奥多摩で少年たちに虐待を繰り返していた韓国人の自称住職。実は僧侶資格のない無職犯罪者。★2at PSY
奥多摩で少年たちに虐待を繰り返していた韓国人の自称住職。実は僧侶資格のない無職犯罪者。★2 - 暇つぶし2ch816:基本。
18/11/30 09:03:24.34 VLgy8sTC.net
>>1
「刻限」という用語については、ご存知だと思います。
「今なんどきだ」と、質問するという事は、「時刻」を訊ねているわけです。
刻限というのは、時間という意味であり、それは「月日」というもののもつ本質的な要素です。
人間の成長にも時間が必要で、「月日」の守護がないと、育ちません。
そこで、つまり、時間という意味ではあるけれど、刻限には格別な真意というものが託されてあるわけです。
一つの例としまして、原典の公刊という問題があります。
明治二十二年一月十五日(陰暦十二月十


817:四日)午後六時三十分 [本席御障りに付願] さあ/\/\身の障り、さあ/\どういう事を知らす/\。 さあ/\身上々々善悪を分ける。身の知らせ、身上の処、善悪の知らせ。 さあ/\長くやない、僅かの間。 先ず/\十日半月の間。 席はすっきり外へ出せんで。 さあ/\あちらへ歩き、こちらへ歩きするのを、一寸の処知らさん事には。 皆んなの中へ知らし置く。今日から十日半月しっかりと用心。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このように明確な数字が示されたおさしづがあります。 このおさしづは、明治22年で、一日とは一年ですから、 「先ず」という意味で、 明治22年とは、1889年です。 この時から、「先の」、十日と半月席は表に出すな、ですから、合計三十五日、 つまり35年間は、「席は出すな」ですから、 1889年の翌年から35年の隠蔽、つまり、1990年から1925年までの間は「席」については公にしなかった。 1926年 昭和元年 おさしづ公刊 このように、きちんとおさしづは歴史に実現していて、それはつまり、神のさしづは、歴史に実現していたという事です。 この例は、おさしづを予言として「時刻を示す」という意味で教団の歴史は生きているという事を、意味しています。



818:基本。
18/11/30 14:08:06.27 VLgy8sTC.net
> 基本の過去の投稿までは、たぶんご存じないと思いますので、この事について基本を申し上げます。
> 親神様は、予言をされています。 > 明治二十二年陰暦十月十日の事です。
それは、次のおさしづです。
明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)午後九時 [本席身上障り願]
さあ/\/\、一寸知らし置くで/\。さあ/\どういう事を知らし置く/\。
すっきり道理上を知らし置く。さあ/\道理上々々々、これから道理上、暫く道理上通らんならん。
難しい。よう聞き分け置かんならん。
これまでというものは、細い道を通して来てあるで。細い道を連れて通りた。
どうもならんから、世界一つの理によって、一寸世界往還道を付け掛けたで。
そこで皆々心許す。往還道通すと、どんと油断してどうもならん。
長い間、道理上の道を通れとは言わん。何年々々の切りを切りて置こう。
さあ/\一二三々々々の切りを切りて置こう。一二三の印を打って置く。
一二三の印の間、世界の道理上で通る。道理上ばかりで通す。
ようこれを聞いて置かねばならんで。
さあ/\多くの人が出て来る。
一時どうもならんと言うて出て来る。
諭す処、暫く世界の道理上の理で通らにゃならん。
一二三の印を打ったら、神一条の道、人間の道理上を以て世界という。
人間から世界の道理上を通らんならんようにするから、どうでもこうでも、道理上の道を通らんならんように成る。
皆心で拵えてあるのや。
さあ今の道、世界の往還道やで。
そこで何でも彼でも、どうもならんと言うたら、道理上の道からどんな理が発しるやら分からん。
油断しては踏み被ぶるで/\。
そこで世界の道理上から、道理上の道を拵えるから、道理上を通らんならん。
どうでも心で拵えてあるのやと思えば、どうも仕様が無い。
そこでどうもならんから、一二三と印打つ。だん/\難しいなる。
早く知らそうと思えども、昼はさわ/\して騒がして諭する事が出けん。
どうもならん。そこで刻限で知らす。
どうでもこうでも、言わにゃならん、聞かにゃならん、聞かさにゃならん。三つ理を。
そこでちいとこれだけの事を、知らし置くという。

819:基本。
18/11/30 14:10:47.90 VLgy8sTC.net
つまり、明治22年11月2日の午後九時と言うのは、
五つ時とは午後七時から午後九時までですから、つまり、
22 2(1+1) 2 の五つ時。
2222の五つに、
それは、陰暦の十月十日に、知らされた「重大な」お知らせでした。
史実としては、復元。三十年、三十年の予言で、教えの復元の予言は実現しています。
でも、それは、人類の「宗教」の因縁として自覚されるべきだと思います。

820:基本。
18/11/30 14:13:31.22 VLgy8sTC.net
『ミュトスに対して、ロゴスはある。
「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。』
・・・・・・・・・・・
つまり、聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。
ヨハネ伝の聖書の文言そのものが「先ず理ありき」と約されても、意味として正しく、
そして、イエス様は、天にては、父なる神の右手に、いぬいの方向に位置していると言うことも、イエス様そのものから、語られている。
まさに、先ず始めに「ロゴス」あり。となる。
「神は理である、理は神である。」
「あると信じて願う誠に、見えてくる利益が神の姿である。」
それは「理」を信じると言うことであり、「理」が見えない世界とは、まさに、心の闇の世界。
おやさまが存命でおられるということは、「理」が理として、常にそこにあると言う意味をなす。

821:基本。
18/11/30 14:16:13.53 VLgy8sTC.net
>>1
> 《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》
> 創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。
> 言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在する
> 聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。
これは、「先ず始めに言葉ありき」の、間違いでした。
先ず始めに言葉がある。
その言葉とは「ロゴス」であり、それは、物語ではなく「理」であること、
お筆先が、まさに、「この世は理で責めたる世界」だと、示している通り。
即ち、原典とは、「理」であって、物語ではない。
聖書と言う「こふき」を有しながら、大工のイエス様の教えを、宗教高山と政治高山の横暴で、泥海にしてしまった、
しかし、「土壌」は、あるのです。
「どぢょ」は、土台となるべき「序」は語られていて、「こふき」として、あるのです。
謙虚に、大工のイエス様の教えに耳を傾けないとすれば、それは、こちらが宗教高慢だということです。
三十一歳で「宮清め」したイエス様の、実行力こそ、天理青年の手本だと、そういう見方も、正しいと思います。

822:神も仏も名無しさん
18/11/30 14:21:07.56 VLgy8sTC.net
|┌─────┐ 履歴書     平成30年10月11日
||  // ̄ ̄ ̄ ̄\..  .  | ┌────────
|| 彳丿; /,,,,,,,,\ u lヽ  . | |氏名:  松本人志
||  入丿 -◎─◎- ;ヽミ. .| ├────────
||  | u:.:: (●:.:.●) u:.::|  .| |生年月日 昭和○○年 ○月○日
|| . |  :∴) 3 (∴.::: |  . | ├────────
|| ...ヽ、   ,___,. u .. ノ . . | |現住所: 実家暮らし寄生虫株ニート
|| /\ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ\.| ├────────
|| |   .\/゙(__)\/゙  . .,|  .| 連絡先: 電話無し、携帯無し
|└─────┘.└────────
| ┌──┬─┬───────────
| | 年  . |月|          学歴・職歴
| ├──┼─┼───────────
| |     . |  |          学     歴
| ├──┼─┼───────────
| |昭和○|03|       高校中退(最終学歴=中卒)
| ├──┼─┼───────────
| |      .|  |
| ├──┼─┼───────────
| |      .|  |          職     歴
| ├──┼─┼───────────
| |平成○|○|   アルバイト・派遣(正社員経験なしの株ニート)
| ├──┼─┼───────────
| |     . |  |   現在無職(ピッタンコパーティーにて婚活中)

823:基本。
18/11/30 14:24:05.07 VLgy8sTC.net
そこで、原典に知らされた戦争の予言について、別スレで語り始めましたが、お筆先を歌のように思っていてはならないという、
そういう意味を込めまして、整理しておきたいと思います。
第四号、七十七歳老女 明治7年4月。(←扉に記載)
1年目 1874年4月~  
お筆先四号 77歳 7号 7年  4月 予言
4年目 
1877 西南戦争 
[(2月から)9月24日 西郷軍敗戦]
4+7=11年目 
1884 秩父事件 
[(10月31日)から11月9日にかけて、農民武装放棄鎮圧]
7+7+7=21年目 
1894 日清戦争
[(7月)から1895年(4月)、日本勝利]
7+7+7+4+7=32年目
1904 日露戦争[(2月6日)から (明治38年9月5日)日本勝利]
4×7=28年目 
1901年 日本初の社会主義政党。治安警察法によって禁止された。

7+7+4=18年目
1891年 足尾公害事件 第2回議会(1891年11月26日開会)田中正造議会闘争。
・・・・・・・・・・・・・
↑ このように、お筆先の扉の数理と「おうた」本文の予言は、日本の戦争、紛争をぴたりと予言しています。
「歌」のように思っていてはならない。
先ずはじめに「言葉≡理≡ロゴス」ありき、なのでした。

824:基本。
18/11/30 14:26:42.48 VLgy8sTC.net
ここで、日本にとっては、最も重大な戦争の「太平洋戦争」の予言について、申し上げておくべきでしょう。
太平洋戦争は、開戦は真珠湾攻撃の時でした。
1941年(昭和16年) 12月8日 日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争(大東亜戦争)開戦)。
戦争終結は、敗戦でした。
1945年 9月2日 降伏文書調印、太平洋戦争(大東亜戦争)終結。
明治7年は西暦1874年4月~ 1年め
       1945年4月~ 72年目
敗戦は、西暦1945年9月
(4+7+7)×4 = 72年
・・・・・・・・・・・・・・・・・
お筆先7号と書いてありますが、削除訂正すべき箇所です。
失礼しました。
日露戦争の32年目は、4×7+4=32年目です。
訂正します。

825:基本。
18/11/30 14:29:04.51 VLgy8sTC.net
日清戦争 お筆先四号の予言 7+7+7 で結果  見えた姿・戦勝
日露戦争 お筆先四号の予言 4+4×7 で結果  見えた姿・戦勝
太平洋戦争 お筆先四号の予言 (4+7+7)×4  見えた姿・敗戦
このように、勝って「昼みたいに」負けて「夜みたいに」と、
 
『夜昼知れぬ用になるぞや』
日本の敗戦は、お筆先四号の数理の世界でした。
「7」の神様の嫌いな埃は「欲」。
「4」の神様の嫌いな埃は「腹立ち」
七の組み合わせとは「欲」の原因。
四の組み合わせとは「はらだち」の原因。
日清戦争は、侵略という「欲」のトリプル。
日露戦争は、ロシアへの腹立ちのダブルに、「利権の欲」かけあわせ。
太平洋戦争は、(4+7+7)×4
腹立ちと欲と欲を合わせておいて、そこに腹立ちが、掛け合わされた。

ちなみに「西南戦争」は、腹立ち、士族の怒りが原因と、数理は、きちんとしています。
「歌のように思っていてはならない」のです。

826:基本。
18/11/30 14:32:03.87 VLgy8sTC.net
おやさまの、ご態度については、確認をいたしますと、
おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。
「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
国民の不満を煽り立てて「4」の理の「埃」。「腹立ち」。
国民の欲をかき立てて「7」の理の「埃」。「欲」。
それが、「お払いさんがふる」と言う、宗教的マジックで薩長は明治維新を成功させた。
「欲にきり無い泥水」という、「高山」の理の間違いは、「富国強兵」に国民を、
そして、「帝国主義の天皇制」を構築します。
同様の欲があるから、天理教内高山は、戦争協力に走った。
これをとことんさんげしないと、心の闇は、晴れないということです。
 はらだちとは、「理をたてないで、われを立てて、腹を立てる」のです。
 よくとは、「散財のない」姿。
甘露を、頂いて、それを神の理とも思わず、自分の権勢に、支配に用い、人に腹を立てて、
欲に切り無くなれば、戦争を起こしてしまう。
天理教団こそ、肉がくだらないように、いんちきな教理は説かないような、理のある姿に、立ち返るべきなのです。
つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。

827:基本。
18/11/30 14:34:35.24 VLgy8sTC.net
>>1
予言と言いますと、何時に何が起きるという予言だと、そう認識されています。
しかし、何がおきるかは、実は人間が決める。
その、心の理の結果として、結末が待っているわけです。
「五月五日に」と言う理は、「五つ理を吹く」です。
そして「五分五分」です。
まいた種が生え来る。それが「五つ理を吹く」の五日の理です。
その、理の吹く旬に、神の残念を見ると言うのは、それは「埃」を積み上げたと言うことに相違ないわけです。
そんなことしてると、いつか、神の残念を見るよと、言うのは、「いつか」・・「五日」。
そして、それは、五分五分。
天理教信者であれ、なかれ、みな五分五分。
理には隔ては無い。
そして、五の理の神様は、くもよみさま。
情報とは「五の理」。
それを、捜査して、人の心を惑わすと言う悪は、「高山」の悪そのものです。
おやさまの、おふでさき四号の予言は、人間が、「四の理」と「七の理」を、誠として通らせて頂いたのか、
それとも、埃として通ってしまったのかと言う、結末になるのであり、
それは「夜」か「昼」かは、心次第の道と言うことです。
それには、隔て心の無い世界、情報操作に惑わされない世界が、実現されなければならない。
一列兄弟とは、実に、重い教えです。

828:基本。
18/11/30 14:37:07.65 VLgy8sTC.net
>そういえば徳川時代における高山地方は、
>言うところの「天領」だったわけだけど、これまた語呂合わせを超えた繋がりがあったんでしょうかね?
「小学生の社会科」に、「天領」になったいきさつが詳しくありました。
URLリンク(gakuen.gifu-net.ed.jp)
江戸時代の中ごろから、領主のきびしい年貢の取り立てや引き上げに対して、農民が集団で反抗する百姓一揆が全国で増えてきました。
郡上郡でも、宝暦郡上一揆 ほうれきぐじょういっき と呼ばれる一揆が起こりました。
1754(宝暦4)年、郡上藩主金森頼錦
かなもりよりかね
は、藩の財政難を解消するために、年貢の取り方を、それまでの定免取り
じょうめんどり
から検見取り
けみどり
に変えようとしました。農民たちは、これに反対して、団結して一揆を起こしをしました。
藩では、きびしい弾圧をして、検見取りを行おうとしましたが、農民たちも、激しく抵抗し、4年もの長い間一揆を続けました。
この一揆は、藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべてが処分を受けるという、類のない大事件でした。
そして、百姓一揆が原因で、幕府の首脳部まで処分を受けたのは、江戸時代を通じてこの事件だけでした。

……郡上藩の百姓が、130人も牢屋
ろうや
につながれ、男たちはちりぢりになって一人もいなくなりました。江戸でも40人余りが閉じこめられ、村に残された家族も難儀
なんぎ
しています。
郡上藩は、山に囲まれ、土地がやせている上に、寒さやけものの害が多く、毎年不作で困りきっています。
わたくしどもは、なんでもかんでも検見取りに反対する気はありませんが、こんなに年貢が重くなってはどうにもなりません。わたくしどもの願いをお聞きくだされば、検見取りのこともお受けいたします。
まず、牢屋につながれている百姓たち、へやに閉じこめられている百姓たちをときはなしてください。その上で、わたくしどもの訴えごとをお取り調べください。

829:基本。
18/11/30 14:39:41.41 VLgy8sTC.net
「高山」の「真の柱」はとふじんである。
このお言葉の意味するところは、人間社会の「幸福けにとって、銃ぬ゛異な意味を持っています。
根本的には「支配者層は、何もわかっていない」という事を意味しています。
「とふじん」=「からの人」=何もわかってない人。
何もわかっていない「高山」は、思想として「宗教」を心の支えにしている。
と、言いますか、行動原理を「宗教」においていて、自分がモーゼであろうとし、マホメットであろうとし、キリストであろうとする。
そこで、例えば「天国と地獄の紋の鍵を持つ人」。キリスト社会で言えば「法王」のような、
「神のおそばに仕える人」・聖人ペテロの後継者が、いて、「神の剣を行使する人」聖人パウロの後継者が、存在することになる。
「支配層」は、神の代理人として、権威を有しているという、それが、「とふじん」社会の実態ということです。
この時、神の子イエスも「偶像」であり、「救済」という幻想を大衆に与え続けるという意味で、幻覚剤・アヘンのような役割を果たしています。
それば、「宗教」はアヘンだという意味となります。
宗教儀式は、「五輪」のように、それを見ていれば「一列」の平和と幸福のシンボルなのですが、
「マスゲーム」のようなものだと、さめて見詰めれば、この世に幸福を与えるという、
とふじん的おもいあがりの、「支配層」の、地上楽園演出の道具だということは、見えてしまいます。
それゆえに、マスコミは賛美し、スポーツは実は管理されているという、現象を生んでいます。

830:基本。
18/11/30 14:41:56.49 VLgy8sTC.net
陰暦の正月二十六日。二月二十六日。三月二十六日。
この、一、二、三について、確かめておきます。
陰暦の正月二十六日、扉が開かれました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。
よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、
をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。
扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。
二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。

831:基本。
18/11/30 14:50:38.81 VLgy8sTC.net
「高山」の「真の柱」はとふじんである。
このお言葉の意味するところは、人間社会の「幸福けにとって、銃ぬ゛異な意味を持っています。
根本的には「支配者層は、何もわかっていない」という事を意味しています。
「とふじん」=「からの人」=何もわかってない人。
何もわかっていない「高山」は、思想として「宗教」を心の支えにしている。
と、言いますか、行動原理を「宗教」においていて、自分がモーゼであろうとし、マホメットであろうとし、キリストであろうとする。
そこで、例えば「天国と地獄の紋の鍵を持つ人」。キリスト社会で言えば「法王」のような、
「神のおそばに仕える人」・聖人ペテロの後継者が、いて、「神の剣を行使する人」聖人パウロの後継者が、存在することになる。
「支配層」は、神の代理人として、権威を有しているという、それが、「とふじん」社会の実態ということです。
この時、神の子イエスも「偶像」であり、「救済」という幻想を大衆に与え続けるという意味で、幻覚剤・アヘンのような役割を果たしています。
それば、「宗教」はアヘンだという意味となります。
宗教儀式は、「五輪」のように、それを見ていれば「一列」の平和と幸福のシンボルなのですが、
「マスゲーム」のようなものだと、さめて見詰めれば、この世に幸福を与えるという、とふじん的おもいあがりの、「支配層」の、地上楽園演出の道具だということは、見えてしまいます。
それゆえに、マスコミは賛美し、スポーツは実は管理されているという、現象を生んでいます。

832:基本。
18/11/30 14:53:03.13 VLgy8sTC.net
陰暦の正月二十六日。二月二十六日。三月二十六日。
この、一、二、三について、確かめておきます。
陰暦の正月二十六日、扉が開かれました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。
よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、
子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、
扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。
二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。

833:基本。
18/11/30 14:55:56.66 VLgy8sTC.net
正月二十六日は、「今からたすけするのやで」という刻限でした。
二月二十六日は、真柱様と本席さまの神一条の開始でもありました。
明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午前四時
真之亮代理伺
幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋南は大工で、神一条。
さあ/\尋ねる処事情知らす。
又々心で知らし置く。
どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。
これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあ/\付けるとも。刻限事情を知らす。
大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。
さあ/\一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神のさしづ言わん。
・・・・・・・・・・・
この、一、二、三のうちの、二の段階については、どのようなものであったかというと、全く、神意に沿えていないものでした。
おやさまは、世界一列をたすける為に道を開始された。(一月二十六日)
そして、大工と鍛冶屋の・本席と真柱の、
おさしづに基づいての、世界たすけの道は、おやさまの神名すら説けないと言う、まさに、理に反したものでした。
謀反同様の、教団幹部の間違いについて、二月二十六日に、
親神様は、次のように、おさしづされています。
 手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。
明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時 のお言葉です。

834:基本。
18/11/30 14:59:02.50 VLgy8sTC.net
明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますか、と申し上げ
手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。
内々や。
何時どういう事出来るとも分からん。
人間というは死すると言う。生まれ更わり。
何年居たとて同じ事/\。
もうこれ暫くの処、どういう事も幾年間なる。何年したらどうなる。皆力を付けてある/\。
皆々よく差し入ってくれ/\。
そうして内々の処、こうして三軒棟を並べてある。
一軒の方/\立ってない/\。立たんとすれば楽しみも無い。これも第一長らえての道、余程大望な事である。
治まり無いと言えば、有るも無きも同じ事。
押して、三軒棟あって一軒立ってないという処、此辺如何の事でありますかと願
西に余分々々、余分は一人あるわい。一人こちらへ/\。
それが気に合わんとすれば、今限りやで/\。
ウヽヽヽヽ。
もう立て合いの日の立て合い/\、日の立て合いは正月二十六日、二月二十六日、これ日の立て合いや。
さあ/\何かの事も自由と言うてある。自由。
・・・・・・・・・・・・・・・・
理の親信仰というものがはびこって、おやさまの元の理をないがしろにした天理教の幹部たち。
おやさまは、厳しく、理を責めておられます。

835:基本。
18/11/30 19:35:42.95 VLgy8sTC.net
おやさまの、「昇天(死)」の日は二十六日であるという事は、存命中から、知られている事でした。
そして、明治二十年の正月二十六日でした。
おやさまは、予言どおりに、その「二十六日」と言う日に、お体つめたくなりました。
それは、本席と真柱の神一条の開始の二十六日、二月の二十六日への一段という「だんだんの道」を、到来させるものでした。
しかし、本席おさしづの時代は、応法の道であり、その応法の道は、
人間の自分勝手な道そのものとして、世界一列をたすけたいという道ではなく、
天理教団の内内さえ順調ならよいという「教団組織エゴ」の横暴がはびこり、おやさまの教えそのものを歪曲化し、
政治権力と迎合しての「とふぢん」のままにする「から」に、陥っていたという事です。
親神様は、教団幹部の願いが「わが身の内内の幸福」にしか無いと、見抜かれていて、第二段に相当する「二月の二十六日」に、
「組み換え」を宣言されています。
明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)夜十時
刻限御話
それ/\聞いて一寸問い、組替え楽し道なるや。
こうなる願の道、言う事ももうとっと楽しむ内々、刻限成る成らん、道何をして居るやら、こういうような事も言い。
聞き分け、よう聞き分け。
刻限延ばし、さあ/\思案。
五十年目に、目で見て改心。
日送りして言い、話して置く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本席が死を迎える三日前の、出来事として、「組み替え」の予言、「刻限のばし」の宣言、「五十年目に改心」の予言。
そういう、重大な内容である、「おさしづ」が、出されています。
まさに、そのとおりの人間であり、天理教団は「五十年後」どんな姿を見せられたでしょうか。
明治21年 1888年 天理教教会本部の開始
      1937年 応法の道 五十年目。
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