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7 つぎにまた、アーナンダよ、意よって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。
喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。
しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。
かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人が、一日中、熱された鉄盤に水を二、三滴、落とします。アーナンダよ、水滴の落下は遅いものですが、たちまち尽きて、消え失せます。
ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
アーナンダよ、これが意によって識られるもろもろの法に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。
アーナンダよ、このようにして 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 になります。