17/02/16 06:17:35.28 tLKHMroM.net
あげますね
8:神も仏も名無しさん
17/02/17 22:14:37.05 MMDfY1+/.net
あげますね
9:神も仏も名無しさん
17/02/18 23:54:45.25 pDvzUXt5v
おどろいたね
10:神も仏も名無しさん
17/02/19 18:59:03.71 5f2mYurmt
おどろいたね
11:神も仏も名無しさん
17/02/20 17:42:05.38 RlVx8/Bt.net
あげますね
12:神も仏も名無しさん
17/02/23 04:33:10.59 sCe1SI8JQ
おどろいたね
13:神も仏も名無しさん
17/02/24 15:36:31.20 rXk64EYd.net
age
14:神も仏も名無しさん
17/02/25 12:57:40.71 Eg50XZ/o7
URLリンク(img.po-kaki-to.com)
15:神も仏も名無しさん
17/02/26 12:35:53.81 O9LnCP01.net
保守
16:
17/02/26 15:40:01.01 WwPkhuyp.net
230: 老クリスチャン [] 2015/09/20(日) 22:49:42.20 ID:5vOSrj8m
私のサイトにある「聖書講義」の一部を、紹介させていただきます。
URLリンク(www.kuwaei2000.com)
原始教会が "旧約聖書を自らの正典として受け入れた" と言うとき、その教会とは、イエス・キリストの出来事を旧約聖書が語って来た救済史における神の御業の頂点ないし完成として捉え、宣教している共同体でありました(ヘブ1:1-4)。
ですから、この福音の宣教から切り離しては、キリスト教会における正典というものの意味を正しく理解することは出来ないのです。
そこにあったのは、救済史は教会を通して地上で続行する、つまりキリストの受肉からその再臨までの教会の時は、救済史の一部であるという認識です。
それ故に第二世紀の教会が新約聖書の正典を、そこには使徒に由来する文書のみを採用するという配慮をもって創ったとき、それは旧約聖書と合わせて一つの正典となったのであって、決して独自に新しい別の正典が誕生したのではありませんでした。
スレリンク(psy板:230番)
17:
17/02/26 15:40:23.03 WwPkhuyp.net
231: 老クリスチャン [] 2015/09/20(日) 22:58:08.12 ID:5vOSrj8m
このような救済史の認識は、啓示によって教会に知らされました。
歴史の教会はこの啓示の中にその存在の基礎を持っています。
この啓示の証人が使徒たちであり(ガラ1:11f)、私たち代々のキリスト者は使徒たちの証しを通して啓示を与えられ、啓示を受け入れるのです。
信仰とは、このような使徒たちが証しする啓示に自発的に同意すること(神の啓示に関する教義憲章5)に他なりません。 ローマ・カトリック教会は、聖伝と旧・新約聖書の二つが、使徒たちから伝えられた啓示を伝達する器であると教えています(神の啓示に関する教義憲章7)。
・・・・・プロテスタントの教会では、聖書だけを唯一の啓示伝達の器(正典)としていますが、上記の主張そのものには異論ないと思います・・・・・
スレリンク(psy板:231番)
18:
17/02/26 15:40:52.31 WwPkhuyp.net
232: 老クリスチャン [] 2015/09/20(日) 23:18:08.85 ID:5vOSrj8m
さて、当然のことながら、教会の教導職(司教と司祭、あるいは牧師と呼ばれる人々)の主要な、そして第一の任務は、信者に使徒たちの証しである啓示の内容を説き聞かせることであり、
信仰の目標が救済史の完成である神の国なのだということを教えることです。
教会は古くからミサ典礼文や信仰宣言によって、あまりにも明確にこのことを表明して来たにもかかわらず、現代のキリスト教諸教会はそれとは全く違う方向に進んで来てしまいました。
つまりそれはローマ・カトリック教会だけ、あるいはプロテスタントのある一部だけの問題ではなくて、近・現代という時代の流れであると言う方が当たっているように見えるのです。
使徒たちの宣教によれば、イエス・キリストの受肉から再臨までの教会の時は、旧約聖書が語って来た救済史の継続であり、その完成の時であります。
ですから、もし "新しいキリスト教" というものがこの救済史の連続性を断ち切ってそこから脱皮するのであれば、それは新しい別の宗教を始めることであって、
いわば買収による経営者の交代、父・子・聖霊なる神が "知られざる神"(使17:23)と入れ替わることなのです。 そこではもはや聖書は正典ではなくて、ただの "有益な宗教文書の一つ" にしか過ぎません。
スレリンク(psy板:232番)
19:プリン修道会
17/02/28 05:20:09.28 pAP36HWc.net
55: 老クリスチャン [] 2017/01/07(土) 11:03:09.06 ID:t9z+y1lB
>>52
私の書き込みに、妬みと劣等感から、激しい憎しみを持っている野良犬が、2ch にいるんですよ。
一日中、ほかに何もすることがなくて、ひたすら 2ch を荒らし回ることを生き甲斐にしている様子です。
うっかり手を出すと噛み付かれますから、どうぞ無視してください。
スレリンク(psy板:55番)
20:プリン修道会
17/02/28 05:20:35.13 pAP36HWc.net
56: 老クリスチャン [] 2017/01/07(土) 11:03:44.26 ID:t9z+y1lB
>>39
どういう系統の信仰の方かと思って、質問してみました。
お返事をふまえて、もう少し話を展開してみます。
あなたの出席しておられる教会では、主日の礼拝の中で 「信条」 を唱和する習慣がありますか ?
「信条」 が、三位一体への信仰告白という形で、三項目形式になっていることは、ご存じでしょうか ?
どこの教会でも、実際にはあまり信条のことを深く考えたり、そこに私たちの信仰の拠り所を求めるような、そういう姿勢が少ない、いやむしろ珍しいように、私は感じています。
私自身が、そこに自分の信仰の土台を置くことを発見するまでにも、長い年月がかかりました。
振り返ると、そこに至るまでの暗中模索の道程が、神学校卒業後10年以上も長く続いたと思います。
あなたに興味を持っていただける話題かどうか分かりませんが、いかがでしょうか。
スレリンク(psy板:56番)
21:プリン修道会
17/02/28 05:21:00.10 pAP36HWc.net
115: 老クリスチャン [] 2017/01/10(火) 13:53:01.05 ID:XaJ94QDa
【私の信仰遍歴 ⑤】
私がカトリック教会とその信仰とに関心をもっようになったのは、すでに神学校入学以前からのことでしたが、特に神学校卒業間近の頃から注目するようになった 「教会暦と聖書日課」 が、その後の私をカトリックへと導いてくれました。
URLリンク(www.kuwaei2000.com) → 「聖書と説教の関係について」 参照。
私の WebSite 「聖書の学び」 のトップページ
URLリンク(www.kuwaei2000.com)
に、私のカトリック教会出席開始の簡単な説明があります。
そして目次のページの お知らせ① に、聖書の学び執筆終了の経緯を書きました。
URLリンク(www.kuwaei2000.com)
たいへん大雑把ですが、私と対話してくださる方々に、自己紹介を兼ねて書かせていただきました。
スレリンク(psy板:115番)
22:神も仏も名無しさん
17/02/28 08:44:47.73 pAP36HWc.net
マラナタ
老クリスチャン先生
早く来てください、
早く来てください、
老クリスチャン先生のみことばがないと生きていけません。
老クリスチャン先生のみことばがないと 薬ぎれのように苦しいです。
早く来てください。
23:神も仏も名無しさん
17/02/28 17:09:28.40 DeIHiDKd.net
あげ
24:プリン修道会
17/03/02 15:31:45.43 Bt/OUgNR.net
v(°∇^*)⌒☆
255: 老クリスチャン [] 2015/11/04(水) 17:52:38.16 ID:51Cpo7yG
【聖書と説教 -3-】
一般的に牧師や司祭の 「説教」 というものが、ただの 「よいお話し」 であって、聖書が伝える使徒たちの宣教の継続とは何の関係もないというのが、多くの教会の偽らざる現実であります。
かつて原始教会が、どのように福音を理解し、信じ、宣教したかは、まるでそのままでは現代には通用しない古い時代の話だと、思い込んでいる節があるのです。
聖書は、現代人の知恵で解釈することによって、そこから有用な教訓や教えを引き出すために用いるものだと、多くのクリスチャンが本気で考えています。
つまり聖書は神の言葉であるとか、聖書を通して神の言葉を聞くなどという表現は、ただの宗教用語に過ぎなくなっているのです。
どうしてそんなことになってしまったのでしょう。
私のウェブ・サイト URLリンク(www.kuwaei2000.com) で、その分析をしています。ご参照ください。
●聖書講義(2015年)● → 2.19世紀の名残/教導職と信徒のキリスト教理解
スレリンク(psy板:255番)
25:プリン修道会
17/03/02 15:32:41.10 Bt/OUgNR.net
*・゚゚・*:.。..。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゚゚・*
256: 老クリスチャン [] 2015/11/05(木) 17:27:05.04 ID:ORSAaIdF
【聖書と説教 -4-】
一般に人々は、牧師や司祭と呼ばれる人は皆、聖書の専門家であるとか神学者であると思っているものです。
しかし実は皆さん実態をご存じないのであって、ほとんどの司教や司祭も、また牧師たちも、神学者ではない ・・・ 神学者になるということは、そんな片手間で簡単に出来るものではないのです。
しかもその上に、大部分の教会指導者たちは、そのような本格的な神学の成果を神学書によって学び、自分の説教に取り入れる能力にさえ欠けているのが現実です。
冷静に考えれば分かることですが、日本のキリスト教人口は極端に少ないのですから、確率から言っても、そんなに有能な人材が滅多にいないのは当然です。
その意味で、牧師や司祭と一般信者との間に、教養や知識、能力に優劣の差があるなどと考えるのは、全く間違っています。
彼らは、UFO に乗ってどこかから来たのではなくて、現実のこの日本の貧弱な教会が産み出した人々なのですから、せいぜい信者全体の平均レベル、下手をすると平均以下の人物だと考えた方がよいのです。
26:神も仏も名無しさん
17/03/02 18:00:16.37 xGNgfnlU.net
保守
27:過去ログ ★
[過去ログ]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています