の感覚、感覚に対する好悪の感情については、身体と相互依存的に生じていますが
行、識は身体(脳)から発生しているわけではありません。
思考から抜け出した時、想より深い部分の精神活動が見えますので、その時を堺に、何がどう
錯覚だったのか実感として分かるようになると思います。

612:神も仏も名無しさん
18/12/31 21:43:19.72 qzVbfPKT.net
実践上は、感覚は感覚において感覚として気づき(色)、
感情は、感情において感情として気づく(名)、ということで良いのでは。
大念処経・四念処経では、どういう順序でどこに気づいていくか(学処)が
事細かに述べられていますね。

613:神も仏も名無しさん
18/12/31 21:45:16.94 qzVbfPKT.net
サマタで思考を止めるのは、たぶんほとんどの人ができないでしょうし
もし、たまたままぐれで出来ても、再現性がない場合がほとんどだと思う。

614:神も仏も名無しさん
18/12/31 22:00:37.20 OkfMIgn7.net
だから、
「専門家(→僧侶、比丘→出家行者)」と「一般人(→凡夫、善男子善女人→在家信者)」との別が
設けられていたわけで。
「仕事しながら」は無理、ってのが初期のスタンスでしょう。
その意味で日本仏教が、
世俗の仕事(→法事・葬儀・子育て・おしどり夫婦・教諭・教育事業・医療・文筆・地域行事・消防団・カフェ・バンド・相談窓口etc.etc.)
等等を主たる業務としながら仏法の顕現が可能だと考えている(寧ろそれこそが布教だと考えている)としたら、
少々歪かな、と。

615:神も仏も名無しさん
18/12/31 22:09:29.35 nWq86pVm.net
>>598
コメントありがとうございます。
なんとなく分かったような気がします。厳密にしすぎるのはよくないのかも知れません。
もっと納得がいくように、書き込まれた内容を吟味してみます。

ちなみに
>>行、識は身体(脳)から発生しているわけではありません。
↑が分かりません。体(脳)から発生していると思うのです。
ちなみに、受・想・行・識、は、脳(一部は体も)生源だと思うのです。
そのように感じます。

616:神も仏も名無しさん
18/12/31 22:16:35.30 nWq86pVm.net
追加させて下さい。
>>思考から抜け出した時、想より深い部分の精神活動が見えますので
↑は涅槃に至った時、なくなるのでしょうか?

617:神も仏も名無しさん
19/01/01 08:18:20.24 jtmTjcIM.net
 
実践したことがないので本当なのか?わからないけど、とりあえず
URLリンク(www.ne.jp)
想受滅
非想非非想の実践を経て
そして、それから
非想非非想も手放し超えて
そして、それから
想受滅の直後に「解脱」するとされているらしい
想受滅においては
いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち受、想、行が滅しているらしい
想がなければ、識も働かないので、想受滅のただ中では
五蘊のうち、心作用と言われる「受想行識」のすべてが滅していることになる
そうすると、物質のみ残り、心作用がない
心作用がないとは言っても、「諸根は浄静である」というから
眼耳鼻舌身などの働きは、破壊されていない
心作用は主観といってよいから、浄静な諸根と客観がある、という状態であるらしい
  _  _  _
たとえば
般若の智慧とか?
平等性智などのような状態?なのかもしれない

618:神も仏も名無しさん
19/01/01 20:10:16.34 bL4QJFsT.net
>>602
わたしも普段はそのように感じています。
気づきが強く連続していくと、意識が瞑想対象から離れなくなって、
思考しようと思っても思考できない状態になってくることがあります。
気づきが、瞑想対象に気づくことに忙しくて、もはや思考を追いかける
ことができない状態です。
その時、思考から抜け出せました。
その状態に五蓋はなく、そこではじめて心所としての信や慈(無瞋)を
経験しました。
その時、五感の感覚も全くないので、その状態を経験してからは
身体と相互依存的に生じている精神現象を相対化できるように
なりました。

619:神も仏も名無しさん
19/01/01 20:12:15.62 bL4QJFsT.net
五感の感覚の有無については、瞑想の種類や深さにもよるだろうと思います。
涅槃ではありません。
ようやく瞑想の入り口ということだと理解しています

620:ポッタン師
19/01/01 20:22:55.13 V3/WlV/A.net
604.バカ丸出し、である。大爆笑である。バカおじゃる、の言う、ことである。

621:神も仏も名無しさん
19/01/02 01:15:09.47 J7VrCjET.net
 
>>603
>>思考から抜け出した時、想より深い部分の精神活動が見えますので
>↑は涅槃に至った時、なくなるのでしょうか?
実践したことがないので本当なのか?わからないけど、とりあえず
URLリンク(junsoyo.on.coocan.jp)
曹洞宗の内山興正
…坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
…ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _
そして更に
非想非非想 → 想受滅 → 解脱智見 → 有余涅槃 → 無余涅槃
無余涅槃
このときは
(思考から抜け出した時の)
想より深い部分の精神活動も滅している(かもしれない?)

622:神も仏も名無しさん
19/01/02 13:54:32.33 DC+ULUYs.net
>>605,606
>>身体と相互依存的に生じている精神現象
この言葉にハッとしました。つまり縁摂受智ということでしょうか?
そう考えると、精神(名)は体(色)から発するという理解も間違いではないのかもしれないと思いました。
つまり相互依存ということですね。それを分けることはできると。
>>604,608
書き込みありがとうございます。
とても参考になりました。

623:神も仏も名無しさん
19/01/02 14:50:36.64 J7VrCjET.net
 
この説明だけだと意味が、わかりにくいけど、とりあえず
URLリンク(yamaneko.hatenablog.jp)
パオ・セヤドー

(仮設としての。仮和合としての)
五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します。これは刹那生滅です

無明・渇愛・取・行及び業というこの五種類の因が
阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時
五蘊もまた般涅槃の時に、余すところなく滅尽します
因縁滅を了知する智慧を、【 因縁滅智 】 と言います

因縁生滅智
刹那生滅智
  _  _  _
たとえば
般若の智慧によって
(刹那生滅智と)
因縁滅を了知する智慧をもって
因縁滅し尽くして
刹那生滅し終わる場合もある(かもしれない?)

624:神も仏も名無しさん
19/01/02 15:25:52.02 J7VrCjET.net
 
ウパニシャッドの
かの神(=有)は
[現象界の]名称と形態をはっきりと展開した
 - これに対して -
スッタニパータ
872
名称と形態に依って感官による接触が起る
…形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない
874
…けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起る
  _  _  _
実践したことがないので、わからないけど
(想いにもとづいて、現れ、変化して、滅している)
(仮設としての)
名称と形態が依存している『想い』を手放して
掴もうとしている『想い』を手放して
という感じなのかもしれない
間違ってたら スマソ m(_ _)m

625:神も仏も名無しさん
19/01/03 22:58:42.43 lqTm6oaa.net
身体の不浄を観ずる(不浄観)のお勧め
『スッタニパータ 第一章 勝利の経』
193 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、─これは身体の動作である。
194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。
195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、
196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
197 またその九つの孔んらはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、
198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。
202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、かれはあるがままに見るからである。
203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。
204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
205 人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。
206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。

626:神も仏も名無しさん
19/01/05 12:09:11.93 N/C9rtul.net
瞑想会って途中参加OKですか?
仕事上フルで出るのは難しいです

627:神も仏も名無しさん
19/01/05 15:10:04.85 uGqIuu+6.net
>>613
主催者さんにお聞きになるのがベターだとは思いますが、
一日瞑想会の場合、大抵は静かに出入りすればOKだと思いますよ。
プログラム進行がみっちり決まっていて、高名なお坊様が指導するような
イベント型の瞑想会の場合は、問い合わせるか主催者側の発表情報を
確認した方が良いと思います。

628:神も仏も名無しさん
19/01/05 19:48:42.39 N/C9rtul.net
>>614
そうですね
そのような時は電話で確認してみます
ありがとうございました

629:神も仏も名無しさん
19/01/05 20:15:18.78 HcP0ceAc.net
十六観智
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)
智慧を16段階にまで分別分析するのってなんかアホらしいといえばアホらしい

630:神も仏も名無しさん
19/01/06 08:59:03.40 7RtEGcBI.net
ある日示していわく、聞いてみよそして見てみよ。又云う、経験してないなら見てみよ、見てないなら聞いてみよ。
つまり、聞いて知るよりは見るのがよい。見るよりも経験してみるのがもっとよい。
まだ経験してないのなら見て学ぶということがあり、見ることがかなわなければ聞いて学ぶということがある。
学道の用心とは自己を投げ捨てることである。自分に執着する態度を改めて、自己を捨てた修行の中に身を投げれば、
心も随って転じていくものである。宋の国には俗人の慣習に、父母の供養のために墓に集まって泣くまねをするというのがある。
すると終いには本当に泣いてしまう。学道の人も、始めは道心などなくても道を好み仏道を学ぶ環境に身を置けば、
自然と本当に道心が起きてくるものだ。初心の学道の人は只みんなに随って修行すればよい。
修行の心得だとか昔からのやり方などを勉強しようなどと思わなくてよい。そのようなことは一人で山に入ったり、
市井にあって行じていこうとするときに役に立つというくらいのものだ。みんなに随って修行すれば道が得られる。
舟に乗ったら船頭にまかせていけばよい。どうやって漕ぐか知らなくてもちゃんと彼岸に着く。
よく心得た船頭にまかせてみんなと一緒に修行して自分というものを捨ててゆけばもはや道人である。
もし悟りを得て、もう悟ったからこれで良い師もいらないと思っても参禅をやめてはいけない。仏道に終わりはない。
悟ったらなお修行である。良遂座主が麻谷禅師に参禅した因縁を思い出すとよい。
正法眼蔵随聞記
URLリンク(kohgetsuji.justhpbs.jp)

631:神も仏も名無しさん
19/01/06 11:47:27.79 TmMnnbcq.net
好意、好きと言う作用は感覚でしょうか思考でしょうか感情と言うものでしょうか
またその現象が起こった場合どのようにラベリングしたら良いでしょうか?
胸がむず痒くなるような、
締め付けられるようななんとも言い難い感覚です。

632:神も仏も名無しさん
19/01/06 11:55:44.07 RrCkGCgp.net
《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》
URLリンク(www.dia.janis.or.jp)

633:神も仏も名無しさん
19/01/07 21:17:31.40 8iivTs+E.net
仏教学んだら
絶対に勝ってやるとか、必ず一位になってやる
という気持ちが無くなっていくのはなぜ?
スポーツ選手なら、絶対金メダル獲る!という執念もなくなりそうに感じる

634:神も仏も名無しさん
19/01/07 21:25:19.12 2jITwcsz.net
メダルを取ることより、仏法を学んで結果を出すことの方が意義があることだからね
預流果になることは全地上の王様になることより価値があることらしいから
希少価値は逆転しているけれど

635:神も仏も名無しさん
19/01/07 21:40:28.86 aosCKaCY.net
>>621
金メダルを取ってから引退して仏法はできるけど
悟りに一生ささげて、金メダルどころか家庭や恋愛もリタイヤですね。

636:神も仏も名無しさん
19/01/07 21:57:01.63 JVr5auvC.net
前提認識として、死んだら終わりと思ってるか、
死んでも輪廻が続くと思っているかで、見方、考え方が全然違ってきますので。
輪廻が続くと、なんとなく信じているのと、
輪廻が続く(続いてきた)のを知っているのとでも、また全然違います。

637:神も仏も名無しさん
19/01/07 21:59:17.25 JVr5auvC.net
映画マトリックスでいうと、
マトリックスの住人で居続けるのか、マトリックスから抜け出すのか。
マトリックス内の価値観の尺度で、マトリックスから抜け出すことの価値を測ることはできないんですね。

638:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:03:11.60 JVr5auvC.net
仏道修行をしない場合、寿命が来たら確実に死にますし、
死んだら欲六界のどこかに転生して、また四苦八苦です。
瞑想がある程度のところまで行っていれば、死ぬのは身体だけですし
(おそらく)脱皮する程度のことでしかありません。
三宝への帰依と布施、戒律が確立していれば、たとえ欲界転生でも
悪趣に行くことはありません。
死んだ後の準備をしないで死に突入するのは、パラシュートなしで
飛行機から飛び降りるようなもんです。
業と業果はありますし、死んだぐらいじゃ解放されませんです。
受験や就職の準備をしないで歳を取ると大変なことになります。
死もそうです。

639:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:07:06.91 zWLnHQDW.net
生き返って苦悩するのを繰り返しても
物事はいつかは終わるから、
最終的にどうなるの?
なぜそんな事を繰り返すの?

640:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:09:36.56 2jITwcsz.net
>>JVr5auvC
仏道に対する確信が強いようで、うらやましいです

641:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:11:29.96 JVr5auvC.net
我々は夢を見ている時、現実の自分を忘れてしまい、夢の中のリアリティに埋没していますが
夢から覚めると現実感と自己認識を取り戻しますし、リアリティも夢のなかよりずっと高い実感
があるはずです。
深さにもよるでしょうが、瞑想にもそういう目覚めの状態があります。


642:> 瞑想状態に入っている時の方が、我々が普段現実だと思っているリアルよりも、ずっとリアルです。 そこで初めて、なるほど「目覚め」と言うわけだと思うはずです。 リアリティはそれぐらい違います。 (自己が想像するような自己ではありませんが、)生まれる前の自己を思い出しもします。 まぁ、いくら言っても実感は湧かないでしょうし、信じられないでしょうから、思考から抜け出す まで、突破するまで瞑想してみて下さい。



643:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:12:38.64 JVr5auvC.net
>>626
分かりません。
分かろうとしています。
>>627
生意気言ってすみません。
すべて仏法僧とのご縁のお陰です。

644:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:16:56.85 2jITwcsz.net
>>629
いえいえ、とんでもありません。お考えを書いてくださってありがとうございます。
まだ悟ってはおられないのでしょうか?
現段階からさらに、悟りの光が現れますようにと、念じさせていただきました。

645:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:17:25.08 JVr5auvC.net
(毎回同じことを書きますが、)
夢や妄想、幻覚じゃないのかとの疑いについては、こうお答えできます。
夢は、眠っていないと見ません。
幻覚は、五感の感覚がないとろには生じません。
妄想は、思考から抜け出した状態にはありません(できません)。
ある種の瞑想状態は、眠っていません。
五感の感覚もすべて消えてしまいます。意識が意識しないので、認識しません。
集中対象に意識を縛り付けているので、思考を追いかけることができないので、思考もできません。

646:神も仏も名無しさん
19/01/07 22:19:56.19 JVr5auvC.net
間違いや不適切があれば、速やかに訂正されますように。
いまだ仏道にご縁のない方が、死を乗り越える機会が得られますように。
三宝と仏道を護る皆様に礼拝いたします。

647:神も仏も名無しさん
19/01/08 00:57:20.80 201ZQJ/H.net
>>631
>集中対象に意識を縛り付けているので、思考を追いかけることができないので、思考もできません。
例えば読経やマントラも読むことや(心の中で)唱えることによって思考を消すのが目的
とは言ってもよほどの精神統一がないと読経中やマントラ唱え中でも思考は湧いてくる
湧いてきた思考は追いかけずにただこういう思考が湧いてきたのを確認したら棄ててまた行の方に集中力を傾ける
棄てようとしても棄てきれずにどんどんその思考に追われることになって読むこと唱えることに集中できないならそれはそれで今自分が抱えている悩みが何かをはっきりと知ることはできる
その悩みは無常苦無我の三相であるとして観察するかそれとも具体的対処法を考えるかはその人の資質で向いてる方を選べばいいと思う
基本的には三相を選んでおけば過度な期待はしなくならので裏切られることはない
ただ時として問題の先送りになるかもしれない
とらわれてるのも三相だとして妄想を巡らすことなくマイナス思考に陥ることなく具体的な対処法を行の後に一考するのがいいのかもね

648:神も仏も名無しさん
19/01/08 08:02:03.93 Av3Uvqek.net
私は難しいことは向いてない思った
悟ったと言われているお釈迦さんの
したことで私でも今すぐに出来ること
を探してみたら食を乞うて歩くこと
これは難しい理屈の理解とかいらず
考えずに簡単に出来るなと思った
結果的には
私の弱い精神と軟弱な身体なのが
身に染みた
今では屋根の下で病弱な状態で
何とか生きてる感じだ
私でも短い期間はできたので
一生食を乞うて生きて死ぬ人がいると
確信している
もう全く出来そうもないので
そんなやり方に
とっても憧れているわ

649:神も仏も名無しさん
19/01/08 09:47:57.56 U453Fxpx.net
>>631
それはただのサマーディ

650:神も仏も名無しさん
19/01/08 10:18:52.83 cBQq2xQ3.net
そうだよ。
それでも五蓋が鎮伏されれば、そのレベルの体験と洞察があります。
四諦を悟るレベルの目覚めは、いったいどんなかと思うと想像を絶しますね。
想像は想(サンニャー)だから、想像したって分かりっこないわけでしょうが。

651:神も仏も名無しさん
19/01/09 11:25:13.77 pnuM+URO.net
 啓蒙啓発動画リスト
URLリンク(www.youtube.com)

652:神も仏も名無しさん
19/01/09 13:37:25.57 q9SrhyLA.net
>618
>胸がむず痒くなるような、
>締め付けられるようななんとも言い難い感覚です。
これが好意を起こしているでは無いですか?
身体が先で想いが後
色(身体)>痛み>想い

653:神も仏も名無しさん
19/01/09 15:05:45.77 oHgbeoNu.net
欲望を満足させることよりも、欲望が生じないようにした方が幸せなんですね。
瞑想して気づきました。欲望が発生しない方が安全、幸せだと。
このことはネット上で見て、そうなのだと頭では理解していましたが、瞑想で実感することが重要だったようです。

654:神も仏も名無しさん
19/01/09 16:26:31.79 c6StQANV.net
お釈迦様が成道したときに悟ったと気づいた主体のようなものってあったんでしょうかね

655:神も仏も名無しさん
19/01/09 16:27:44.14 oHgbeoNu.net
まだ欲望を克服したわけではありませんが・・・。
欲望を満たすことより、幸せになる道があるということは分かりました。
そのように生きれるようになりたいと思います。

656:神も仏も名無しさん
19/01/10 09:19:26.16 ouTEUdMg.net
一方の隅に立ったかの神は、尊師のそばでこの詩を唱えました。
 「過ぎていくのは、時である。渡りゆくのは夜々である。
 青春の美徳は、しだいに失われていく。
 この、死へのおそれを観るならば、
 諸々の福徳をなして、安楽をねがうがよい。」
(尊師が語りました。)
 「過ぎていくのは、時である。渡りゆくのは夜々である。
 青春の美徳は、しだいに失われていく。
 この、死へのおそれを観るならば、
 世間の財を捨て、寂静をねがうがよい。」
(サンユッタニカーヤ 神相応)

657:神も仏も名無しさん
19/01/10 15:40:55.67 cEmthx0D.net
キリスト教にも興味がある者ですが、
仏教を実践する人、キリスト教を実践する人の最高到達地点て、どちらがより上なんでしょうか。
到達地点はそれぞれ別のもので、比べられるものではないんでしょうか。

658:神も仏も名無しさん
19/01/10 16:28:41.59 snTZYgfJ.net
仏教における仏性とキリスト教の内なる精霊は似た概念なのかもしれんけど、どちらが上というのはよくわからないな

659:神も仏も名無しさん
19/01/10 16:39:04.31 yPgxgIO4.net
自力か他力かじゃない?到達地点は違うと思う。イエス以外の全ては罪人で許して
もらうというのがキリスト教じゃない?ホントに許してもらえるのか謎。
仏教だと、外に求めるものはすべて苦だと説明するよ。

660:神も仏も名無しさん
19/01/10 19:44:04.37 cEmthx0D.net
下手したら荒れる話だから注意が必要ですね。
絶対神の存在を認めるか認めないかで立場が違ってきますよね。
差はここから生まれているのでしょうか。どちらも幸福なのは変わらないと思います。

661:神も仏も名無しさん
19/01/10 21:54:41.19 hjHjYLht.net
キリスト教にもいろいろある
自力の「悔い改め」に重心を置く宗派もある
カルバン派あたりは浄土真宗と大して変わりない気がするな

662:神も仏も名無しさん
19/01/10 21:59:57.01 hjHjYLht.net
浄土真宗の他力本願というのは、「悟るんだ悟るんだ」という自力努力を
手放したところに救い、悟りなどがあるという話だろう
テーラワーダでもなんでも、一定程度のところまでいったら
他力みたいなものを感じないわけがないんで
それを阿弥陀様と呼んだり、イエス・キリストによる救いと呼んだりする
そう考えておけばいいよ
厳密な話をしたってあまり意味がない

663:神も仏も名無しさん
19/01/10 22:24:07.52 XbjIN62H.net
自力でがんばり抜いて自我を手放したら、その状態では
もはや自力は成り立たないだろうから、実は他力はかなり
レベルの高いことを言っている可能性がある。

664:神も仏も名無しさん
19/01/10 22:25:32.53 XbjIN62H.net
自力と他力は同じこと、と言っている禅僧もいた。

665:神も仏も名無しさん
19/01/10 23:37:15.25 5Kproz+z.net
祈る行為って好きなんだよなぁ
教会、神社、寺院それぞれムードが違って、でも大きなものに祈るのが好きだわ
どれも同じものが違う形で現れてくれたものだろうしね
無相の真理もね
こんどモスクにもいってみよう

666:神も仏も名無しさん
19/01/10 23:38:34.53 5Kproz+z.net
まあある意味テーラワーダほど明確に神々の存在に言及しているところも珍しい
「高次な生き物」って解釈なんだろうけどね

667:神も仏も名無しさん
19/01/11 12:34:40.38 vCNqQ9pi.net
自力、他力はブッダは説いてないんじゃない?
五力は説かれたけど

668:神も仏も名無しさん
19/01/11 13:29:21.43 gRA7Mx4y.net
ブッダの他力は在家信者に対して
五戒や八斎戒を守ることによって死後は天界に生まれることを説いたが他にもサンガに物惜みせずに托鉢することによっても天界に生まれるとした
サンガは仏像、托鉢は仏像の前の賽銭箱と置き換えるとサンガに充分に施しをして死後の天界への転生を願うのは他力と言える

669:神も仏も名無しさん
19/01/11 13:37:15.87 QVQ6rzOa.net
ダンマの六徳と言う日常で唱える文句の中に、賢者たちによって各自で悟られるべき教えで
あると言うセクションがある。”自らこの教えを実践して体験すべき。他力救済を説かない”
とテーラワーダ仏教協会のパンフにある。

670:神も仏も名無しさん
19/01/11 16:17:03.18 xCVoGiq3.net
完全な神様がいたら、そらそれに帰依しますわ。
いないんなら、自分で何とかするしかない。
それが仏教なのでは。

671:神も仏も名無しさん
19/01/11 18:05:24.93 5vRztH4a.net
言葉はすべて、どの観点から、どこまで見通しているかによる。
本当に当てにならない。と思う。

672:神も仏も名無しさん
19/01/12 11:10:20.83 YBkvg5OU.net
天界とか神々とかみんな信じてんの?

673:神も仏も名無しさん
19/01/12 12:26:21.83 YBkvg5OU.net
初期仏教は宗教じゃない
心の科学
後の大乗が宗教にしてしまった
それが間違い
これが正式な見解

674:神も仏も名無しさん
19/01/12 12:44:04.80 MsQvq89F.net
仏道は中道だから、決めつけずに自分で確かめていけばいいのだと思う。
科学的態度というのは、理論の整合性(帰納と演繹)に加えて、観察または
実験観測による確認を含む。
教学は理論。
サマタは望遠鏡の設置。
ヴィパッサナーは天体観測。
地球が平らだと思ってる人に、丸いよと話しても下手すると殺される。
望遠鏡の使い方を教えて、観測してもらえば、自分で納得する。

675:神も仏も名無しさん
19/01/12 12:45:29.72 MsQvq89F.net
「自分の考え」というのは、まず錯覚だから。
自分がそもそも錯覚だから。

676:神も仏も名無しさん
19/01/12 12:48:17.83 MsQvq89F.net
>>659
初期仏教がどんなことを言っているのか、パーリ仏典を
日本語訳でいいから読んでみるといいよ。
仏教は心の科学で間違いない。
しかし、悟りの智慧を、悟っていない人の考えで捉えられると思っているなら
それはおそらく違う。

677:神も仏も名無しさん
19/01/12 13:07:25.30 MsQvq89F.net
言い方は悪いが、犬猫が頭でいくら考えても、人間が捉えているような
高度な知見や認識を理解することは無理なのと一緒で、人間が頭で
考えることは、ほんとうに大したことないです。

678:神も仏も名無しさん
19/01/12 20:01:25.98 KJ6cPCe7.net
人間の思考は大したことないというより、むしろ有害
悟りの智慧も高度な見解というわけではなく、いかに人間が愚かか、騙されやすいか、勘違いをしているか、顛倒しているかを知るだけのこと

679:神も仏も名無しさん
19/01/12 20:04:51.97 zRb6pzJo.net
>>664もまた思考ですので

680:神も仏も名無しさん
19/01/12 21:55:43.22 KJ6cPCe7.net
あ、もちろん正しい思考、正思惟もある
比丘たちよ、私は正思惟を二つに説きます。
比丘たちよ、有漏の、福分の、生存の素因という異熟ある正思惟があります。
比丘たちよ、聖なる、無漏の、出世間の、道支たる正思惟があります。
では比丘たちよ、いかなるものが有漏の、福分の、生存の素因という異熟ある正思惟なのでしょうか。
離欲の思惟、無瞋の思惟、不害の思惟です。
比丘たちよ、これが有漏の、福分の、生存の素因という異熟ある正思惟です。
では比丘たちよ、いかなるものが聖なる、無漏の、出世間の、道支たる正思惟なのでしょうか。
比丘たちよ、およそ聖なる心の者、無漏の心の者、聖道を具備した者、聖道を修習する者には、思索、尋、思念、専注、統覚、心の志念、語行がおこります。
比丘たちよ、これが聖なる、無漏の、出世間の、道支たる正思惟です。
URLリンク(komyojikyozo.web.fc2.com)

681:神も仏も名無しさん
19/01/12 23:43:43.32 zRb6pzJo.net
[正しい思考]
「比丘たちよ、このなかで正しい見方が最初にくる。
では、比丘たちよ、どうして正しい見方が最初にくるのか。
誤った思考を誤った思考と知り、正しい思考を正しい思考と知っているとき、その人は正しい見方をしている。
[73]では、比丘たちよ、誤った思考とはなにか。欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考―比丘たちよ、これが誤った思考である。
では、比丘たちよ、正しい思考とはなにか。比丘たちよ、正しい思考もわたしは二つ説く。
比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』があり、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』がある。
 比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』とはなにか。
欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考―日これが『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』である。
では、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』とはなにか。
比丘たちよ、心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の思索、熟考、思案、思いを向け、思いを致し、思いを凝らすこと、言語活動
―比丘たちよ、これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』である。
 誤った思考を捨てよう、正しい思考を備えようと努力するとき、その人は正しい努力をしている。
注意して誤った思考を捨て、注意して正しい思考を備えているとき、その人は正しい注意をしている。
こうしてこの三つのもの、すなわち、正しい見方、正しい努力、正しい注意が正しい思考につきしたがい、ついてまわる。
URLリンク(mixi.jp)

682:神も仏も名無しさん
19/01/12 23:46:58.23 zRb6pzJo.net
説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、
故に無我(anātman)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、
大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか
「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、
対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。
吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。
真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。
そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。
URLリンク(www.horakuji.com)

683:神も仏も名無しさん
19/01/13 09:40:54.52 CWdN815c.net
>巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか
>「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
と言っている人も虚妄、ナーマルーパにすぎない
その人の意見も虚妄、空

684:神も仏も名無しさん
19/01/13 09:50:11.46 LAyH/HQL.net
>>669
巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか
「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
の好例

685:神も仏も名無しさん
19/01/13 11:42:53.10 9RQWKMHe.net
>>658-569
>天界とか神々とかみんな信じてんの?
天界があるのか、神々はいるのかという話の流れだから
ここでは >>668 の話は直接的には関係ないのでは。

686:神も仏も名無しさん
19/01/13 11:44:52.07 9RQWKMHe.net
訂正
>>658-659
初期仏教(パーリ三蔵経典にのこる仏説)において、天界のことも天神のことも述べられています。
なんなら、瞑想で確かめることもできます。

687:神も仏も名無しさん
19/01/13 11:54:08.44 9RQWKMHe.net
欲六界にせよ、三界世間にせよ、
自分の生きている世界だけが有情世間のすべてだと思ってるのって
「自分」を始点とした「想(サンニャー)」、
「自分」を中心とする「想(サンニャー)」でしかなくて、
想像上の神を居ると考えようと、いないと考えようと
同じ「想」のなかで妄想をもてあそんでるだけであることに
なんの変わりもない。
想像上の神を居ると信じているのは、ピカチュウを信じてるのと何も変わらない。
居ないと信じているのも、実は同じ。

688:神も仏も名無しさん
19/01/13 11:54:51.08 9RQWKMHe.net
途中でボタンおしてしまった。すまん。
もう面倒だから修正はしない。

689:神も仏も名無しさん
19/01/13 11:58:23.96 DIiGtiTE.net
>>672
自分で瞑想で確かめたの?

690:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:10:12.28 9RQWKMHe.net
一部だけですが確かめました。
これまでにも色んな宗教の、いろんな人が、いろんな語り口で語っています。
それらを言葉と思考で捉えるから、それぞれみんな別モノに感じられるだけ
だったのだと分かりました。
証言なら、すでに世界中に、歴史上に沢山溢れています。
いまもそうです。
ネットの発達で届きやすくなっている状況でしょう。

691:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:13:34.16 9RQWKMHe.net
世界は、誰かの「自分」を中心に回っているわけじゃありません。
自分を中心に回っているのは、自分だけです。
それを手放さなければ、虚妄から抜け出すことなどできません。

692:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:27:42.06 DIiGtiTE.net
「自分」を中心に回っているなんておもってないけど
瞑想をするのも自分だし
途中で送信してしまうのも自分だよね

693:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:28:33.69 9RQWKMHe.net
自分を作ってるのは思考だから、思考が止まってる時は
その自分はいないっす。

694:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:29:16.64 LA0YahY3.net
>>676
神がいると思ったということでしょうか?
何かを見たわけですか?

695:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:29:57.96 9RQWKMHe.net
そこが分かってない人が多い。
考えるのは自分なので、考えて分かることもでない。
だから、そもそも言っても仕方ない。

696:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:30:47.50 9RQWKMHe.net
思うのは「想」ですけど、「想」は思考(妄想)ですから、それはピカチュウと何も変わらないと思いますよ。

697:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:33:56.43 9RQWKMHe.net
お釈迦さまにしろ、色んな祖師の方々にしろ、ピカチュウと
ものの区別ができないようなバカじゃないと思いますけどね。
それでも経典に書いてあることより、自分の考えの方が正しい
悟ってないし、瞑想もできないけど「正しい仏教」知ってるんだと
いう態度の仏教徒/仏教学者は、とても多いと思う。

698:神も仏も名無しさん
19/01/13 12:40:19.50 DIiGtiTE.net
と書いてる自分は「正しい仏教」を知っていると

699:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:30:44.86 unHEraI0.net
まあピカチュウにしろブッダにしろ
脳のなかのちょっとした信号だわな
そうゆう意味では空

700:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:44:19.94 unHEraI0.net
だいたい一切が虚妄って当たり前だよね
人間死ぬ時には全部捨てなきゃいけない
思い出なんかは幻だしね
自分の人生は何だったのか
夢みたいなもんですよ、はいさようならw

701:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:47:23.22 9RQWKMHe.net
解脱していなければ、死んでも業はなくならない。
逃げられない。

702:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:48:15.84 9RQWKMHe.net
>>684
少なくとも、自分の想が頭で考える「正しい仏教」なんてものは
ぜんぜん正しくないことは分かってる。

703:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:53:31.18 oGqstCrt.net
先入観や思い込みなく今を見るという感じかなあ
四苦八苦など今の状態が苦だと捉えてることが事が妄想だと言ってんじゃないのか
さて、今とはなんだろうか

704:神も仏も名無しさん
19/01/13 14:54:09.66 9RQWKMHe.net
正見は智慧の開発度合いに応じて変わっていくものだろうし
完全に正見が具現化されるのは無学位に悟った時のはず。
それまで自分は悟っていないのだから、厳密な意味での正見
は備わっていない。
その自覚があるかどうか。

705:ポッタン師
19/01/13 15:02:02.09 N66TY5/a.net
690.バカが言う、ことである。大爆笑である。

706:神も仏も名無しさん
19/01/13 15:07:07.49 LA0YahY3.net
私も神の存在を感じてみたいんですが、どんな瞑想やったらいいんでしょうか
神随念やってれば実感わくんでしょうか

707:神も仏も名無しさん
19/01/13 15:07:58.23 LA0YahY3.net
感じるのは証拠にならないと思う。主観だから
客観的な実感が必要だと思う

708:神も仏も名無しさん
19/01/13 15:12:00.13 unHEraI0.net
一切が虚妄だと納得する = 解脱
虚妄じゃないものがあるんじゃないの? = 輪廻
だろうな
虚妄じゃないものを求めて心が彷徨うんだろう、輪廻の中を

709:神も仏も名無しさん
19/01/13 16:26:02.37 9RQWKMHe.net
>>694
やっぱり、それはなんか違うところに入っちゃってるんじゃないか。
仏教は虚無主義じゃないと思う。

710:学術
19/01/13 16:27:03.78 G4qm9l/e.net
神がいるから現れるのは必定。同じ次元にいることはほぼないでしょう。はげめ。

711:学術
19/01/13 16:30:30.78 G4qm9l/e.net
十牛図よんで花見に焼き肉食いに行くんだ。

712:神も仏も名無しさん
19/01/13 16:52:28.92 9RQWKMHe.net
次元が違うんだけど、次元という単語を使うと先入観のフィルターにある
スピ系の印象でもって、反射的に判断されるだろうから、何と言っていいかわからん。
ひたすら面倒くさい。

713:神も仏も名無しさん
19/01/13 17:46:34.66 DIiGtiTE.net
面倒くさかったら黙してたらいいのに
エゴで勝手に書き込んでるだけでしょ

714:神も仏も名無しさん
19/01/14 09:51:11.51 EN51tF3Y.net
走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。─蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

715:神も仏も名無しさん
19/01/14 10:23:25.12 MkPqadoR.net
解脱してないのに、虚妄だと頭で思っているだけで
輪廻がなくなるわけじゃあないのでね。

716:神も仏も名無しさん
19/01/14 10:24:38.35 MkPqadoR.net
本当に預流果だったら、他人にそういう誤解を与えるような物言いをするだろうかね。

717:神も仏も名無しさん
19/01/14 10:51:26.76 EN51tF3Y.net
●夢を見ていながら、これは夢だとはなかなかわからぬ。頬っぺたをつまんでみたら痛い。その痛いのも夢なんじゃ。夢と夢のつきあいだから、夢が夢ともわからぬ。
●現実、現実と言うが、これみな夢である。夢の中での現実でしかない。革命とか戦争とか言うと、ドエライことのように思うておるが、やはり夢の中のモガキである。死んでみれば「夢だったな」とようわかる。それを生きているうちにカタヅカナイのが凡夫というものである。
●一切の差別の世界はみな夢幻空華である。しかしその夢を夢とも知らずに、その夢のなかで大騒ぎをやっておるのがこの現世である。
●凡夫の方からいえば実相は何もない。いや諸法実相の真っ只中において妄想ばかり見て おる。
●なあに世の中に幸福もなければ不幸もない。夢のなかで別嬪に惚れられておるか、振られておるかというだけの違いである。覚めてみると何もない。ああウソだった。
澤木興道

718:神も仏も名無しさん
19/01/14 13:26:22.86 OdcCsAag.net
コピー&ペースト禅

719:神も仏も名無しさん
19/01/14 13:49:42.55 EN51tF3Y.net
坐れば坐るほど澤木老師の言葉は心に響いてくる
坐らないでただ読んでも、これは何でもない言葉だと勘違いする

720:神も仏も名無しさん
19/01/14 15:41:03.98 yqmUn5b4.net
全ての宗教は自分で考えないバカをカモにした詐欺だがその中でも特に仏教は賢ぶった虚言癖バカをターゲットにしている
彼らは息をするように嘘をつく
常に小難しいホラを吹聴しては何かとてつもない秘儀を理解してるかのようにふるまいたがる
その内容が難解であればあるほど仲間内で高レベルであるとみなされるらしく次から次へと際限なく新たなホラが生みだされる
今日も仏教徒という嘘つきホラ吹き達は己のホラのすごさを競い合い「俺は悟った」「私の方が高い境地に到達した」とマウントを取り合う

721:神も仏も名無しさん
19/01/14 15:56:58.33 h1BzVgCh.net
初心者で修行中のものですが、名色分離智が現れているか現れていないかわかりません。
これ現れたらハッキリと分かるものなんでしょうか。
できている気もするし、できていない気もする。

722:神も仏も名無しさん
19/01/14 19:28:09.26 EN51tF3Y.net
自分は名色分離智も何も知らないで瞑想した、後で「あぁ確かにそういう段階もあったな」と確認したけど。
たとえば「自分の右手がある」と漠然と思うのではなくて、
「右手の感覚がある、右手を見る視覚がある、それらから右手があるという認識が生まれている。
物質としての右手、右手自体には触れられない。触れられないがいちおうあるはずだ。
物質としての肉体が違うだけで、生命の心はみんな同じだ。」
という理解があればいちおう名色分離智があることになる。

723:神も仏も名無しさん
19/01/14 20:45:08.58 EN51tF3Y.net
というか十六観智よりも七覚支、八正道を気にした方がいい。
そっちはブッダがオリジナルだから。
喜覚支があるかどうか、精進覚支があるかどうか、正命に気をつけているか、など。

724:神も仏も名無しさん
19/01/14 21:18:48.58 h1BzVgCh.net
サンクスです。
そもそも名色分離智の定義さえ、いまいちハッキリと分かっていないんですよね。
右手の例でいえば、右手の感覚と、その感覚に気づいている意識、という風なことでしょうか。

725:神も仏も名無しさん
19/01/14 21:25:47.72 h1BzVgCh.net
ちょっと違いますかね。右手という物質(色)、右手の感覚(名)、ということなのかな。

726:神も仏も名無しさん
19/01/14 21:37:06.14 hA/gCefa.net
十六観智って心身の状態に無関心、無感覚になるって感じなのかな。
七覚支はフロー体験みたいな感じなんだろうけど。

727:神も仏も名無しさん
19/01/14 21:47:43.77 EN51tF3Y.net
五蘊と六根についても勉強されると良いと思います。
その上で瞑想し、「これは受、これは想、これは識」または「これは眼、これは鼻、これは意」などと確認していきます。
そうすれば、「色」「物質」というのは直接確認できない事が分かります。
人間が感じ取れるのは心しかない。六根しかない。受しかないことが理解されます。
そうなれば、感じ取れる心と、感じ取れない身体とを分離して理解したことになります。

728:神も仏も名無しさん
19/01/14 22:43:39.79 h1BzVgCh.net
サンクスです。分かりました。やってみます。

729:神も仏も名無しさん
19/01/18 19:12:30.35 /rJ11J3c.net
預流の前段階で、隋信行・随法行っていうものがあるそうですね。
この段階で悪趣には落ちないそうです。悟りに向かっている状態だそうです。
ここにきている方で、預流でない方も、みんなその状態にはありそうです。

730:神も仏も名無しさん
19/01/18 21:45:22.39 7FUGcWEd.net
>>715
まだ安心しないほうがいい
来世に人間に生まれたとしても、仏教に出会えるか、修行できる環境に生まれるかどうかは分からない
そこで悪業を為せば悪趣にも落ちるだろう

731:神も仏も名無しさん
19/01/19 13:19:36.41 UZyQBZNH.net
>>716
なるほど。はい、そうですね。

732:神も仏も名無しさん
19/01/19 13:31:27.66 IuuVKRoy.net
「悟りとは無我である」というような、真実に関する命題というものは明快な美しさがありますから、下手をすると修行者はそこに観念的にとらわれてしまいがちです。
「世界は一切空で真実の姿は平等である」という、いわば自己完結した心地よい優等生の回答から抜け出ることができず、その結果、現実に働き出る救済的な力を持たないままの“宗教的お坊ちゃま”で終わってしまうことになりかねません。
禅ではこのような状態に陥った者を「死漢」つまり、「現実に全く影響を及ぼさない死人」と呼んでいるぐらいです。

そんなわけで雲門和尚は、真っ白な美しい悟りに捕われるな、その悟りを抜け出ていけ、泥まみれの世界へ行け、という意味の代語をしたわけですね。

733:神も仏も名無しさん
19/01/19 16:50:51.88 JWd5AYtX.net
仙桂和尚は 真の道者    
貌(ぼう)は古にして 言は朴なるの客
三十年 国仙の会に在りて      
禅に参ぜず 経を読まず
宗文の一句すら 道(い)わず    
園疏を作って 大衆に供養す
当時 我之を見れども見えず    
之に遇い 之に遇えども遇わず
呼嗟 今之に放(なら)わんとするも得得可からず
仙桂和尚は 真の道者
古風な顔つきの仙桂和尚こそ真の修業僧だ.彼は寡黙で,言葉も少ない.
三十年もの間,国仙和尚の下にありながら,日々の参禅も行わず,経も読まない.
宗文のことについても,一言も話すことが無かった.
ひたすら畑を耕しては,修業僧の皆に食事を作っていた.
その当時の自分は,仙桂和尚と毎日出あっていたが,本当の姿を見ていなかった.
本当の仙桂和尚の姿を理解すべきであったのに,理解できないでいた.
ああ,今では仙桂和尚の前で教えを乞うとしてもそれは出来ない.
仙桂和尚こそ真の修行者であった.
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

734:神も仏も名無しさん
19/01/22 00:23:32.89 Pi1EVOCl.net
>>719
>三十年もの間,国仙和尚の下にありながら,日々の参禅も行わず,経も読まない.
昔、常不軽という菩薩比丘がいた。
この菩薩は経典を読まず、人を見ては深く敬い礼拝することを自らの行とした。
『みなさん、わたしはあなたがたを敬います。 軽んじません。なぜなら、あなたがたは菩薩の道を行じて、仏となるからです』
この行いは、人々をして多くの誤解を生じ、無知の人々から罵倒(ばとう)を生んで行ったのである。
それでもこの菩薩は耐え忍んで礼拝を行としていったのである。
かくして常不軽菩薩が寿命を終わらんとする時、以前に威音王仏(いおんおうぶつ)が説かれていた法華経の教えを聞いて、寿命を増し以後長い間、法華経をもって多くの人々を教化した。
この常不軽菩薩とは、釈尊の前身であり、罵倒した人々は、長い間地獄の苦を受けることになったが、この罪を終えて常不軽菩薩の導きにより、仏の道に入った。
それが、今ここ(霊鷲山)にいる菩薩達なのである、

735:神も仏も名無しさん
19/01/22 10:41:50.92 5Aw1Bufy.net
十波羅蜜
 布施
 持戒
 離欲
 精進
 忍辱
 慈しみ
 真理
 決意
 捨
 智慧

736:神も仏も名無しさん
19/01/22 11:55:15.89 5Aw1Bufy.net
ここでご自分は預流果だと言っておられる方。
預流果は阿羅漢ではないので、まだ輪廻はあるはずだと思うのですが
その段階で、もはや仏法僧への信すら必要としないと言っているのですか?
「わたしは、そもそも輪廻など存在していなかったと悟った。
 だから、つまるところわたしは輪廻から解脱したのだ。
 そもそも輪廻は概念であり虚妄であるのだから)。」
と、こういうことでしょうか。

737:神も仏も名無しさん
19/01/22 14:25:11.41 +Aq71+an.net
まず仏法僧に対する信について勘違いしている人が多い。
仏法僧は素晴しい、ありがたいと持ち上げることが仏法僧に対する信ではない。
それはブッダが「信仰を捨てよ」とおっしゃた類の信仰であって、キリスト教徒が聖書と神を持ち上げるようなもの。
本当の仏法僧に対する信は、一切は無常、苦、無我であると確信すること。
仏法僧であっても、輪廻における全て、見るもの、聞くもの、感じるもの、考えること全


738:てが無常、苦、無我であり、虚妄であると納得すること。 道元禅師も、もし師匠に「仏とはミミズ、ヒキガエルである」と説かれたならば、弟子は素直に信じなくてはいけない。「いくらなんでもそれは…」などと考えてはいけないとおっしゃられた。 ブッダによって、「一切は虚妄である。無価値、苦、ドゥッカである」と説かれているのだから、ブッダも含め、一切の存在をそのように見ることが、本当の仏法僧に対する信。 預流果に悟った時には、いちおう頭の中ではこのことについて納得している。 仏法僧を含め、一切の現象、概念について無常、苦、無我であると確信している。 しかし分かっているけど止められないのが人間で、まだ価値のあるもの、真実であるものの存在を心が求めてしまう。すなわち煩悩が残る。 預流果以降はこの頭の中だけでなく、心にも無常、苦、無我を納得させるために瞑想する。 そして瞑想により涅槃を経験すれば、心が無常、苦、無我を納得して、五下分結が無くなる。 しかしまだ、瞑想自体に、涅槃自体に、慈悲に智慧に禅定に対して執着が残っていれば不還果に、 それすらも無くなれば阿羅漢果に悟る。



739:神も仏も名無しさん
19/01/22 14:57:44.35 5Aw1Bufy.net
なるほど。
しかし、仏法僧はピカチュウじゃない(伊達じゃない)、ということは
事実として言えることであって、ブッダが捨てろと仰ったものではない
という認識は変わりませんけどね。

740:神も仏も名無しさん
19/01/22 15:27:57.49 vPva1rqG.net
預流果以降の段階の仏法僧に対する信というのは難しい話題っぽいですよね。
信とは、信仰ではない、ということは確かなのでしょうか。ブッダは信仰を捨てろとおっしゃいましたが。
信頼、ということなのでしょうか。真理の観点からの信、ということなのでしょうかね。

741:神も仏も名無しさん
19/01/22 15:47:28.74 1a0onpUB.net
中村元氏は“Pamuncantu saddham”を「信仰を捨て去れ」と訳したが、
村上真完氏のように「信を起こせ」と解する人もいるからな。
「信」は奥深い。

742:神も仏も名無しさん
19/01/22 16:26:26.87 +Aq71+an.net
仏法僧を行と法に分解して考えると分かりやすい。
ブッダ、経典、サンガについて見たり聞いたり考えたりする、視覚、聴覚、思考、これらの現象、行は無常であり苦であり無我。
またブッダという概念、経典に含まれるあらゆる概念、サンガという概念は法であるから無我、実体は無い。
無常、苦、無我がどういうことかが分からないと意味が無いが、それを理解するには瞑想するのが一番確実。
そして「捨てる」というのはこの行、法に対する「執着」を捨てる。
執着を捨てるというのは、それらがどうなろうと知ったことではない、だから何なんだ、という態度を作ること。
その辺に落ちている石ころや木切れのように思わなくてはいけない。
無理矢理そう思い込もうとしなくても、瞑想すれば自然とそうなるけれど。
名前は忘れたけど、ブッダが亡くなる直前、多くの比丘がブッダに挨拶に行くが、ある比丘は行かず、瞑想していた。
何故ブッダに挨拶に行かないかと聞かれると「ブッダが入滅される前に修行を完成させたいから」と答えた。
ブッダはその比丘を、真の仏弟子であると称えられた。
そのように、瞑想し無常、苦、無我に関する智慧を完成させる事が仏法僧に対する恩返しでもあるし、信でもある。

743:神も仏も名無しさん
19/01/22 16:37:53.93 1a0onpUB.net
>>726
誤:「信を起こせ」 正:「信を発こせ」
文脈によって「信」の意味も様々に取れるからな。読んでないけど、
「信を発こせ」再考--Pamuncantu saddham
村上 真完(著) 仏教研究 (22), p115-150, 1993-03
URLリンク(ci.nii.ac.jp)
仏のことば註(四) パラマッタ・ジョーティカー 〈新装版〉
村上真完 / 及川真介訳註 春秋社 2009.9
URLリンク(www.shunjusha.co.jp)

こちらはざっと目を通したはずだけど、宮坂氏も「信を発こせ」と解されていたような。
ブッダの教え スッタニパータ
宮坂 宥勝(著) 法蔵館 2002.10
URLリンク(www.hozokanshop.com)

744:神も仏も名無しさん
19/01/22 20:04:05.28 vPva1rqG.net
個人的な実感ですが。
無常、苦、無我をある程度分かった程度では、いろいろな愛着がなくなるとかというと、そうではないんですね。
自分の場合ですが、分かってはいるんですが、色々なものの愛着を無くすことはできないで苦しんでいます。
でも、愛着があっても、その感情そのものがなくなった方がいいと分かっているので、以前と比べ、いくぶん楽にはなりました。
欲しいものを手に入れる満足より、手に入れようという執着を無くした方が幸せだと分かっています。
自分の力の及ばない範囲に勝利があるのではなく、自分の手の中に勝利はあるので、安心はしています。
簡単に言うと、執着を無くすことが、一番幸せなことなのですね。

745:神も仏も名無しさん
19/01/22 21:09:32.86 5Aw1Bufy.net
>>727
概念的には理解できるという意味で、分からないではないです。
一方で、阿羅漢であるカッサパ尊者が結集を決意した経緯なども
無視できない要素だと思うのです。

746:神も仏も名無しさん
19/01/22 21:13:40.55 4K6INRRK.net
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 "もろもろの"ブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
八 「一切はそのように【真実で】ある」、また「一切はそのように【真実で】ない」。「一切はそのように【真実で】あり、またそのように【真実】ではない」。「一切はそのように【真実で】あるのではないし、またそのように【真実】ではないのではない」
――これがもろもろのブッダの教えである。
九 他のものによって知られるのではなく、寂静で戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない――これが真理の特質(実相)である。
一〇 Aに縁って【Aを原因として】Bが成り立つのであるならば、実にBはAではない【AとBとは同一ではない】。またBはAと異なるのでもない。それ故に【原因は】断絶するのでもなく、また常恒に存在するのでもない。
一一 【もろもろの事物の真の本性は】同一のものでもなく、異なった別のものでもなく(不一・不異)、断絶するのでもなく・、常恒に存在するのでもない(不断・不常)――。
これが世の人々の主であるもろもろのブッダの甘露の教えである。

747:神も仏も名無しさん
19/01/22 21:29:57.17 +Aq71+an.net
仏法は下剤のようなもので、人間の腹に溜まった煩悩という糞を巻き込んで捨てる作用がある。
この下剤をありがたいものだ、栄養のあるものだとガバガバ飲んで、それを糞といっしょに捨てずに貯め込んでいれば、
腹はおかしくなって壊れてしまう。
仏法も本来は毒であり、余計なものであるから、用法用量に気をつけなければいけない。
正しく仏法を理解し、実践し、煩悩といっしょに捨てることができれば、悟りに達することができる。
それは結局のところ、八正道を実践し、戒定慧を学び、止観の瞑想をすることであるが。

748:神も仏も名無しさん
19/01/22 22:32:21.89 tDequkBJ.net
仏法が余計なものであるはずがない
自灯明法灯明
釈尊自身が法を拠り所にしなさいと言ってるのに
余計なものであるはずがない

749:神も仏も名無しさん
19/01/22 22:49:31.70 +Aq71+an.net
自も法も無くなったところが涅槃、悟り。
アーナンダ尊者、香厳智閑禅師、サッパダーサ尊者など、悟りを諦めた瞬間に悟る人が多い。
悟る瞬間には心が完全に空っぽになっている必要がある。
仏法に執着がある人は悟れずに、ただの仏教に詳しいおじさんで終わるだろう。

750:神も仏も名無しさん
19/01/22 23:27:23.74 tDequkBJ.net
愚か者にとっては仏法ですら毒となり
賢者にとっては愚か者の言葉ですら反面教師となり薬となる

751:神も仏も名無しさん
19/01/23 12:52:34.45 9r6A1TD9.net
要するに、喋ってないで三学の修習=瞑想実践しろってことでFA?

752:神も仏も名無しさん
19/01/23 15:17:32.22 C8bWV58N.net
しゃべってないで修行してた方がいいけど、
それだとこのスレの存在を否定することになる。
だからみんな、修行の邪魔にならない程度に適度に語っていこう。

753:神も仏も名無しさん
19/01/23 15:21:29.57 C8bWV58N.net
なんの障害も感じずに黙って修行していけるのは阿羅漢果だけだと思う。
阿羅漢果が修行するってのも変な話だけど。
阿羅漢果ではない人が、このスレで楽しく語り合うことは当然のことだと思う。

754:ポッタン師
19/01/23 15:37:38.58 IB24DwX9.net
731.バカ丸出し、である。大爆笑である。悟ってから言え。

755:神も仏も名無しさん
19/01/23 16:11:09.20 uid+8rR5.net
ポッタン便所

756:神も仏も名無しさん
19/01/23 20:39:57.32 C8bWV58N.net
今日気づいたことですが、苦と渇愛は定と念によって滅することができると感じました。
ここでの苦は、気持ちの落ち込みで、生理反応のように思うのですが、これも無明に分類できるのですかね。
苦、は常にあると思いました。これを瞑想以外で緩和する方法は、五根に刺激を与えることだと思いました。

757:神も仏も名無しさん
19/01/23 20:43:20.57 C8bWV58N.net
何もしていないと、生きることは苦だとはっきりと感じます。
何かすると気がまぎれて、それによって苦を忘れることができます。
これが普通の人の生きている生活なのかなと思いました。
だからこれだけ娯楽あふれているのかもですね。

758:神も仏も名無しさん
19/01/23 20:47:30.55 C8bWV58N.net
気持ちの落ち込み、と言うのはちょっと範囲がせますぎますね。それもありますが。
ある種の不満足感、不完全感、不安定感、虚しさ、と言った方が適切ですかね。
すみません。

759:神も仏も名無しさん
19/01/24 11:39:01.11 rA25lTcQ.net
>>741
(定と念)集中した身体への気づきにより消えますよね
というか、出にくくなる、激減する

760:神も仏も名無しさん
19/01/24 11:58:01.36 3tu1xygw.net
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。
どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。
─すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」─
 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

761:神も仏も名無しさん
19/01/24 12:01:08.82 3tu1xygw.net
33 悪魔パーピマンが言った。
「子のある者は、子らによって喜ぶ。
同じように、牛のある者は、牛によって喜ぶ。
(生存の)もととなるもの(素因)は、人にとって喜びである。
(生存の)もとになるものがない人は、実に、喜ぶことはない」。
34 尊師は言った。
「子のある者は、子によって憂う。
同じように、牛のある者は、牛によって憂う。
(生存の)もとになるもの(素因)は、人にとって憂いである。
(生存の)もとになるものがない人は、実に、憂うことはない」。

762:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:17:15.95 xMd2iiBw.net
>>744
はい。ただ難点なのは、気を付けていないと、苦を感じるということですね。
自動的にはできないんですよね。修行が進んだ人は違うのでしょうか。

763:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:18:30.68 x5IDincP.net
退屈する、刺激を求めるのも苦だけど、苦の定義はやっぱり四苦八苦で、生老病死、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦でしょうね。
これらは念と定で無くなることはない。念と定により生まれる悟りの智慧で無くなる。
念と定があるだけでは苦は弱くなるだけ、休眠状態になるだけですね。
渇愛の定義も、五欲、有愛、無有愛で、これも弱まるだけですね。
五感の感覚も苦であること、生きることの中に価値のあるもの、素晴らしいもの、執着すべきものが何一つ無い、
存在すること、存在を無くそうとすること、どちらも苦しみでしかない事を、悟りの智慧によって発見するまで無くならないでしょうね、渇愛は。

764:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:26:53.83 Yv1QTYVa.net
存在を無くそうとすることと再生を終わらせようとすることは
どう違うんだろう?

765:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:30:09.51 fiIaBxuG.net
理屈としては、
有愛、無有愛は渇愛に依るが、
再生の終わりは渇愛の滅に依る、ということでしょうか。
実感としては全然分からないけれども。

766:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:37:56.50 fiIaBxuG.net
悟りたい、解脱したいという思いが無有愛によるものである場合、
それは渇愛からくる衝動だから、その延長線上に悟りはない、
ということなのでしょうかね。

767:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:48:21.49 xMd2iiBw.net
>>748
なるほど。最近考えていたことですが、智慧とは何なんでしょうか?知識ではないですよね?
仰られるように、確かに智慧で、苦は滅することができると思います。
念と定では弱まるだけというのは、実感として納得します。
私にも多少の智慧があるようなのですが、どうも知識ではないと感じるんですよね。
ある種の状態であると感じています。何か間違えがあれば教えていただきたいです。

768:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:53:29.48 3tu1xygw.net
>>748
❖煩悩をなくすとは 、滅尽すること
煩悩をなくすとは一時的に抑えることではありません 。
智慧で完全に二度と生まれないように滅尽( n i r o d h a ニローダ)することです 。
これも、初めて聞いたと思って覚えておいてください 。
日本の仏教が混乱しているのは、こうしたところです 。
定義を気にしない 、勝手に定義する、これは大乗仏教の特色です。
本を書く人は自分のわがままで、好き勝手に定義しています 。
経典を引用しなくてはいけないといった、責任感もあまりありません。
ただ周りにいる他のお坊さんをライバルに仕立てて、その人々と違うことを言えばいいという程度のものです。
ですから定義から外れると相当混乱します。
アルボムッレ・スマナサーラ
智慧は人生の羅針盤 (お釈迦さまが教えたこと)
より引用

769:神も仏も名無しさん
19/01/24 15:53:50.47 xMd2iiBw.net
真理を体得した状態が、智慧がある、ということなのでしょうかね。

770:神も仏も名無しさん
19/01/24 19:49:45.33 x5IDincP.net
薄暗い場所でトグロを巻いたヘビを発見すると、恐怖心という煩悩が起きてくる。
深呼吸して精神統一したり、棒でも探してきたり、仲間を呼んだりすると恐怖心が多少減る。
懐中電灯でも持ってきて、よく見てみるとヘビじゃなくてゴムホースだった。
そうなると恐怖心は完全に無くなり、もう怖がろうと思っても怖がれない。
智慧によって真理を発見する、存在の本質を明らかにすると煩悩は生まれなくなる。
執着しようと思っても執着できない。
生きることはどうゆうことか、五蘊とは何か、六根はどうなっているかを自分の目で確認すると、
無常、苦、無我を発見するはず。
それを見てしまうと解脱の方に心が向かう。

771:神も仏も名無しさん
19/01/24 20:52:07.92 E6iDOn9Y.net
>>744
大パリニッバーナ経より

修行僧たちよ、修行僧はみずから念じて、よく気をつけておれ。
これが、お前たちに説くわたしたちの教えである

772:神も仏も名無しさん
19/01/24 21:03:23.54 E6iDOn9Y.net
(法鏡)
気づきはただそこにある。
何かに気づこうとするわけではなく……、ただそこにあるのです。
まるで大きな鏡のように、その前を通るものは全て、
鏡の中に映し出される。
鏡が対象を捉えようとするわけではないのです。

気づきはただそこにある。あなたは何もしていないのです。この段階において、瞑想とはあなたが行うものではありません。瞑想とは、自然に生じているものなのです。しかし、ここに至るまでにはしばらく時間がかかるでしょう
ウジョーティカの言葉から

773:神も仏も名無しさん
19/01/25 09:18:41.77 wZUlTZBr.net
>>757
そこまでいったら阿羅漢じゃないか?

774:神も仏も名無しさん
19/01/25 10:58:42.11 +jU3WyeA.net
ゴエンカ式やってる人いる?体調よくなれば数年以内に合宿に参加しようと思うんだけど
ゴエンカの合宿が廃止されることってあるかな?

775:神も仏も名無しさん
19/01/25 11:40:24.14 xnYVGpYq.net
>>744
憶念(念=sati)龍樹
王よ
身体に関する憶念が歩むべき第一の道である。と善逝(仏)は示しています。
憶念に務め、守らねばなりません。
憶念が欠けると全ての法は壊れます。
(ナーガルジュナ、勧誠王頌 54偈 友への手紙より)

776:神も仏も名無しさん
19/01/25 11:57:43.84 xnYVGpYq.net
>>744
スッタニパータ 1035から
??師(お釈迦様)は答えた
アジタよ 世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止める物は

気をつけることである。

??
(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもることである、とわたしは説く
その流れは智慧によって塞がれるであろう

777:神も仏も名無しさん
19/01/25 13:13:03.09 EGZlpk3r.net
>>752
智慧とは勝義諦の中の有為法の中の心所の中の浄心所に位置する慧根という勝義の法が育まれて智慧になります

778:神も仏も名無しさん
19/01/25 15:02:10.20 +sy6K+E/.net
>>758
横レスですが、阿羅漢ではないと思います。
自我が弱まったら自然とそうなるんではないかと思います。

779:神も仏も名無しさん
19/01/25 23:53:14.75 zlYdoEtg.net
>>759
世界的に有名だしキャンセル待ちしてるくらいだから今更廃止ってことはないんじゃないかな
僕は一年ちょっと前に行ったけど良かったよ

780:神も仏も名無しさん
19/01/26 19:59:51.08 0PaLVWzS.net
独習で瞑想して結果出してる猛者いる?
いたらオススメの瞑想書でも教えてほしい

781:神も仏も名無しさん
19/01/26 20:07:20.98 bU7SIEs5.net
法華経

782:神も仏も名無しさん
19/01/26 20:08:46.44 H97Ufrlf.net
>>762
言葉で表すとそうなるんですね。哲学っぽい。
ちょっと調べてみましたら、物事をありのままに見ることを言うようです。

783:神も仏も名無しさん
19/01/26 20:12:01.76 bU7SIEs5.net
これ冗談じゃないんですよ

784:神も仏も名無しさん
19/01/27 07:39:12.17 873Y3gbb.net
>>741
苦、渇愛、定、念、無明の関係は下記の図で見ると分かりやすいかも。
URLリンク(twitter.com)
(deleted an unsolicited ad)

785:神も仏も名無しさん
19/01/27 10:30:57.68 D02Za8ER.net
>>769
返って分かりにくいです。
その図では勝義諦を無分別としながらも勝義諦も出世間諦(無為法)と世間諦(有為法)に分別しています。
テーラワーダでは無分別は出世間諦の無為法(涅槃)だけです。
勝義諦はまず勝義諦として心、心所、色、涅槃の四つに分別され、涅槃以外の三つは更に細やかな法に分別されます。
詳しくは↓の類似概念という欄をご覧ください。
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)

786:神も仏も名無しさん
19/01/27 12:07:42.19 KPozq+sW.net
>>766
>>768
なんで?

787:神も仏も名無しさん
19/01/27 12:31:50.84 YOvE6ni8.net
>>765
結果出せてるかは不明ですが
ミャンマーの瞑想(ヴィパッサナー観法)
マハーシ長老 著
と言う本がヴィパッサナーのやり方をそのまま書いてあります。
ただ同じ事をユーチューブなどでスマサーラ長老がやっていますのでそれを見ればお金がかかりません。

788:神も仏も名無しさん
19/01/27 13:32:18.12 873Y3gbb.net
>>770
下記記述では分別のない、「如実知見する者にとっての「現実」である生成消滅する世間諦の層」を「心と心所と色」としています。
すなわち、テーラワーダにおける勝義諦(無分別)は、「出世間諦(無為法)」に加え、「世間諦(有為法)」の一部を含むと考えられます。
> テーラワーダでは無分別は出世間諦の無為法(涅槃)だけです。
上記について述べられている文献がありましたら、ご教示いたけますと幸いです。
----以下、引用です----
 テーラワーダ仏教の教理では、勝義(paramattha)の物事、つまり真実(truth)・現実(reality)として、四つのカテゴリーを認めている。
即ち、心(citta)、心所(cetasika)、色(rupa)、そして涅槃(nibb?na)である(9)。
 心と心所と色は世間諦(loka-sacca)と呼ばれ、涅槃は出世間諦(lokuttara-sacca)と呼ばれる。
前者は有為のものとして生成消滅する世間(loka,世界)を形成し、後者はそれを超越した不生であり無為である出世間の領域を指示するからである。
 また、仏教では一般に世俗諦(sammuti-sacca)と勝義諦(paramattha-sacca)の区別を認めるが、テーラワーダにももちろんそれは存在する。
世俗諦とは、英語ではconventionaltruthなどと訳されるが、これは要するに「人々の合意によって認められた慣習的な真理」というほどの意味である。
例えば、「カラスは鳥類だ」などというのは世俗諦だ。
勝義である如実(ありのままの現実)の風光からすれば、「カラス」も「鳥類」も、存在しないからである。

789:神も仏も名無しさん
19/01/27 13:33:25.20 873Y3gbb.net
----以下、>>773の引用続きです----
 つまり、世間諦の三つが形成する現象を、私たちは如実に知見することができずに概念(pannatti)や分別の相(papanca,本書の用語で言えば「物語」)を作り出すのだが、そのうち、人々が「正しい」と慣習的に合意しているものが、「世俗諦」と称されるということである。
例えば「カラスは昆虫だ」と言えば、これは人々からの承認が得られないので、世俗的な意味でも真理(諦)ではないから、単なる「間違い」ということになるわけだ。
 さて、するとテーラワーダの教理では、認知のレベルに実質的には三つの層を認めていることになる。
即ち、凡夫にとっての「現実」である「物語の世界」という、世俗諦の通用する層。
そして、如実知見する者にとっての「現実」である生成消滅する世間諦の層。
最後に、そのような世間の範囲を完全に乗り越えた、不生であり無為である出世間(諦)の層である(10)。
 ならば、このうち「本来性」と呼び得るのはどの層だろう。
もちろん、テーラワーダの教理に即して言えば、心・心所・色・涅槃を勝義であるとするのだから、世間諦と出世間諦の二層が「本来性」に当たることになり、世俗諦の通用する「物語の世界」の層は、それに対する「現実性」であるということになるだろう。
(魚川祐司.仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―)

790:神も仏も名無しさん
19/01/27 15:29:43.14 X+SpEcj1.net
【カルト】スマナサーラの瞑想で発狂した奴 2鼻毛
スレリンク(psy板)
スマナサーラ 批判
スレリンク(psy板)
ラーマクリシュナvsアルボムッレスマナサーラ
スレリンク(psy板)
テーラワーダ仏教協会を批判スレ [無断転載禁止]・2ch.net
スレリンク(psy板)
日本の僧侶には破戒僧しか残ってないの?
スレリンク(kyoto板)
カルト【破和合僧】佐藤哲朗【誹謗正法】
スレリンク(psy板:1番)

791:神も仏も名無しさん
19/01/27 18:40:18.83 D02Za8ER.net
>>773
> テーラワーダ仏教の教理では、勝義(paramattha)の物事、つまり真実(truth)・現実(reality)として、四つのカテゴリーを認めている。
>即ち、心(citta)、心所(cetasika)、色(rupa)、そして涅槃(nibb?na)である(9)。
これでまず勝義諦を四つに「分別」しているでしょう。
それで下図
URLリンク(i.imgur.com)
の勝義諦は無分別というのは否定されます。
また心、心所、色はそれぞれ勝義としての法(これ以上分別できない法=存在)があります。
下のPDFのまず3ページをご覧ください。
URLリンク(liberi.jp)
これはテーラワーダのアビダルマのテキストですが、3ページには
第一義法(勝義法)Paramattha dhamma 自性が変わることが無い法
1. 心 89 2. 心所 52 3. 色 28 4. 涅槃
と涅槃以外は横に数が書いてありこれが心、心所、色の勝義法の数になります。
4ページに進むと
URLリンク(i.imgur.com)
上段にあるように心は四つに分けられる(分別される)とあり、その四つが紹介されていますが、その横にある数54と15と12と8を合計すると89となり3ページの心の横に記載されていた数と同じになります。
これが心の法の数です。
それぞれの法の自性についてはテキストを参照したりググって調べれば分かります。
心所、色もこのような感じで更に分別されます。
それもテキストをご覧ください。
勝義諦をそのまま無分別とするのは龍樹を祖とする中観派など大乗仏教の論です。

792:神も仏も名無しさん
19/01/27 21:41:48.84 D02Za8ER.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
以上、藤本晃『アビダンマッタサンガハ』を読む
より

793:神も仏も名無しさん
19/01/27 23:27:16.10 873Y3gbb.net
>>776 レスありがとうございます。
> 心、心所、色はそれぞれ勝義としての法(これ以上分別できない法=存在)があります。
> 涅槃以外は横に数が書いてありこれが心、心所、色の勝義法の数になります。
上記について、文献のご紹介ありがとうございます。
特に58ページの「一切の摂」に関する表は勉強になりました。
> これでまず勝義諦を四つに「分別」しているでしょう。
> それで下図
> URLリンク(i.imgur.com)
> の勝義諦は無分別というのは否定されます。
上記にですが、「分別」の意味の取り方に、>>776さんと>>769の図で違いがあるように思われますが、いかがでしょうか。
>>776さん:「分類」の意味での「分別」
>>769の図:papanca(戯論)、いわゆる「物語」の意味での「分別」
>>769の図における「如実知見」の風光においては、「物語」を立ち上げる「分別の相」、すなわち戯論が寂滅しています。>>769の図においては、このことを「無分別」としています。
この「分別の相(戯論)が寂滅している」という意味において、勝義諦の中の「心、心所、色」は「無分別」といえると思われますが、いかがでしょうか。

794:神も仏も名無しさん
19/01/28 00:40:55.90 C0RMr3el.net
>>778
戯論寂滅はテーラワーダというよりも龍樹の教えで中論冒頭の帰敬序に出てくる言葉です。
無分別も空の教えです。
帰敬序
(何ものも)滅することなく(不滅),(何ものも)生ずることなく(不生),
(何ものも) 断滅ではなく(不断),(何ものも)常住ではなく (不常),
(何ものも)同一であることな く(不一義),(何ものも)異なっていることなく(不異義),
(何ものも)來ることなく(不來),(何ものも)去ることのない(不去)〔ような〕,
〔また〕戲論(想定された論議)が寂滅しており,吉祥である (めでたい),
そのような縁起を說示された,正しく覚っ者(ブッダ)に,もろもろの說法者のなかで最もすぐれた人として,私は敬礼する。
(原典:三枝充悳編《中論偈頌総覽》)
無分別については龍樹の空が無自性空と言われてああるように法には自性(特有の性質)はなく空である(法空)であると説かれていることから、
空とは無分別のことであるとも言えます。
無分別であるが故に本来は言葉にはできません。
龍樹において勝義諦とは空のことなので勝義を言葉で説くことはできないのですが、世俗諦の言葉によって勝義諦を(なんとか)表現するのである、としています。
二つの真理(二諦)にもとづいて,もろもろのブッダの法(教え)の說示〔がなされている〕。
〔すなわち〕,世間の理解としての真理(世俗諦)と,また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。
およそ,これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は,何びとも,ブッダの教えにおける深遠な真実義を,知ることがない。
〔世間の〕言語習慣に依拠しなくては,最高の意義は,說き示されない。最高の意義に到達しなくては,ニルヴァーナ(涅槃)は,証得されない。
(中論24章)

テーラワーダは分別説部と自称しているように法をきっちり分別するのを教理としておりそれは勝義においても変わりません。
無分別・戯論寂滅どころか心、心所、色についてこれ以上分別できないところまで分別しています。

795:神も仏も名無しさん
19/01/28 01:40:02.13 lRCvUL0P.net
>>779 レスありがとうございます。
大乗仏教における「戲論」、「勝義諦」の関係について承知しました。
> 戯論寂滅はテーラワーダというよりも龍樹の教えで中論冒頭の帰敬序に出てくる言葉です。
「戯論寂滅」については、下記引用にもある通りテーラワーダにおいても言及され、「papanca」という物語形成の作用、すなわち「分別」を止めて現象のありのままを如実知見することが、実践面で重視されています。
上記を踏まえ繰り返しになりますが、テーラワーダの教理において「分別の相(戯論)が寂滅している」という意味において、勝義諦は「無分別」といえると思われます。
----下記、引用です----
 ゴータマ・ブッダや、その弟子の阿羅漢たちは、「現法涅槃」に達しており、六根六境を滅尽して「世界」を終わらせていただろうが、だからといって、彼らは「知ることもなく見ることもない」ような、石と変わらない存在になってしまったわけではない。
そうではなくて、六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるpapancaであろう。
「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戯論寂滅(papancavupasamo)」であるということだ。
(中略)
 ミャンマーの瞑想センターでウィパッサナーの実践を行っていた時に、指導する僧侶からしつこく言われたのは、「一つ一つの現象のありのままを見よ、イメージを作るな」ということであった。
(中略)
 なぜ私たちは、そのような「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。
それは、本章で引用した経典に繰り返し語られていたように、私たちが、五蘊・十二処・十八界といった認知を形成する諸要素に欲望を抱き、それに執著して実体視する(「我」だとみなす)からである。
(中略)
 私がしつこく言われたのも、このpapancaという物語形成の作用を止めて、苦なる「世界」に繋縛され続けることを終了させるための、親切な指導だったわけだ。
(魚川祐司.仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―)

796:神も仏も名無しさん
19/01/28 16:45:04.59 6CNY2u0R.net
>&g


797:t;780 その引用はテーラワーダの勝義諦の四つの中の最後に出てくる涅槃についての説明ですね。 テーラワーダのテキストには確かに涅槃は自性としては寂滅の相としては一種(※一種類)と書いてあります。 https://i.imgur.com/3kBWbZp.jpg ですから勝義諦の中で涅槃だけ法数が書かれていません。 https://i.imgur.com/9shJVAy.jpg http://liberi.jp/abhidharma/ad-text_1.pdf 上の図では、議論寂滅と無分別は勝義諦の下ではなく右上の出世間諦の所に書くべきですね。 ついでに無為の下の不生不滅は龍樹や般若心経などの大乗仏教と混同されるので外した方が良いと思います。



798:神も仏も名無しさん
19/01/28 16:46:36.67 6CNY2u0R.net
>>781
URLリンク(liberi.jp)
>上の図では、議論寂滅と無分別は勝義諦の下ではなく右上の出世間諦の所に書くべきですね。

URLリンク(i.imgur.com)
上の図では、議論寂滅と無分別は勝義諦の下ではなく右上の出世間諦の所に書くべきですね。

799:神も仏も名無しさん
19/01/30 15:18:35.02 iY8UMCiA.net
本当はそんなに節然と分かれるものではないよね
重なるからこそ2500年もの間その価値が認められ、無知な凡夫に生き方を説ける訳であって

800:神も仏も名無しさん
19/01/30 15:19:15.52 iY8UMCiA.net
無知な我々凡夫ね

801:神も仏も名無しさん
19/01/30 17:34:22.98 jYDNO6rJ.net
>>780
> ゴータマ・ブッダや、その弟子の阿羅漢たちは、「現法涅槃」に達しており、六根六境を滅尽して「世界」を終わらせていただろうが、だからといって、彼らは「知ることもなく見ることもない」ような、石と変わらない存在になってしまったわけではない。
>そうではなくて、六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるpapancaであろう。
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
二一 如来(ブッダ)は死後に存在するかどうか。世界は有限なものであるかどうか、など、世界は常恒なるものであるかどうか、などというもろもろの見解は、ニルヴァーナと【死後の】のちの世界と、【生まれる前の】未来の世界とに依存して述べられている。
二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。
二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
URLリンク(mixi.jp)

802:神も仏も名無しさん
19/01/30 17:34:50.97 jYDNO6rJ.net
>>785
この中論25章の19偈20偈は早い話が現法涅槃を説いているというのが通説です。
24偈は、「ニルヴァーナではいかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。 」とすると分かりやすいと思います。
ニルヴァーナの考察ではこの部分ではテーラワーダも龍樹も大差はないとは思います。
とは言っても龍樹の勝義は一切皆空であり、ニルヴァーナもその例にもれず空にしているのは、テーラワーダの人達は認めないとは思いますが。

803:神も仏も名無しさん
19/01/30 19:28:51.23 u6m3uWKq.net
勝義諦がよくわからん。
涅槃の事なのか、法の事なのか。
ウィキペディアはスッカスカだし。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

804:神も仏も名無しさん
19/01/31 00:21:31.31 uf7YVrph.net
よくある誤解
※勝義諦とは涅槃のことである→×
テーラワーダの勝義諦を見れば涅槃の他に心、心所、色があります。
説一切有部では五位75法と呼ばれるものが勝義諦でその中の無為法にある択滅というのが涅槃となります。
中観派では勝義諦は空になります。一切皆空であり涅槃も輪廻も空となります。
※勝義諦は修行僧に説いた真理で世俗諦は在家信者に説いた真理である→×
修行僧に説いた教えは出世間道
在家信者に説いた教えは世間道
であり勝義諦や世俗諦そのものではありません。
またブッダの時代には勝義諦という言葉はありません。
wikipediaではこちらの方が勝義諦の理解が進むかもしれません。
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)

805:神も仏も名無しさん
19/01/31 22:57:44.55 lbPHGj4d.net
この書き込み、よく覚えといて下さい。

まもなく日本列島に過去最大の超巨大地震が発生します。
気をつけて下さい。

806:神も仏も名無しさん
19/02/01 01:25:05.88 e1O882Rn.net
あと100日

807:神も仏も名無しさん
19/02/01 03:01:30.66 P3D/xysz.net
あと何日って地震までのカウントなの?

808:神も仏も名無しさん
19/02/01 11:55:55.09 CfvkvHYvL
瞑想の場を離れない方に質問です。

座っているとき、歩いているとき、横になっているとき
に気づきを保ち手放すことを繰り返すことはやればやるだけ
上達して簡単になってくると思うのですが


本を読んでいるとき(勉強しているとき)、人と会話をしている最中も
気づきをずっと保てますか?


あと

夢の中でも気付きが生じることになりますが

睡眠中に気づきが発生して目を覚ますことはありませんか?

809:神も仏も名無しさん
19/02/01 13:18:54.19 8BZo9C+O.net
>>789
人工地震なの?

810:神も仏も名無しさん
19/02/01 15:32:46.04 op1Oj6UC.net
慈経っていいですね

811:神も仏も名無しさん
19/02/01 15:38:13.87 kO2mfN26.net
>>794
スマナサーラ作慈悲の瞑想に比べて

812:神も仏も名無しさん
19/02/01 16:44:02.48 op1Oj6UC.net
>>795
長老も好きですがw
慈経を見ると、長老の悟りのレベルがどの程度か分かる気がします。
不還果ではないと思います。アホとか馬鹿とか言われますから。

813:神も仏も名無しさん
19/02/01 16:59:48.94 2k9WbZ8H.net
スマナサーラ長老は阿羅漢ですかね? #知恵袋_ URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)

814:神も仏も名無しさん
19/02/01 20:29:14.16 Z15TEWzA.net
ゴエンカって日常生活でどういう瞑想を1日2時間って指導されるの
ボディスキャンだけ?アナパナも?

815:神も仏も名無しさん
19/02/01 22:32:06.35 x+dHmmwj.net
悟りなんか開くより死んだ方が早いだろ
どうせ死後の世界なんかないんだから

816:神も仏も名無しさん
19/02/01 23:51:10.46 s+vUg6O5.net
>>799
そうおもうのならなんでこのスレ見てんの?
ブッダの教えは死後の世界ありきの話なんだけど

817:神も仏も名無しさん
19/02/02 12:13:42.14 i4Kb/tHj.net
>>796
預流果以上は戒律を守ると破戒僧スマナサーラは言っている。スマナサーラは預流果ですらない。
ダンマパダでは破戒僧は地獄に行くから死ねだとさ。
URLリンク(s.webry.info)

818:神も仏も名無しさん
19/02/02 12:39:58.32 i4Kb/tHj.net
消されたyahoo!知恵袋の回答
0491 神も仏も名無しさん 2018/06/06 19:55:50
URLリンク(m.chiebukuro...)
Qアルボムッレ・スマナサーラさんは解脱しているのでしょうか?
悟りを開いた人しか教えてはならないと言われてたような気がします
A解脱していません。
私は、過去に本を読んで興味を持ち、瞑想指導を受けに行きましたが、そこでの法話で、スマナサーラ長老が「TVショッピングで衝動買いした」と話していて仰天しました。
また、気を取り直して別の法話会に行った時、終了後に女性ファン数人と握手するのを見ました。
上座部では、女性に触れるのも、お金に触れるのも戒律違反です。
真面目な出家は、戒律を守るように努力するので、人前で恥ずかしげもなく破戒行為などしません。
また、解脱者はさらに進んで心の煩悩が無くなっているので、破戒行為そのものをしません。破戒行為=解脱者でないという目安です。
破戒しながら「自分は解脱した」というのは、オウムの麻原みたいなタイプです。
以上のことから、私は、彼は解脱していないし、真面目な出家でもないと思っています。
また、調べるとわかりますが、過去には、彼の瞑想指導を受けて自殺した若者もいます。
もし、これから瞑想を習おうとしている人がいたら、その点は注意したほうがいいと思います。

819:神も仏も名無しさん
19/02/02 16:25:09.09 R7zSAFG4.net
世には色々な覚者がいて、アートマンがあるという人もいますが、何が真実なんでしょうかね。
たとえばラマナ・マハルシとか、私はとても尊敬しているのですが、真我があるとか言われてます。
でも仏教では真我なんて言いませんよね。あるともないとも言われてません。

820:神も仏も名無しさん
19/02/02 19:54:44.43 rLlzxV00.net
超逆境クイズバトル!!99人の壁 古舘伊知郎が生涯クイズ初挑戦!2時間SP★1
仏教古舘

821:神も仏も名無しさん
19/02/03 07:39:03.98 xlJE9zpc.net
へー、上座部の戒律ってのは絶対的で完璧なんだね。
もともとの戒律を変えてしまった根本分裂以降の、他の仏教宗派は解脱できないんだろうね。
解脱した人は完全、完璧で、どんなささいなミスも犯すことがなく、社会がどう変化しても上座部の戒律を厳格に守るんだね。
一切は苦、ドゥッカ、不完全であると悟った人は、不完全な戒律を、不完全な人間が、完全に守る事を期待する訳ね。
この世とあの世の一切に執着しなくなった人が、上座部の戒律だけは厳格に守ることに執着する訳ね。

822:神も仏も名無しさん
19/02/03 10:51:42.85 WToDUmTjK
他人のことは放っておくのです。自他共に良し悪しを判断しないこと。
ときとして判断は猛毒になる。その繰り返しがあなたの苦しみの輪廻
を引き起こし、修行の進歩の妨げる。

他人に理想のブッダを求めてはいけません。
ブッダは自分の中に求めるのです。

823:神も仏も名無しさん
19/02/03 15:13:25.83 Mr80TOjs.net
>>805
こんなとこ見ていないスマナサーラ長老にシャドーボクシングして底辺は仕方ないな。

あと87日

824:神も仏も名無しさん
19/02/03 15:17:34.31 Mr80TOjs.net
あと87日

>>805
お前、スマナサーラ長老が預流果以上は戒律を守るって執着するって意味じゃないぜ。
スマナサーラ長老は地獄に落ちる悪業を積み我々にスリランカ仏教を布教してくれた。
長老がいなければスリランカ仏教が日本に根付かなかった。感謝しろ。

825:神も仏も名無しさん
19/02/03 15:22:05.27 Mr80TOjs.net
あと87日
俺はあえてスリランカ仏教と言ったが日本にテーラワーダが根付いたのはスマナサーラ長老のおかげ。
破戒がデフォの仏教が流行ったのだから一緒に地獄に落ちる覚悟で信じていくしかなかろう。
経典を裏切りながら。

826:神も仏も名無しさん
19/02/03 15:29:10.97 Mr80TOjs.net
>>801
それとお前。
大半のスマナサーラ長老の信者はあの世なんか信じていない。
勘違いすんな。

827:神も仏も名無しさん
19/02/03 15:37:33.64 Mr80TOjs.net
あと87日

828:神も仏も名無しさん
19/02/03 16:27:21.80 D8xLdb2r.net
もう87なん?
飛びすぎちゃう?

829:神も仏も名無しさん
19/02/03 16:30:45.57 Mr80TOjs.net
>>812
あと87日

830:神も仏も名無しさん
19/02/03 16:46:04.71 D8xLdb2r.net
何が?

831:神も仏も名無しさん
19/02/03 19:52:38.62 xlJE9zpc.net
預流果に悟ると戒律を守るのは何故?
在家の場合は五戒?

832:神も仏も名無しさん
19/02/03 21:09:30.50 Mr80TOjs.net
あと87日

833:神も仏も名無しさん
19/02/04 07:09:21.76 vS5HJT3X/
罵るものに罵りを怒るものに怒りを
言い争いに言い争いを返したならば
その人は相手からの食事を食べたことになる。

わたしはあながが差し出すものを受け取らない。

あなたの言葉はあなただけのものになる。

そのまま持って帰るが良い。

834:神も仏も名無しさん
19/02/04 07:12:04.63 vS5HJT3X/
これこそが正しいと主張することを、わたしはしない。
見解への執着もただの執着であると理解して
他者が陥るあやまちをあやまちとして理解しつつ
囚われることはない。
わたしは自らの心の状態を見つめて心の平安と澄明さを保つ。


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