18/05/10 03:00:40.12 z49XXhWj.net
◎布施とは徳行であり修行である
この話にあるように、仏教において手伝うというのは徳行であり、修行となる。
布施は正式には布施行という名前が付いているほどで、紛れもなく修行である。
徳を積むための修行、「与える」という修行、それが布施。
これは逆に考えると、修行でないものは本当は布施でないということでもある。
重要なのはそこなのだ。
布施をする者は自らの徳行として、修行として布施をするため、施しを受ける側がお礼を言ってしまえば修行にならない。
僧侶は布施の場を提供しているのであり、布施行ができる状況を作りだすという役割を担っている。
それが僧侶の重要な仕事なのである。
そのような布施の考え方からいえば、お礼を言うのは布施を行う側でなければやはりおかしい。
「布施をさせていただき、ありがとうございます」
「徳を積ませていただき、ありがとうございます」
それが布施というものの本質であり、布施を布施たらしめている根本である。
上座部仏教で、人々が僧侶に施しをし、合掌をして頭を下げるのにはそのような意味がある。
そして当然のことながら、そこで僧侶はお礼など言わない。
施しをさせてあげるのみである。
私たちの感覚からいえば、何かをいただいたにも関わらずお礼の一言もないのはあんまりじゃないかと思いたくなるが、そうではないのだ。
たとえ優しさから生まれた物品の授受ではあっても、それは徳行としての布施とはならない。
布施はあくまでも施す側にとっての修行だからである。
◎日本の布施
本来の布施とはそういうものなのだが、残念ながらこの理屈を日本で通すことは難しい。
日本にはこのような布施の下地になるような思想・慣習が存在しないからである。
それはとどのつまり、上座部仏教の僧侶のように托鉢によって生活をする僧侶がほぼ存在しないことに端を発する。