中山大亮が真柱となってからの天理教を予想するスレat PSY
中山大亮が真柱となってからの天理教を予想するスレ - 暇つぶし2ch600:ままに実現するのだ。どんな事も、「元の理」の「一つ始まりに基づいて思案せよ」 事実歴史として、お筆先六号の元の理の数理のままに、天理教会神一条の道は、実現し、天理教は、一派独立しましたが、それは応法時代の、ことですが、 「ひながた」においても、元の理の数理のままに、歴史に刻まれているのです。



601:基本。
18/11/25 04:15:22.24 0nSR3rsW.net
> 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。
その開始は、【一寸身上に】逸話篇というもので始まりました。
『 文久元年、西田コトは、・・庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。
すると、夕方であったが、教祖は、
「よう帰って来たな。待っていたで。」
と、仰せられ、更に、
「一寸身上に知らせた。」
とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。
が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、
「身上に知らせたのやで。」
とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷の掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。』
おやさまの思想は、「命のやりとりは、おやさまが支配がする」という思想。身体そのものにおやさまが知らせるという思想。

602:基本。
18/11/25 04:18:49.26 0nSR3rsW.net
大社高山の人間業では、絶対不可能な命題をつきつけて、命のやり取りの「理の世界」にて、人間のこころを掃除するという、思想であり、
それだからこそ、元の理を伝え、つとめの理にて、世界を普請するという、真実真心が、おやさまの思想には、満ち溢れています。
元の理の数理を歴史に残した「六つが敷き事」。
それは、西田ことさんからはじまつた。
ろくぢはまず女からという、おやさまの思想。
とふじんの干渉し、とふじんの支配する「日本」。
おやさまだけは、せかいろくぢに向けて、元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになっていたのでした。
すべては理の世界にあると歴史に示して、のことでした。

603:基本。
18/11/25 04:22:57.65 0nSR3rsW.net
こうした天理教幹部の姿は、まさに、掃除となる対象の高山そのものですから、
「理の親」なる大教会高山のままにする支配の教団となりました。
これが、出直しとなる126 正月26日の旬の、意味は、
陽気暮らしの旬という意味であって、日本の根の国の力が出現すると言う、旬です。

604:基本。
18/11/25 04:25:47.15 0nSR3rsW.net
第3号 90
にほんみよちいさいよふにをもたれど
ねがあらハればをそれいるぞや
旬は、来ています。

605:基本。
18/11/25 04:29:57.32 0nSR3rsW.net
「旬は来ています」
この意味は、とても簡単であり、とても重大です。
旬は来ていても、旬に撒かなければ芽は生えないからです。
かって基本は、その旬の出来事の一例として、「白の基本」として、投稿をしました。

606:基本。
18/11/25 04:32:25.51 0nSR3rsW.net
> 八十八夜は、1956年の陰暦1月から、1957年の陰暦1月までの期間です。
> 「教祖70年祭執行」
> 「1/26(12/24)より2/18(1/17)までを年祭期間とし、毎日つとめを、つとめる。」
> 天理市において、天理教が「おふかん道」に出たのは、「八十八夜」の旬でした。
二代真柱様の「八十八夜」は、今日の「おうかんみち」の到来であり、
七十年祭は、「なぜか」、陰暦を基準に、祭典日が定められ、かぐらつとめが、毎日つとめられたと記録されています。

607:基本。
18/11/25 04:36:06.91 0nSR3rsW.net
それでは、初代真柱様の「八十八夜」は、どのようなものであったでしょうか。
明治二年(1869年)の陰暦1月、から、八十八夜は、1869年から、5夜を一年とと数えて、
5夜5夜と数えまして、八十八夜=17,6年ですから、きちんと整理しますと、
一夜から五夜は、
1869年の陰暦1月から1870年の陰暦1月までの期間。
六夜から十夜は、
1870年の陰暦1月から1871年の陰暦1月までの期間。
・・・このように、数えていきますと、
七十六夜から八十夜は、
1884年の陰暦1月から1885年の陰暦1月までの期間。
八十一夜から八十五夜は、
1885年の陰暦1月から1886年の陰暦1月までの期間。
八十六夜から八十八夜は、
1886年の陰暦1月から1886年の陰暦8月頃までの期間。
このように、「八十八夜」とは、1886年の陰暦1月から8月頃までの期間と分かります。
陰暦1月、心勇講の信者が、豆腐屋の二階にて十二下りてをどりつとめました。
その事から、櫟本の分署跡の今に残る監獄に、教祖、真柱の真之亮、桝井、仲田が拘引、留置されました。
教祖は、『「心勇講」は、一の筆』と言われています。
八十八夜のことは、年表には、こうあります。
「7/21(6/20)」
「教祖『四方暗くなりて分かりなきようになる。其のときつとめの手、曖昧になることにてはならんから、つとめの手稽古せよ』と仰せられる。」
このお言葉を書きとめた初代真柱様は、「つとめの稽古」に取りかかりました。
八十八夜の出来事と言うことになります。

608:基本。
18/11/25 04:39:27.84 0nSR3rsW.net
それでは、八十八夜とは、なんなのか、歌が大好きなおやさまの、真骨頂です。
「夏も近づく八十八夜」→「茶摘み」です。
明治三年三月(陰暦1月)に、教祖は、お筆先を記されました。
 ちやつんであとかりとりてしもたなら
 あといでるのハよふきづとめや    二号 三
これは、茶摘み歌にあります、「八十八夜」の予言でありました。
一連を通して、拝読します。
 これからハをくハんみちをつけかける
 せかいの心みないさめるで      二号 一
 上たるハ心いさんでくるほとに
 なんどきにくるこくけんがきた    二号 二
 ちやつんであとかりとりてしもたなら
 あといでるのハよふきづとめや    二号 三

609:基本。
18/11/25 04:43:06.69 0nSR3rsW.net
おはらいさんが降るという、操作で、民意をあげくだしした「高山」。
神仏の分離を命じた政府に対し、教祖は、厳しく、理を責めておられました。
その、経過です。
慶応3年
* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。
この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、
教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。

610:基本。
18/11/25 04:45:25.11 0nSR3rsW.net
この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、
教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。
初代真柱においては、「八十八夜」にて、その準備を、
二代真柱においては「八十八夜」にて、現実の「往還道」が到来しています。
明治二年のお筆先に知らされた「高山」の掃除の問題は、我々ようぼくの、心に置くべき、大切な教えです。
明治2年に、教祖は38日間の断食をしています。
明治2年から、38年を経て、明治41年に天理教は一派独立しました。
明治5年に、教祖は75日間の断食をしています。
明治5年から75日を経て、立教111年。おしえの復元開始となりました。

611:基本。
18/11/25 04:48:26.60 0nSR3rsW.net
このように、歴史に予言をきちんと刻まれたのは、疑い深い人間に、確かな証拠を遺し、「こわき危なき道」を、未然に防ぐようにと言う、親心からと悟らせていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高弟たちは、神の支配と思わないで、実は「上」の世界と思っていた。
何一つ、狂いの無い天理であるからこそ、
濁った天理教団幹部の「半信半疑の指導者」=「実はとふじん」がいては、濁りの水であり旬は来ていても、人に陽気が到来しない。
それが、諸井神学であり深谷教学であって、諸井は「天理神学」を説いて、深谷は「元の理=こふき」を説いた。
第3号 69
いまゝでもしんがくこふきあるけれど
もとをしりたるものハないぞや
このように知らされていて、それならばなぜ、「神のまま」という「この世の元」が研究できなかったのか。
それは、おやさまを、なめてたと、みなすより無い事です。

612:基本。
18/11/25 04:52:05.80 0nSR3rsW.net
> 神一条のコミュニティー
この言葉の意味するものは、「陽気暮らし社会」と言う事であるとするならば、まず、天理教団内部においては、実現は不可能です。
天理教会組織というのは、普請現場の「普請用仮設事務所」と言うようなものです。
「地場と中山家」以外は、道具や用材、大工という存在であり、普請のためだけに設置されるものです。
その天理教会組織が、普請をするには、神の働きが無ければならない。
その意味で、おやさまの思想と、まるで違う向きの天理教信者の「陽気暮らし」は、「陽気遊山」とはまるで違うものといえます。
[413] 基本。 2007/03/16 03:21
天理教社会というのは、「陽気普請の職能・機能集団」です。
社会とは、一線を画した所に位置している。
それには、宗教社会という隠れ蓑は、宗教の因縁上からも、隠れ蓑として利用される事は、妥当です。
そして、世の中の「厄介者・廃れ者からたすける」。
これも、天理教組織の重大な役割です。
それに対して「講」というものは、「非天理教社会」です。
天理教会は、その意味で、「講」であるためには、職業を持ち家業をなさねばならない。
そして、社会の中の普通の経済体としての、存在に、戻る事しかない。
教会が講と言うのは、それだけの実践があった後の事です。

613:基本。
18/11/25 05:03:09.08 0nSR3rsW.net
世の中そのものの中に、「講」としてあるというのが「講」です。
天理教系統信仰の、あり方の中では、それは、不可能です。
つまり、系統をばらしてしまう事は、幼稚園児が一列に手をつないで、
いる姿を批判するようなもので、成人の途中としての姿である以上、系統はばらせない。解体できない。
一人前になった時から、自立した。
自立したものが、結ぶのが「講」。
自立できない信者の、手をつなぐ姿そのものは、意味を成さない。
と、言う事です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで、より深い考察が大切です。
「にほんの根」の問題です。

614:基本。
18/11/25 06:36:26.09 0nSR3rsW.net
�、元々おやさまは許さなかった。
�、弟子(信者・特に高弟たち)は、宗教組織になりたがった。
�、教祖に物を言わせなければ、公認を認めてやろうという条件を飲んだ。
�、教祖は、ものを言わなくなった。(お体冷たくなる) >扉開いた。
�、この世の泥海の中に、天理教会本部という「苗代」=地場ができた。
�、各地の講は、天理教会と公認を望み、地場の万分の一の理として、地域の「苗代」になろうとした。
と、このような、�から�までの経過を経ました。
ところが、各地の天理教大教会は、「苗代」であろうとするよりも「水田」であろうとた。
違いは、収穫をあげるという事です。
「苗代」は育てるだけて、役割を終えます。が、「水田」は、収穫をあげます。
基本的質問さんは、「講」と言う前提で、教会を論じようとしておられるけれど、それは理想ですが、現実の大教会は、「我が田思想」。
つまり、「苗代」に徹していない。
そしても「講」でもない。
欲と高慢のなれの果てです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現実の社会の中では、教団組織にいる状態の甘えた考えでは通用しません。
もうお分かりでしょうが、今もいつも、甘露は降っている。
その前提だからこそ、慎重さが大切なのです。
高弟や、山名や諸井や河原町や郡山や船場の、大間違いの教訓を、社会において、きちんと生かして、
講としてのありようへの、二十年三十年の道が、ある事、忘れない事です。

615:基本。
18/11/25 06:39:34.98 0nSR3rsW.net
山名系教学、神学は、天理教は「人間完成の道」と定義付けして、「成人の道」だからと、
それは、信仰指導者・理の親への孝行で、成人した子供になれると、
お尽くしやお供えや、大教会・教団への自己犠牲を美徳と説くに至りました。
世間では、諸井慶徳氏の事は、例えば以下のように評価している。
URLリンク(www.keio-up.co.jp)
諸井慶徳

616:基本。
18/11/25 06:42:24.14 0nSR3rsW.net
諸井慶徳の試みは、神学研究とは一線を画す。彼は神学を、研究したのではない。神学を樹立しようとした。それは、天理教という一宗教内の出来事に留まらない。
教祖的な人物を別に、近代日本で神学と教義学の樹立を強く意思した宗教者がどれほどいただろう。
諸井慶徳の営みは、そのほとんど類例を見ない独創的な営みとして評価しなくてはならない。
 天理教内での位置とは別に、宗教学者としての彼も、学会内で広く注目を集めていた。36歳のとき、日本宗教学会の理事に選出された。博士論文を公にしていない、
一冊の著作もない人物を京都大学が招聘しようとしたという事実も、また、諸井慶徳の特異な才能の一端を物語っている。
 イスラーム神秘主義研究において、井筒俊彦が容易に追随を許さない業績を残しているのは事実だが、彼がほとんど単独でその分野を切り開いたかのような記述は事実にそぐわない。
井筒俊彦もこよなく愛したイスラームの神秘家アル・ハッラージュの研究において、
諸井慶徳は先駆的なだけでなく、今日も凌駕されない研究を残している。ハッラージュ研究の一点においては、井筒俊彦に比べても、諸井慶徳の業績は傑出している。
 諸井慶徳のイスラーム研究が、私たちに垣間見せる深みは、彼が天理教の信仰者であることと無関係ではないだろう。
絶対的普遍者としての一神教、啓示の介入と教祖の出現、聖典の誕生、さらに聖域 の認識、天理教とイスラームそれぞれの宗教生誕の経緯は、驚くほど似ている。
 二者の近似を、単に比較宗教学的に論じても、深みがそこを通じて現れてくるとは思えない。
(引用続きます)

617:基本。
18/11/25 06:47:02.75 0nSR3rsW.net
苗代は、苗代として、世界の普請の人材を育て道具を育む。
けれど、苗代には、収穫は無い。
おやさまは、「東に種撒きゃ、西に生える」と言われました。
人間はその理を知らず、東に撒いて東に収穫しようと、
天理教団の繁栄という収穫を天理教団に種撒いて、結果として得ようとした。
恥ずかしいことです。
地場は苗代として、東。だと仮定しますと、各家庭は、西。
そこに収穫がある。陽気遊山がある。
収穫は、おのおのに、・・・
それがおやさまの、陽気遊山が見たいおやさまの、教えです。

618:基本。
18/11/25 06:50:16.48 0nSR3rsW.net
「東に種撒きゃ、西に生える」は、神様に尽くしておけば、必ず自分に返ってくるという意味として説かれたりします。
それは、天よりのお与えとしての「甘露」とは違う次元のご守護です。
天が無条件に与えてくださるものと、心次第のものには理として大いに相違があります。
そして、心次第と言うのは、天理教に無関係な人も批判する人も他宗の信者も、一列です。
無条件にお与えくださる「甘露」とは、甘露台で、おやさまがお渡しになるものですから、それは、一列に渡すためのお与えですから、
特定の〇〇さんの受け取った独占物ではない。
どこどこまでも隔てない、おやさまのご配慮が、大前提となります。
魂の徳のある関根先生と言う表現は、「追従」であり、関根豊松さんは、おやさまの子にすぎません。
信仰上にままある、虚構。
嘘と追従。
諸井慶徳さんは、一度も客観的ではなかったと、指摘が評価としてありましたが、
客観的で無いと言う事は、「虚構」と言う事です。

619:基本。
18/11/25 06:58:55.56 0nSR3rsW.net
おやさまの教えは、「客観的」であり、厳然とした数理で、客観的に予言は実現してある。
主観的な信仰と言う「嘘」の世界が、泥水の実態です。
山名系・愛町系という異端は、虚構ゆえに異端なのです。
戦時下では戦争協力教理を、指導し説いた諸井慶徳先生。
それは、「嘘」「追従」。
そして戦後は、人間完成の道を説く、嘘追従。
僕は何にも持っていないと言いながら、熱海に梅園をちゃんと持っていた関根豊松さん。
しまいには、自分が神だと言うような、嘘。
本部の直属にと勧められても、それには従わず。
弟子には関根式「理の親信仰」で、素直さを教え込む大嘘。
上級の為に、自分は部下であり続けると言う、それでいて下克上と言う関根式「嘘と追従」は、
まさに「遅れてきた初代」そのもの。
全国各地の大教会初代たちの「嘘追従物語」の、最終章の、末路でした。
おやさまは、そんなインチキな苗代を拵えたのではない。
拵えさせたのでもない。
ようやく、99年が経ち、100年になろうとしています。
皆、出直しです。

620:基本。
18/11/25 07:09:50.12 0nSR3rsW.net
そこで、説いただけは通らなければならないという天理があります。
説いただけは、通る。
それが、おやさまのお楽しみです。

621:基本。
18/11/25 07:34:13.75 0nSR3rsW.net
天理教の教会の土地や建物は、元々誰かが寄付したものです。
その資産価値は、土地代建物代、膨大なものであったりもします。
数千万はするでしょう。
それを継がせたいためにね後継者を「跡取り」として、「財産後継目的」で、育てているのが普通です。
家賃ただ、固定資産税の支払いは優遇の宗教法人。
そんな誰に供えたのか、寄付したのか分からないで、寄付で出来た教会だから、欲で子供に継がせようとする。
そして洗脳する。
見えている建物や土地、それを天理教として財産化して、子供を苦しめる。
恥ずかしい事です。
そんな天理教会は、欲の塊ですから、信じる必要もないし、離れてしまった方が、賢明です。
おやさまの、お心にもかないます。
ぶっ壊したい、賛成です。大賛成です。

622:基本。
18/11/25 07:37:26.29 0nSR3rsW.net
ありもしないものを拝むのは馬鹿です。天理教の後継者だと言う育て方も以上であり狂っています。
洗脳が解けたことは、嬉しい事です。

623:基本。
18/11/25 07:40:34.48 0nSR3rsW.net
3号 77才老女 明治7戌年1月ヨリ 
このたびハもんのうちよりたちものを
はやくいそいでとりはらいせよ (3-1)
天理教の一門の中に、私的財産として教会を経営している「理の親信仰」の掃除は、
神の望みです。
後継者さんには、それを壊してしまう役割があります。
壊してしまうと言うのは、建物破壊では無く、欲の心の破壊です。
教会を私物化させないで、ありもしない神の為ではなく、人のために活用する事です。

624:基本。
18/11/25 07:43:27.72 0nSR3rsW.net
このたびハたすけ一ぢよをしゑるも これもない事はしめかけるで (3-17)
いまゝでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから (3-18)
にち/\に神のはなしがやま/\と つかゑてあれどとくにとかれん (3-19)
なにゝてもとかれん事ハないけれど 心すましてきくものハない (3-20)
すみやかに心すましてきくならば
よろづのはなしみなときゝかす (3-21)
このよふのたしかためしかかけてある
これにまちがいないとをもゑよ (3-22)

625:基本。
18/11/25 07:46:17.31 0nSR3rsW.net
おやさまは、この世の中の「確かな証拠」として、「ためし」をかけました。
このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)
なにもかもいかなはなしもとくほどに
なにをゆうてもうそとをもうな (3-24)
めへにめん神のゆう事なす事わ
なにをするとも一寸にしれまい (3-25)
はや/\とみへるはなしであるほどに
これがたしかなしよこなるぞや (3-26)
これをみてなにをきいてもたのしめよ
いかなはなしもみなこのどふり (3-27)
人のものかりたるならばりかいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり (3-28)
このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)

626:基本。
18/11/25 15:42:44.35 0nSR3rsW.net
ためしをかけたと言う事は、それを見せたら、
このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)
ためしとは何であったのか。
それは、お筆先三号においては、基本的には、

しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや (3-64)
十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ (3-73)
いまゝでの事ハなんにもゆてくれな 廿六日にはじめかけるで (3-113)
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす (3-147)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、3625の数理。0126の数理。22の2の5の数理。
これが、見えたときから、理の世界がきちんと見えて分かるようになると言うためし。
かけておかれた、おやさまでした。

627:基本。
18/11/25 15:48:36.40 0nSR3rsW.net
八島秀雄さんが、八島教理の「教典」ともいうべき文書「私の教理勉強」を出版したのは、昭和51年3月26日でした。
 天理教教典・昭和24年10月26日公刊。それから、3625の、数理で、28年目は、
{数えて28年目}→昭和51年3月26日、「私の教理勉強」出版でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3625と222の5についても、確認しておきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 3625 > 22の2の5
天理教の目的は、「大社高山取り払い」にあります。
3625 とは、大社因縁の。
22の2の5 とは、高山因縁の。 と、簡単に理解されます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

628:基本。
18/11/25 15:51:18.42 0nSR3rsW.net
お筆先には、三号の147にあります。
「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」
これですね。
 先ず、お筆先の前後を参照、考察しておきましょう。
「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」 三号147
「高山の説教聞いて 真実の神の話を聞いて思案せ」 三号148
つまり、「元の親神様のお話」と「高山の説教」との、対決宣言のような内容ですね。
 もう一つ、こういう見方も出来ます。
「今の道 埃だらけであるからに ほふけを持ちて掃除ふしたて」 第三号145
「後なるハ 道ハ広くでごもくなし 幾たりなどと連れて通れよ」 第三号146
「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」 三号147
「高山の説教聞いて 真実の神の話を聞いて思案せ」 三号148
このように、セットにしてみますと、
「掃除する→大勢を連れて通れる」→→「教えの説き始め→高山の説教との対決」
と、このように見ますと意味が良く理解できると思います。

629:基本。
18/11/25 15:55:33.69 0nSR3rsW.net
「22の2の五つ」と言う数字ですが、先ずひな型においては、夫善兵衛様の問題と言うように、理解するのが基本です。
それは、嘉永六年に、二月二十二日に出直しになっています。66歳です。
この数字の並び、「22の2」の数理として、ろくぢという、二が三つで6という意味に解しています。
ろくぢと言う教えに反していて、掃除されたと言うのが、基本的な見方です。
22年に出直しているという意味では、真柱に欲しいと望まれていて、親が承知しなかったので「迎えとられた」梶本亀造さんの例があります。
立教       天保九年 10月26日  西暦 1838年 12月12日 1年目
梶本亀造の出直し 西暦 1860年 2月20日 22年目  (1859年12月12日~1860年12月11日 の間)
いずれの場合も、「谷底」に落ちると言うおやさまの方針に対して、各々地方の「高山」として、そむいたと言うことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

630:基本。
18/11/25 15:58:24.49 0nSR3rsW.net
天理教は、きちんと「ためし」がかけてある、現実の神。実の神です。
ためしの中でも、えらいためしという教えがあります。
 このもとわ四十三ねんいせんから ゑらいためしがかけてあるぞや 第15号41
43年の数理は、
 又、43年の数理は、「天理2」天災の数理にて語られています。
 1993年(平成5年)1月15日午後8時06分07秒 釧路�


631:ォ地震発生。 →43年以前とは、1950年1月が43年前で、その以前に当たる、前年10月26日。中山善衛を真柱後継者と選定。  1994年(平成6年)10月4日22時22分57秒 北海道東方沖地震 →43年以前とは、1951年10月が43年前で、その以前に当たる、同年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。  1994年(平成6年)12月28日21時19分21秒 三陸はるか沖地震 →43年以前とは、1951年12月が43年前で、その以前に当たる、同年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。  1995年(平成7年)1月17日火曜日午前5時46分 1995年兵庫県南部地震 →43年以前とは、1952年1月が43年前で、その以前に当たる、前年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ つまり、真柱様は、震災を知っていたという事は、歴然としています。 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> まさに、おやさまは、実の神として、現実社会の親神として、えらいためしを、きちんと、予言し、実行し続けているのです。



632:基本。
18/11/25 16:01:05.61 0nSR3rsW.net
予言の書としてのおふでさきは、音と文字の二通りにて告げられています。
文字としては、 この神の残念と発生の43年の数理は、以下の15号の和歌に書かれています。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
 けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12
 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13

633:基本。
18/11/25 16:08:51.67 0nSR3rsW.net
紹介しました、15号のおふでさきには、
 10番のお歌で、「明日から働く」とありますね。
 13番のお歌で、「さあ今日は」とありますね。
これが、何時の事かと言いますと、これが書かれたのは、第十五号 明治13年1月より 90首 83歳 1880年の1月。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
 けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12
つまり、10番と12番までの間に、43年がある。
そして、13番に、「さあけふハ月日のはらがはぢけたで」とありますから、
神は立腹なのだが「控えていた」「ぢいとしていた」1880年の、翌年1881年から一年、二年と数えて、
その43年後が、
 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13
と、腹がはじける事態となるとの予言です。確認します。
1880年から、数えて43年、1923年。関東大震災。
関東大震災という、まさに月日のはらがはぢけた震災が、襲ったのは、キチガイ婆さんの予言の数理そのものでした。

634:基本。
18/11/25 16:23:39.29 0nSR3rsW.net
>天理教
>人助けを、名目で多額の寄付を、つのる教会があります。
>全然人助けになってないし、相談にもならない
>それだったら共産党のほうが、よっぽど人助けしている。
>少なくとも共産党は、多額の寄付を要請しない
>少しは、共産党みならえ!
「地場は独り立ちしてある」と教えられていますが、それは、「天理教会は地場の万分の一の理」ですから、天理教会は自立自活していなくてはならない事の意味を含んでいます。
つまり、家業と言うものを持っていなければならないし、持っていれば「集金業務」はしなくて良いわけです。
中山家は、現実には家業をしています。百姓・寺子屋・お針子・・それらは、成立しているわけです。
各大教会も、福祉や教育の仕事を経営していたりしていますが、その余分に、信者からの献金を、生活費や贅沢費に集めていて、
大教会が集金した金の二割は、本部に届いていたとして、あとは、届いていないでしょう。
大教会の直属教会もその理の子だと自称していたほどですから、まず八割は、自分の教会にて使ってしまっていて、いやそれ以上を中間搾取していて、
神が怖くないわけで、
その分、色々と手入れ頂いていて、健康管理に必死なことでしょうが、親神様はとても怖いので、お気の毒です。

635:基本。
18/11/25 16:32:16.63 0nSR3rsW.net
>「とうじん」とは親神様の教えを知らない人、信じていない人の
>他に、この資本主義経済社会をつくったユダヤ人という意味も
>あるのでしょうか?
とても難しいご質問です。
> この資本主義経済社会をつくったユダヤ人
これが、客観的事実としてそうな�


636:フかどうかという問題が先ず先にあります。 客観的事実としては、「産業革命」があり、「拡大再生産システム」が作られて、つまり工業生産においての「いつも豊年」の状態が出来たと言う事です。 それが、「資本家」においての膨大な資産形成を容易にして、「資本家と労働者」というような構図が格差としてこの世に生まれた。 その、資本家たちが市場を支配し、金融資本家として、「この資本主義」を作ったと言う事は、そのとおりでしょうが、 それは、「おやさま」の手の平の内であって、 欲の心から、利益独占のための大社高山がそのように振舞うことは、世界一列を放念にするための神の「ためし」であったと言うのが、基本的見解です。



637:神も仏も名無しさん
18/11/25 20:00:08.07 IWxUDcf3.net
ユダヤ・イルミナティの話してんの?

奴隷船貿易のオーナーがすべてユダヤ人だったんでしょ?

638:神も仏も名無しさん
18/11/25 20:07:30.27 IWxUDcf3.net
被害者のフリしてるのが一番都合がいいものな。

639:神も仏も名無しさん
18/11/25 20:10:01.87 IWxUDcf3.net
奴隷船オーナー ユダヤ人


検索

640:基本。
18/11/25 22:27:47.19 0nSR3rsW.net
> 明治2年、おふでさき二号にて とふぢんがにほんのぢいい いりこんでままにするのが かみのりいふく 二号32
 元冶元年の頃には「大和神社」は、拝して通れと、おやさまは、敬意をしめされています。
しかし、「大教の詔」の後の、「大和神社」には、決然と、理非を諭されています。
この相違点こそ、明治維新の裏の「高山」たちが、本来の「やまと=にほん」に介入したと言う、宗教事情をきちんと示しています。
 ほんらいは、おやさまの思想を「裏から教えていた」、「にほん」に、「とふじん」が、干渉し、支配を開始していたのです。
前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。

641:基本。
18/11/25 22:34:42.59 0nSR3rsW.net
前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。
対して、おやさまは、明治2年、おふでさき二号にて
 とふぢんがにほんのぢいい いりこんで
 ままにするのが かみのりいふく     二号32
決然と、理を責めておられます。
おやさまと、たかやまのとふじんとの、たたかいは、一貫したものであったと言う事です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、ひながたの史実においては、「ユダヤ」ではなく「アメリカ」が、「とふじん」でした。
米国は、「割礼」を現行していて、処女マリアを処女で出産したと説く国、「説く大社」に支配された国です。

642:基本。
18/11/25 22:47:03.09 0nSR3rsW.net
学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。
・・キリスト教徒には、罪深き黒人を、救うと言うことと、奴隷にすると言うことは、けっして矛盾したものではなく、
アメリカの自由と独立は、そこに奴隷がいてのものであり、「とふじん」の思想そのものであった。
しかし、劣等国から先進国の仲間入りをめざした明治の「高山」には、その「とふじん」の思想が魅力的なものに見えていたと言うことである。
「米国」、「自由と独立」、その背景の強い武力に、あこがれを抱いた軍国主義者が、明治の高山の「とふじん」に大勢いた。
 おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。

643:基本。
18/11/25 22:52:59.37 0nSR3rsW.net
> 実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、
> 地租改正と徴兵制への準備に入っていて、
> それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
日の本の、大和の庄屋敷の片田舎にいて、おやさまは、世界を動かす、帝国主義の覇権行動を、じっと見据えておられました。
 これからハからとにほんのはなしする
 なにをいうともハかりあるまい    二号31
 とふじんがにほんのぢいいいりこんで
 ままにするの神のりいふく      二号32
この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
アメリカ人を「唐人」と呼んでいたのは、明治の社会の常識です。

644:基本。
18/11/25 22:57:24.84 0nSR3rsW.net
米国の思想介入は、米国の大社・高山の思想背景が、聖書の原理主義であるとみなすのが基本です。
 1840年アヘン戦争。     ←→ この年「貧に落ちきれ」との神命。
 1853年ぺりーの軍艦威嚇。  ←→ この年「母屋のとりこぼち」。酒肴で祝う。
 1856年唐人ハリス下田に。  ←→ この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。
 世界中の、債務奴隷の難儀を、谷底からたすけあげようと言うおやさまの思想は、
こうして、「とふじん」がままにする姿に対して、自ら難儀の底に落ちて、吹き上がると言う、思想を示しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界が、植民地支配される中、米国は経済支配のみならず思想支配をリンクさせた奴隷国家に植民地を陥れていきます。
それが、「債務奴隷」による支配。「金融市場主義」のよる、「債務支配」です。
米国そのものも「国家」は「債務奴隷化」されてしまっています。
市場もまた、しかりです。
しかし、おやさまは、そうした「大社高山」の取り払いの道を、ひながたにきちんと残されています。
それは、奴隷経済では無い「自立経済」です。
この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。
足が立ったのではなく、おやさまのたすけの道が立ったと言う事です。
唐人は米国民の大多数も債務奴隷にしていて、
しかし、奴隷と感じさせないために、快楽もまた、宗教思想もまた、統治に用いられていると言う事です。

645:基本。
18/11/25 23:05:05.14 0nSR3rsW.net
ひながたの史実を客観的に見つめれば、天理教指導者たちは、明治政府の意には従わず、素朴に谷底競り上げにまい進できたのですが、
高弟たちは、自分たちが宗教的権威権力になりたくて、逆に、明治政府に媚を売りました。
また、宗教家業の専務となり、寄付され寄付された宗教建造物の資産を、私的財産として扱い、
まさに理の親信仰と言う「奴隷住み込み人」までありという、真逆の謀反状態すら、見受けられて、
天理市の施設は軍部の協力に専心したほどです。
おやさまの教えに背いた彼らは、ことによったら、
ほんの昨日までの大教会や有力教会の実態かもしれません。

646:基本。
18/11/25 23:15:25.15 0nSR3rsW.net
今日の現実の事ですが、神様から〇〇に手入れがあった、知らせがあったと、
基本に質問してくる場合に、会った知らせと言うもの全てではなく、一部を相談し、一部は相談しないと言う事があります。
それは、誰にもある事ですが、聞かなくても分かってるとか、どうせ言われることは一緒だとか言う判断がそうさせたりします。
又、本人に深くかかわることは、それだけは相談しないと言う場合もありました。
これも、客観的でない場合の一例になりますが、そういう場合には、「身の知らせ」そのものが、知らせとして「客観的には・成立」していません。
問われた瞬間に、「それ知らせですか?」と、疑問が湧く場合には、ほとんどそういう、恣意的な質問の場合です。
その場合でも、問われれば理の意味はお答えしますが、それは「重大なキーワード」の無い状態でパズルを解くように、見当違いに誘導されてしまう。
天理教の幹部が、おやさまの教えを客観的真実とみなさず、
「宗教的真理」とみなしたのは、自分に都合不都合が優先していたと、幹部の都合で、教理を曲げて説いたと言うべきでしょう。
それもこれも、実はみなおやさまの、手の平の上なのです。
高山が、そうであって、今もそうである様にです。

647:基本。
18/11/25 23:27:08.58 0nSR3rsW.net
書くのが、遅くなりましたが、彼が寝起きするようになって数日したとき、長男の嫁さんが基本の奥さんに、
「何かあった?」と、
お知らせあったけど、覚えが無くて、そっちかなと思って、と聞いて来たとの事でした。
それで、今彼がいるよ、と、簡単に経過を話したら、
「仕事、手伝って欲しいな」と、
「神様から、知らせあったから、こっちに手伝った貰うよ」と、
・・
長男は基本とは完全独立していて、自営業していて、その仕事を頼みたいというのです。
・・
ま、長男夫婦のことは、何処までか、・・・
神様のお知らせだと、勝手に言っているわけですが、
今日は、基本の奥さんが案内して、どんな仕事か見てもらった。
本人は、やってみますと、そんな話のようです。
とりあえず、なる理に任せてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神様の知らせだと勝手に言っている」と書いたように、都合で知らせの一部を利用していると、基本的には分かっていました。
彼は、基本よりは、長男の夫婦を選択し、私から離れ、社員になって仕事を始めました。
それから、どうなったか、・・、対偶の問題から対立し、今年一月には、離れていかれました。
身の知らせは、客観的でない場合には、つまり、天理の返しとして、本人に「嘘つき」という烙印を押したりします。
心得たい基本です。

648:基本。
18/11/25 23:36:59.60 0nSR3rsW.net
つまり、おやさまは、「から」の思想の本質を、「から」と一言で諭しきっておられる。
「一に百姓助けたい」との、おやさまの思想。
「農業という業を営む」。これには、「から」は無い。
しかし、金融資本主義を見たらわかる。
尽くが「から」である。
株券が、電磁化された事は、まさに、「から」であることの自白である。
金融市場においては、実際の製造も製作も無い。
マネーゲームと呼ばれるが、元々、親神様が人間にお貸し下された無料の物を、
人間が価格をつけて付加価値として金銭に交換した貨幣経済においては、貨幣と対価の物品が存在した。
しかし、それには、限度がある。
人間がルールをこしらえて、株式の売買というゲームにおいて、無から有を生み出し、
世界中の経済は、そのゲームそのものに支配されている仕組みに見えている。

649:基本。
18/11/25 23:43:01.22 0nSR3rsW.net
東京の不動産が高騰していて、バブルに向かっているという。
土地というものは、それ自体、親神様からの貸物借物である。
公地公民の時代には、天皇陛下からのお分けいただいた口分田であった。
少なくとも江戸幕府までは、土地は、公のものという認識が支配していた。
それを完全に崩壊させた、明治維新の唐人思想。
税制の改革で、土地は、マネーゲームの対象になった。
「需要と供給」という経済ゲームのルールは、土地に適用されて、
大都市の地価は高騰し。その信用力に、金融資本が投下されて、貸物借物の土地は、「大社高山」の基盤となった。
・・・
今は、情報が、マネーゲームの対象となり、大社高山は、そこに、今までに成功したノウハウを集約している。
・・・
それは、親神様の、手ひどい返しの、道具を自ら構築しているようなものである。
旬刻限の到来の意味は、そんなに単純なものではない。
現代社会とは、「神が表に現れた」、「現れた時代」という自白とも解する事が出来る。
すでに、天火は、人類をろくぢに向けて、降り注ぎつつつあると言う事だ。

650:基本。
18/11/25 23:46:07.75 0nSR3rsW.net
恐竜の教訓があります。
高山が、強大で難攻不落のシステムを作り、構築する。
それは、滅亡の道。
親神様は、ヒットマンとしては、神です。

651:基本。
18/11/25 23:49:32.47 0nSR3rsW.net
 アメリカ・テキサス州 干ばつによる水不足が深刻化、下水再生水を飲料水に利用
今回の新しい淡水資源を飲料水として利用することになるのは、テキサス州のビッグスプリングと周辺3市である。
この水道区の人口は約27,000人となる。供給の開始は2012年初頭


652:を予定しており、設備の総工費は1300万ドルとなる。  下水再利用水を飲料水とするために、逆浸透膜によるろ過が行われ、過酸化剤、紫外線による殺菌、汚物の処理が行われる。 これによって、1日あたり飲料水200万ガロン(756万リットル)の供給が可能となるという。 テキサス州では「トイレの水だから嫌だ」といっていられないという程に干ばつ被害が深刻であるとのことである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お筆先13号です。水不足への理が知らされてあります。  月日よりにち/\心せきこめど そばの心にわかりないので    100  せきこみもなにの事やとをもうかな りゆけつくれば水がほしかろ 101 このはなしみな一れつの心にわ なんとをもふてしやんしている 102 月日にわ大一これをたすけたさ そこでとのよな事もゆうのや    103 なにもかも月日いかほどくどいても まことにきいてくれるものなし    104 それゆへに月日のざねんりいふくが 山/\つもりかさなりてある     105



653:基本。
18/11/25 23:52:05.65 0nSR3rsW.net
親神さまの警告に耳を貸さなかったのは、天理教内の高弟と言う「高山」
それは、九十九年たって、皆出直すまでの、天理教団の姿。
このたびの月日ざねんとゆうものわ
よいなる事でないとをもゑよ (13-32)
月日にハこのしんぢつをせかへぢうゑ
どふしてなりとをしへたいから (13-33)
それしらず月日ゆう事みなけして
あとわにんけん心はびかる (13-34)
このさきハ月日のざねんりいふくを
みなはらすでなこれがしよちか (13-35)

654:基本。
18/11/25 23:55:02.98 0nSR3rsW.net
ここからが、お筆先の本論というべき、理の責めが続きます。
月日よりあまくだりたる心な なんの事やらたれもしろまい (13-59)
 大一わりゆうけつくるをたすけたさ
 こゑ一ぢよふをしへたいから (13-60)
こゑてもなどふしてきくとをもうなよ こゝろを神がうけとりたなら (13-61)
 いまゝてハしんぢつ神がゆてあれど
 うちからしてもうたがうはかり (13-62)
 此のたびハなにをゆうてもうたがうな
 これうたがへば月日しりぞく (13-63)
この事ハあくどいほともゆうてをく これうたがへばまことこふくハい (13-64)
月日より一どふゆうてをいた事 いつになりてもちがう事なし (13-65)
 いまゝでわ月日なに事ゆうたとて
 みなうたごふてゆいけすばかり (13-66)
月日にハ大一これがざんねんな なんでもこれをしかときめるで (13-67)
これからハ月日ゆう事なに事も そむかんよふに神にもたれよ (13-68)
したるなら神のほふにもしんちつに たしかひきうけはたらきをする (13-69)
 月日にハこらほどくどきつめるから
 心ちがゑばすぐにしりぞく (13-70)

655:基本。
18/11/25 23:58:09.52 0nSR3rsW.net
つまり、天理教団神学も、愛町関根豊松も、
 いまゝでわ月日なに事ゆうたとて
 みなうたごふてゆいけすばかり (13-66)
そういう状態であって、親神さまの第一の目的である、「 大一わりゆうけつくるをたすけたさ
 こゑ一ぢよふをしへたいから (13-60)」を、言い消していたわけです。
↓次のお歌の理ばかり説いていた。
「しんちつに心にまことあるならば どんなたすけもちがう事なし (13-71)」
「こえ」について、「りうけ」について、これが神意の「第一」だと言う事は、打ち消すばかりであった。
自分たちの都合で、教えも知らせも、守護もおたすけも、自分たちの都合で、どこにも客観性が無い。
山名系教義、愛町系教理、では、親神さまを「残念立腹」状態に追い詰めていたと、そう言う事です。

656:基本。
18/11/26 00:01:31.23 p3leMfcC.net
「正月こえのさずけ」と、御神楽歌にあります。
それは、「第一番」に出てきます。
「一に百姓たすけたい」と、おやさまは言われました。
おふでさきは、よろづよの八首部分の、すぐからこう続いています。
 だん/\と心いさんてくるならバ せかいよのなかところはんじよ (1-9


657:)  このさきハかくらづとめのてをつけて みんなそろふてつとめまつなり (1-10)  みなそろてはやくつとめをするならバ そばがいさめバ神もいさむる (1-11) いちれつに神の心がいづむなら ものゝりうけかみないつむなり (1-12) りうけいのいつむ心ハきのとくや いづまんよふとはやくいさめよ (1-13) りうけいがいさみでるよとをもうなら かぐらつとめやてをとりをせよ (1-14) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このようにあります。 陽気遊山の土台は、「ところ繁盛」であり、それには、食糧問題こそ最重要だからこそ、 親神様は「こえ」を、教え、与えようとして、「立教」されたのです。 それを、きちんと伝えられないどころか、わが教会わが信者、わが理の親、わが理の子と、 恥も外聞も、お筆先も、全く無視の、かれら天理教と言う門内の「たちもの」。 これを掃除しなければ、親神さまの残念は、立腹は、収まらないと、 お筆先には、ちゃんと書かれています。 もう、皆様には、理が、見えたと思います。



658:基本。
18/11/26 00:08:25.91 p3leMfcC.net
「とうじん」については
ありがとうございました。
とうじん思想はおやさまがお嫌いなのは理解しました。
イギリスがイランに対して報復すると発表しました。
すでに、イランの核施設に攻撃情報もあります。
ただでさえ、ヨーロッパ経済危機が騒がれているのに…
これから世界はえらいことになってきそうです。
ところで、「とめふで」本部未公認の本席さまなる
お言葉がありますが、信じていいものでしょうか?
まるで、世界終末の予言のようです。

659:基本。
18/11/26 00:12:03.88 p3leMfcC.net
とめふでについては、以前にも述べた事があります。「異説」そのものです。
異説である根拠を、説明しますと、とめふでの文章の、矛盾です。
URLリンク(www.geocities.jp)
「とめふで」・・・・・
さあ、これより一寸さとして日本中授けで響きわたらす。
神の話みな疑うている。
討つ者あれば討たれてみよ、向かって切る者あれば切られてみよ。
一人一名の心定めたら一人で千人助けするのや。
神がにをいかけて出すのや。一人でも人の助けさすのや。これ程大きな「こうのう」はない。
道の者は、神の授けたる借りものの理をわきまえたものは、心の因縁、道のものは田地はいらん。
田地は世界の信者のものがある。これも作ってあまりの心を運ぶ。これを結構と思わにゃならん。
また、席ずみのものは、見わけ聞き分け、この世の因縁の理を聞き分けて、財産を売り払い人を助け、これは因縁の理とす。
これにそむけば、命も財産も神が受け取る。
この事はいつの事やと思うなら、三六二五の暮合いに、これを百十五年限りとす。
この時は、小さい魂をこの世に返して牛馬と生き返す、これを承知せよ。
それ故に、今日一日を生涯の日とす。早く悟れよ。神がせき込む。さあ/\急いで働け。
わずかな日やで。今日一日を万日に向かうよう、聞いて悟らにゃならん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「道のものは田地はいらん。」これは、おやさまの教えには無いものです。

660:基本。
18/11/26 03:59:36.88 D2bV2Iio.net
> 「道のものは田地はいらん。」これは、おやさまの教えには無いものです。
天理教の教えの上で、一番の基準は「みかぐらうた」ですが、みかぐらうたには、こうあります。
その、原典の御神楽歌には、七下り目にこのようにあります。
三ッ みなせかいのこゝろにハ でんぢのいらぬものハない
四ッ よきぢがあらバ一れつに たれもほしいであらうがな
五ッ いづれのかたもおなしこと わしもあのぢをもとめたい
六ッ むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい
七ッ なんでもでんぢがほしいから あたへ


661:ハなにほどいるとても おやさまの教えは「いつも豊年教えたい」のですから、「田地」が無かったら、豊年はないわけです。 その田地を、道の者はいらないと言う、そんな教えは、天理では無い。 「命も財産も神が受け取る」という文言にも明らかなように、 また、「席ずみのものは、見わけ聞き分け、この世の因縁の理を聞き分けて、財産を売り払い人を助け、これは因縁の理とす。」という文言でも明らかなように、 田地財産を、神に奉納せよと言う、投げ出せと言う意図が明白です。 天理教の異端が、おふでさきの言葉を混ぜて、言葉上手に組み合わせて、信者から財産を巻き上げる為に作文した、「偽おさしづ」ですね。



662:基本。
18/11/26 04:02:02.47 D2bV2Iio.net
お指図は、お筆先とは共通の用語は、あまり用いられていません。
天理教の教理を悪利用して、脅して、「財産放棄」を信者の義務だと、洗脳するための、偽造原典。
内容が、過激だから本部が認めていないとか言う、口上は、詐欺師の常套社団です。
異端の作成した偽造お指図ですが、教団幹部が、『いや、実は門外不出の、「とめふで」があって、
田地や財産を売り払わないと因縁は切れないと、教えがあるのですよ。』
『今に、死人の山が・・・』『その時に、たすかるには、因縁を切ってないとたすけて頂けない・・』
こんな風に、脅し揚げていくのにも、利用された事でしょう。
情けない事に、教団幹部、山名系や愛町系には、
まことしやかに、そういう脅しの偽教理で集金していた「泥水」が混じっていると言う事も、忘れてはいけません。

663:基本。
18/11/26 04:05:05.58 D2bV2Iio.net
> 本席様の後継者は上田ナライト様ですよね。
このご質問ですが、そうではありません。
「本席」と言う言葉は「別席」という言葉と対句のようなものです。
親神さまが座る席という、そんな風に理解したら分かると思います。
人は神というお言葉がありますように、誰の心にも「神の席」があるわけです。
そういう、隔ての無い思案の上では、本席様は特殊では無いと言う事です。
k指図では、
明治二十年三月二十五日 午前五時三十分
刻限御話
『一寸頼み置くと言うは、席と定めたるといえども、今一時にどうせいと言うでない。
三人五人十人同じ同席という。
その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。』
このようにありまして、「同席」の皆同列の中に、綾錦の上に絹と言う、その程度の差と言う事は明らかです。
本席様と言う立場を、「教祖の後継者」と定義するのは、重大な理の誤解です。
ですから、「教祖→本席→ナライト」という、天啓者の継続と言う組み立ても、大間違いです。
ぜんぜん物が違うという言い方が出来ます。
> あちこちの教会でもこんなことがあるんでしょうか?
私の近所の教会長さんは、入信したてのころ、赤衣のおやさまを見て、それで熱心な信仰をしています。
でも、お地場にて、赤衣のおやさまを見ても、その後信心は全くしなかった人の例も知っています。
重大な問題では無いと思います。
皆「同席」、一列ということですから。

664:基本。
18/11/26 04:08:16.30 D2bV2Iio.net
授訓について(その一)
※みちのとも大正七年八月号に「授訓に就いて」という記事があります。これは‥
 大正7年7月11日 中山たまへ(初代真柱夫人)、授訓のお運びをする。(改訂6版 天理教史参考年表・高野友治編・養徳社・平成9.4)
という出来事に対する記事であります。冒頭を読みますと分かるのですが、
あきらかに上田ナライト様から中山たまへ様への授訓(おさづけ)のお運びの交代に対する、本部の公式な見解(あるいはそれに準ずるもの)と言えると思われます。
将来の参考になると信じまして、ここに紹介させて頂きます。(いつものように、旧仮名遣�


665:「等は適宜改めさせて頂きます)



666:基本。
18/11/26 04:11:10.72 D2bV2Iio.net
 授 訓 に 就 い て
   一
 今回前管長夫人が上田奈良糸様の御病気御差支えに付授訓の運びをせらるゝに至りました。
そこでこの事情の経過を知らざる部下先々に於いては、多少の誤解が生じんとも限らぬので、
如何にして前管長夫人が授訓の運びをせらるゝに至ったか、
その事情の経過を明瞭にすると共に、本教の教義の上からも、
本教の歴史の上からも、これが当然の処置である事を説明しておきたいと思うのであります。
 そもそもこの問題は、本年の三月廿三日来の上田奈良糸様の病気が動機となり、遂に今回の結果になったのであるから、
この病気及びこれに対する本部員の協議から申し上げなければ分明(※1)せないのであります。
::::::::::::::::
資料は、↑、当時の事情を述べていますが、
お授けを渡すということについては、東京に教会本部が設立されたとき、「松村吉太郎さん」が、一時、渡していたという史実があります。
それは、おさしづにて、神意を受けてのものでした。
松村吉太郎東京に於てさづけの事に付伺

667:基本。
18/11/26 04:18:33.56 D2bV2Iio.net
明治二十一年五月二十三日(陰暦四月十三日)
さあ/\尋ねる処、一寸分かるまい。一名一人さづけ処、内々しん/\処々、あちらこちらで違い、代として又一つ代理勤めさそう。
このように「代理勤め」として許されています。ナライトさんを引っ張り出すとか、していません。
誰が渡すのではない「おやさま」が渡すのです。
代理は、内内の「しん」がなさるようにということですから、その部者部者のしんが、代理するのは、きわめて自然な天理です。
代理が誰かということは、内内の事情ですから、考えすぎても意味はありません。

668:基本。
18/11/26 04:25:03.46 D2bV2Iio.net
おやさまがご存命で、お屋敷はおやさまの、神屋敷です。
それが、いつになっても同じことだという、それを理解できていないと、意味のない考えすぎに陥ります。
医者が薬を渡した、それを受付の事務員が代理して渡した。
免許証を、受け取るときに、代理人はだれかと、問題にする人はいません。
当事者というのは、代理人に過ぎない。
誰が、代理人に選出されたとしても、渡すのは「おやさま」です。

669:基本。
18/11/26 04:28:31.13 D2bV2Iio.net
おつとめは、基本は、「たすけのためのおつとめ」です。
自分の「ほこり」はおつとめで、払うということは、結果論的にくっつけるとそうなるかもしれませんが、
それは、食堂とトイレをくっつけた様な無理な論理です。
掃除用のバケツの水と、渇きを癒すための水を、一緒くたに思案するのは、味噌くそ一緒。暴論です。
埃を払うには、自分の精神そのものです。あるいは、行為そのものです。
何かに祈願して、自分の贖罪をするというのは、天理ではありません。
「信心するものの心得」で、一番大切なのは、「陽気遊び」が、基本です。
原典でいうところの「陽気づくめ」です。

670:基本。
18/11/26 04:31:05.33 D2bV2Iio.net
ですから、「信心して、陽気になる」という、そういう思案は、原典にかみ合いません。
信心していても、いなくても「陽気づくめ」が、可能であり、大切なわけです。
では、どうして信心するのでしょうか?
それは、おやさまが恋しいからですね。そしてこの世の普請をおやさまとともに、したいからです。
だから、おたすけの為の「おさずけ」を頂くわけですね。
そして、よろず助けのおつとめの、学びをし、朝晩に、たすけを祈願する。
それが、信心のはじまりですね。

671:基本。
18/11/26 04:34:06.88 D2bV2Iio.net
> ここ最近熱心に信仰していた方が、若くして病気で亡くなりました
先ず、この問題ですが、熱心な信仰というのは、「近道」、最短距離というものを求めがちです。
生きる事を急ぐと言う事は、密度を濃くする事ですから、濃い時間をすごして、生き急ぎ�


672:ィ死に急ぐ。 「薄きは誠」「薄きは天の理」と教えられています。 熱心が、急く事になりますと、それは、埃そのものですから、生きている事そのものの意味を失うことになります。 さて、大工さんが仕事をしている現場では、木屑、鉋屑はたくさんあります。 それは、正味となる「柱」や「板」が、出来ていくから、屑も出ます。 屑のまったく無い現場は、いわば死んでいる現場です。 埃の出ないような人生では、正味も、少ないということ、理として心得るべきです。



673:基本。
18/11/26 04:37:05.98 D2bV2Iio.net
生き急がないで、つまり死に急がないで、埃の無い現場にしない。
そういうことの一例として、おやさまは、病んでいる手と健康な手を示されて、
やんでいて何もしない手は、きれいだと、働いている手は、そんなものではないと、示されたと、ありました。
旅行やお酒を飲んで歌うのも、働いているから、楽しい、楽しめる。
そういう陽気もあれば、じっとお月様を眺めていると言う陽気もあります。
「信仰の不熱心」が楽しめたら、「埃ばかりの現場」が楽しめたら、陽気づくめに、なれます。
「因縁の切れない事」が、親神様のお慈悲である事すら、楽しむ事です。

674:基本。
18/11/26 04:41:04.78 D2bV2Iio.net
「たんのう」。
これが、因縁を切る唯一の道と教えられています。
「我慢、辛抱」も、たんのうのひとつですが、「たんのう」とは「堪能」と理解する事です。
「たんのう」とは「堪能」、つまり精通する事です。
大工仕事に堪能と言えば、精通していると言う事です。
お酒に堪能と言えば、お酒に精通していると言う事で、酒のみの因縁を切ろうとしたら、御酒に精通し、お酒の飲み方に精通し、お酒の肴に精通する事です。
精通しようとしたら、酔ってなんぞいられない。
利き酒の出来る人は、なめる程度しか召し上がりません。
酔いつぶれていたら、ソムリエにはなれません。
精通しないで、辛抱しないで、我慢しないでいたら、本当の味も飲み方も分からない。
ただ、酔っているだけと言うすがたが、因縁の切れていないすがたと言う事です。
酒の楽しみ方を知らない。
つまり、因縁が切れていないということは、酒で陽気になれない姿。
酒に精通し、うまい酒をうまく飲む事、楽しめることが出来たら、因縁は切れているのですが、
「断酒」していては、酒で楽しめないと言う、悪因縁は全く切れていないと、そういう事です。
陽気づくめに、酒を飲めたら、因縁が切れたということ、です。

675:基本。
18/11/26 04:45:11.36 D2bV2Iio.net
精通するには、たんのう。「単能」です。
シンプルに、そのことにのみ能力を注がないと、精通は難しいものです。
「単能」の反対が「万能」です。
万事に精通すると言う事を、望むと、「欲」です。
「単能」ではなく、「万能」になったら、「玄人」として、無理があります。
人を助けたいとしても、万能はおやさまにお任せして、自分はたんのうであることです。
出来ない九千九百九十九の、己の無能を、「結構やなあ」と楽しめないと、たんのうは、成り立ちません。

676:基本。
18/11/26 04:50:14.94 D2bV2Iio.net
> 「埃を払うには、自分の精神そのものです。あるいは、行為そのものです。」
> について具体的にお聞かせくださいませ。
> 精神は人をたすける心使いで行為はおたすけなのでしょうか?
具体的にいいますと、「正味=真の持ち味」と「正味でないもの=埃」との、精神においての「分別」であり、「仕分け」を、日常に常に行う精神力です。
例えば、人が誉めてくれたとしますと、これを、「正味」と受け取るのか「埃」と受け取るのか、心を澄ませて思案する、精神、精神力が、必要と言う事です。
奥さんが真心から、悪いと叱る行為を、「カス」と、いらん事してと、受け止めていては、埃の掃除は出来ません。
友人が、悪いことに誘うのに、とても親切で優しくても、「さすが友情」と受け止めていたら、埃の掃除は出来ないわけです。
それで、基本的には、おやさまにお願いして、「善悪」をお知らせ頂けば良いわけです。
それは、「左善・右悪」と、教えて頂いていますから、日日に、おやさまに教えてくださいと、頼んでおけば安心です。
知らせが何も無かったら、悪では無いわけですから、埃だと、神経質になる必要はありませんが、
右足をくじいたり、右手をはさんだり、右頬に出来物が出たら、基本的には


677:埃ですから、すぐ、対処し、心を変えればよいのです。



678:基本。
18/11/26 05:01:29.43 D2bV2Iio.net
行為そのものとしては、その知らせ、サインのようなものですが、サインに従うことです。
赤信号なら、止まり。青信号なら、進む。
サインの見落としは、しても、たいした問題ではありません。
神様が、またよこせばそれで、すみます。
サインの無視は、三回やったら、見捨てられる行為ですから、神の慈悲にすがっても、無理です。
精神とは、「精」「神」。
「精」とは、国語の意味は、
[1]生物の根元にあるもの。たましい。精霊。多く人間以外の霊魂についていう。スピリット。
[2]生命の根本にある力。心や体に備わる力。精力。
つまり、その人の根源ですから、全てにおいて、心の根源を、
「神」に置くと言う、状態が、精神そのもの。
おやさまに、お任せすることです。
そして行為とは、おやさまのお知らせや、なって来る理に、「理」に素直と言う行為です。

679:基本。
18/11/26 05:05:21.00 D2bV2Iio.net
> 精神は人をたすける心使いで行為はおたすけなのでしょうか?
人をたすける心と言うものは、「誠真実」ですから、神に適っています。
しかし、それだから、「埃」は無いかと言えば、人をたすける心と言う心にも、「埃」は、それは必然的に生じます。
人をたすける行為だから、汗をかかないのかといえば、汗は出ます。
真心でしている行為でも、大工の仕事場なら、屑や埃は、それは、あるのが当然です。
つまり、真心の料理でも、台所には、生ゴミがでる。
おやさまは、「私でも台所に立ったら埃が出る」と仰せられたとの事です。
つまり、「埃の掃除の為に、人をたすける」というのは、「お座敷とトイレが一緒」なので、ちょうど、刑務所の中での生活のようなものです。
埃の掃除をしたかったら、それは、人たすけでは無い。
人をたすけたいという、その心だけが正味、真価であり、人をたすけてわが身助かるのは、教えられたところの「天理」ですが、
それも、全てをおやさまに、もたれきると言う、天理教徒なら、当然のことに、心は砕くべきです。

680:基本。
18/11/26 05:11:54.96 D2bV2Iio.net
> つまり、「埃の掃除の為に、人をたすける」というのは、「お座敷とトイレが一緒」なので、ちょうど、刑務所の中での生活のようなものです。
↑ このように比ゆしましたのは、「因縁切る」ということを、「罪の償い」と、そのような認識があるから、
結局は、人をたすけることで、己を清めようと言う、言うなら贖罪の発想が、心に浮かぶと言う事を、お分かり頂きたかったからです。
人をたすけると言うのは、己の「神性」を生かしきる行為です。
しかし、それにも「埃は、必ずある」、ということは、「埃とは正味の本質を教えてくれるもの」です。
お魚の「アラ」を掃除して、お魚の真の美味を味わうのであり、
それを、仕分けし、分別しないと、人助けどころか、わが身への執着となり、一緒くたに、ゴミになってしまいかねないと言う事ですね。
お分かり、頂けたでしょうか。

681:基本。
18/11/26 05:15:04.17 D2bV2Iio.net
> 八つのほこりを使わないよう常に気をつけて
> 「陽気づくめ」なのでしょうか?
埃を余分には出さない配慮は、マナーかもしれませんが、埃を出さないということは、正味が生かされていないと言う事に成ります。
例えば、増井りん先生は、怒りっぽくて、一寸でも遠慮したりすると、すぐ、怒りつけたと、聞きました。
正味を出すとは、埃を積極的にバンバン出す、それくらいな気持ちだないと、真価は表れず、道は先に進みません。
おやさまは、この道は、と、限定されて、道の者の出してはならない「埃」を教えられていますから、それだけは、気をつけるべきです。

682:基本。
18/11/26 05:19:09.91 D2bV2Iio.net
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや
第3号 96
つまり、欲しい、惜しい、かわいい、欲、高慢。は ← 道の、「埃」。
では、残りの三つは「憎い�


683:A恨み、腹立ち」は、 ← 人間生活の「埃」。 つまり、「欲しい」は、正味に「意欲」があれば、必ず出る埃。 理想を見れば、見れば必ず出る埃ですから、「欲しくない」人は、本当の道の者ではない。 増井おりんさんは、「あんた私の上げるものいらんのか」と、遠慮する人には、叱りつけたそうです。 欲しがるととても喜んでいた。 当然おやさまも、欲しがる人を喜んだ。「汚なはすか」という逸話が雛型です。 それは、「惜しい」という埃も、それが出ないようでは、道の者ではない。 惜しむのは、価値を知り、恩を知るからです。



684:基本。
18/11/26 05:32:02.95 D2bV2Iio.net
おやさまには、なんの堅苦しいことをしなくても、「おやさまお知らせ下さい」だけで、良いのです。
親子ですから。
お言葉に「一度は許す、二度は見逃す、なれど三度目は」とあります。
私の十代の頃の仲間には、単独布教から教会を設立した、現役の会長さんたちがいました。
「君は熱心に天理教を布教しようと考えているが、そんなんじゃだめだ。
じっとしていても、神様が信者さんは連れてきてくださる。
通ればわかるよ」。
「おたすけおたすけで、朝から晩まで布教していた○○さんという人がいたが、雛型だ雛型だと、ご飯は冷や飯にお湯掛けて流し込んで・・
結局、何もならんことだった。」「おやさまのひながたなんて、そんなものじゃない。」
こんな話を、聞かされて、・・でした。

685:基本。
18/11/26 05:36:31.73 D2bV2Iio.net
熱心な大教会長さんで、熱く道の展望や将来を語ってくれて、ともにやっていこうと、・・
その時、この方危ないと思いました。
数ヵ月後には、死にました。
熱心な会長さんで、アウトになった人、後継者でアウトになった人、大勢見てきています。
おやさまに、お聞きするというのは、セレモニーではだめです。
普段着でないと、だめです。
おふでさきでは、「儀礼的な信仰していて・死んだ」実例が、残されています。
逸話篇に、「絹と木綿」の話題がありますが、そのお諭しを頂いた本人です。
「近道も欲も高慢無いように」と、お筆先にはあります。
欲は「重欲・強欲」。高慢は「自慢に我慢に高慢」。これは、あっては、本当の道には出られないと言う事です。

686:基本。
18/11/26 05:47:24.36 D2bV2Iio.net
> 信仰を知り始めた人でおやさまに半信半疑でも大丈夫ですか?
> 年限がものを云うのでしょうか?
元冶元年のつとめ場所の普請の時、大工の伊蔵さんは「超信仰の浅い、年限の無い」入信したてでした。
明治七年に、入信したてが、増井りん先生。
おやさま扉を開くときの、直前の入信は「増野正兵衛」さん。扉を開く当時においては、松村吉太郎先生は、年限なんて浅い若造。
年限は、浅いほど、チャンスがあるわけです。
おやさまに、半信半疑の場合は、半信半疑というのは、「信じていない」という、事として、理解されていれば、大丈夫です。
人は、「半分信じて、半分疑って」で、文字は半信半疑ですが、良く考えれば、「疑っている」そのものです。
それは、ちゃんと自覚が大切です。実は、疑っているのだと。
そして、疑う以上、試すべじです。
試すようにと、おやさまは、おふでさきに、知らされています。

687:基本。
18/11/26 05:51:09.81 D2bV2Iio.net
能力は、人は皆神の子ですから、誰にでもある です。
ですから、霊能力者と称する人にも、能力としてはあるでしょうが、
甘露とは、元なるおや、つまり、存命の中山みきさまのみから、渡されるものですが、うちと外には、隔ては無いのですが、
精神の問題と言うものは、そこにあると言う事です。
さて、平野楢造さんの逸話ですが、あの日、平野さんは、「お守り」を手放してしまっていて、それで、「山本利八先生」に相談したら、
「そりゃ、あんたの命はないのや」と、諭されたと言います。
楢造さんは、「あんな寂しい思いをした事は無かった」と、語られたそうです。
そうか、自分はもう死ぬのかと、家路にも着かず、お屋敷にいて、



688:サこに、暴漢が殴りこんできて、おやさまをさらおうとした。 俺はここで死ぬのだと、思われたそうです。 おやさまの為に、死のう。 「このものゝ度胸を見せたのやで」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 天理教への妨害組織と、乱闘に告ぐ乱闘の、楢造さんでした。 奈良にて、乱闘があった後のこと、「ご教祖様でも、このような事はなかっただろうと」か、そのような事を誰かが言ったとき、 楢造さんは、それを否定されたそうです。 針が別所の謀反の時には、竹槍立てて取り囲む中を、おやさまは、お一人、泰然自若とお通りになって、助造さんに、お諭しになった。 おやさまは、どんな道もお通りになっておられるのだと、諭されたそうです。 度胸とは、 楢造さんには、そんなおやさまの、お姿そのものだったのでしょう。



689:基本。
18/11/26 06:01:25.77 D2bV2Iio.net
能力の話と言うものを、もう少し、語りましょうか。
能力は誰にでもあるとしまして、神様の知らせというものが、あるとします。
あるとしまして、それを悟り、行うとします。
すると、それは自分の力であると、そのように考えて、それで皆間違えていくわけです。
或いは、本人は自分の力とは思っていなくても、周囲や、弟子たちが、その人個人の特殊な能力だとか、間違えてしまう。
それは、どこにでもある光景です。
能力としてではなく、知識としてだけの事でも、普通に見たら神秘的に見える事もあります。
それで、「異端」が生まれるのです。
それは、謀反です。

690:基本。
18/11/26 06:25:43.81 D2bV2Iio.net
それで、異端の数理として、「3625」がお筆先に知らされてあります。
 しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや (3-64)
しやんせよなんぼすんだる水やとて
とろをいれたらにごる事なり (3-65)
にごり水はやくすまさん事にてわ しんのはしらのいれよふがない (3-66)
お筆先において、はっきりと、「澄んだ水に入れた泥」というものが、「異端」であり、謀反であると言う事の理が知らされてあります。
針が別所の助造さんは、おやさまから頂いたさずけで、「奇跡的霊救」を行い、自分が「本地」だと説いた。地場は「垂迹」だと、説いたわけですが、
それは、おやさまを「元の神」とは認めずに、おやさまは、自分と言う本地を登場させるための存在だと、そう言う理屈ですから、真柱、甘露台という「しん」に対する「濁り」です。
おやさまが、渡された以上は、異端になったとしても、霊救の効能には変わりがない。それは、澄んだ水。
しかし、泥をいれると言う事、それが問題なのです。

691:基本。
18/11/26 06:30:21.41 D2bV2Iio.net
霊能について語り合うことは、おやさまの望まれない事と思案します。
足が速いとか、疑うまいと言うのと同じですから特別視しないし、特別な話題とは、しない立場です。
ごめんなさいね。
能力と言うものは、人はトラに劣り、サルに劣る、泳ぎなら魚に劣る。
空も飛べない人間が、霊能においては、空が飛べて、深海を遊泳できる。あり得ない事です。
「不思議」にも二種類あります。「自由」は、「じゅうよう」と読みます。
自由な霊能とね自由でない霊能です。
暴力の問題は、「倍かえし」と訓えられていて、神はそうします。

692:基本。
18/11/26 06:57:07.82 D2bV2Iio.net
> 霊能者に関しては、まるで魂を抜かれたような被害者になった方がいましたので、
> いわゆる洗脳を解くてだてと申しますか…
鍵と鍵穴の関係と言いますか、因縁と呼ばれますが、洗脳者と被害者と言うのは同じ体質と認識すべきでしょう。
ご自分の描いている「理想型」をそれ以上のスタイルで、
洗脳者に見出して、共鳴してしまっているから、洗脳されたと言うよりも、自分悪因縁に時分では待っていると、見たほうが、宜しいでしょう。
その場合、「こふまん」の埃が、原因ですから、
高慢の心と言うのは、「自慢に我慢に高慢」が、高慢のすがたの基本です。
高慢の心と言うのは、正味が「引き出し・引き伸ばし」という守護の理の正味から、出た埃です。
人よりも引き出されて、リーダーになったとき、それを自分の力と自慢する。
努力して、成績が上がって、クラスのトップとなったと、その時、「元々俺は頭良いんだ」と、自慢する。
そういう、正味とかすの関係ですから、如何にして正味の側の心を覚醒させるかと言う事です。

693:基本。
18/11/26 07:01:12.45 D2bV2Iio.net
そして、「大戸辺命」さまの守護の理ですから、
をふとのべの命様は、天にては、宵の明星となって現れ、男神なり。お姿は黒ぐつな(黒蛇)なり。この者は、勢いつよく、引いても切れぬ故に、人間の食物立毛、万物引き出しの道具に使うた神様なり。
又、物を引き出すには、お綱が要り、且つ おお手でのべん事には引き出されん。故にをふとのべの命と神名を授け給う。
 また、なに事も先にたって、引き出すものを玄人と今にても云うのは、この黒ぐつなの理から来るなり。
 人間身の内では、生まれる時の引き出し、五尺の引伸ばし、五尺の身体への引伸ばし、又、知恵、工夫の引き出しはこの神様の守護。世界では、立毛、立木一切の引伸ばしの守護。
 この神様の守護が、欠けてくると、逆子、難産になり、又、脳、筋の患いになる。これは、高慢の心を使うて通る故なり。高慢と云うても、自分の知っている事を人に教えてあげるならいいけれども、
知らない事を知ったかぶりする心使いが埃となる。
 裏守護に於いては、不動明王、役の行者、弘法大師は、この神様の守護なり。宗門にては、真言宗なり。
 方角に於いては、西、酉とも云う。時は酉の刻、午後六時から午後八時。季節は、秋の守護なり。
 以上、くにとこたちの命様から、おおとのべの命様までを、八方八柱の神様と云い、仏法では、な む あ み だ ぶ つ う と云うなり。

694:基本。
18/11/26 07:05:08.64 D2bV2Iio.net
長々引用しましたが、「こふき」話からの引用です。
『役の行者、弘法大師は、この神様の守護なり。』
日本を代表する霊能者の代表お二人は、役の行者と弘法大師。そういう大目標を目指さないで、小物や代用品で自己満足している心が、「高慢」ということで、
仕事が長続きしない、苦労して玄人になろうとしない。
そういう「高慢体質」を、ひとつで良いから、直す事です。
たいした事を期待させると、直らないでしょう。こんなこと誰でもできるよねと言う事から、苦労していただく事です。

695:基本。
18/11/26 14:01:03.97 D2bV2Iio.net
このたすけどふゆう事にをもうかな ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)
またゝすけりうけ一れつどこまでも いつもほふさくをしゑたいから (12-96)
このみちをはやくしこもとをもゑども 一れつ心わかりないので (12-97)
せかいぢうどこにへだてわないほどに 一れつしやんしてくれるよふ (12-98)
しんぢつに心にさだめみなついて 神のゆう事そむきなければ (12-99)
それよりも月日の心しいかりと うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)
このたすけ一寸の事やとをもうなよ これわにほんの一のこふきや (12-101)
これさいかはやくしいかりみせたなら とのよな高いところなるとも (12-102)
こればかりにんけんハさでないからに 月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)
能力そのものに対して執着している。それがこふまん。
仮に努力していても、能力を得るための努力は、高慢のそのものですね。

696:基本。
18/11/26 14:04:22.48 D2bV2Iio.net
神の言うことに背かないなら、たすけの能力はおやさまが、つまり神が引き受けるのです。
 しんぢつに心にさだめみなついて 神のゆう事そむきなければ (12-99)
これが肝心だと思います。

697:基本。
18/11/26 14:07:03.82 D2bV2Iio.net
> もっと高い目標や理想を持って、地道に努力を重ねるべき
という意味ではなく、「神通力」という能力が大切であって、努力を積�


698:ン重ねて能力者になる事は、高慢に過ぎないと、そのようにご理解ください。 役の行者と弘法大師。ともに、裏守護のお方です。 裏で、親神さまが守護していたと言う事。です。



699:基本。
18/11/26 14:10:07.48 D2bV2Iio.net
このみちをはやくしこもとをもゑども 一れつ心わかりないので (12-97)
心わかりないので、とは、おやさまのお心を分からないと言うことです。
このたすけ一寸の事やとをもうなよ これわにほんの一のこふきや (12-101)
「こふき」→「子富貴」。
このように理解しますのが基本です。

700:基本。
18/11/26 14:13:05.06 D2bV2Iio.net
おさしづの「修行」については、
飯降政甚大祭に帰りしに付、又々神戸へ出越すの願
明治二十三年三月十七日(陰暦正月二十七日)
さあ/\修行々々、学問上十分という、心通して修行。
学問上何が違う、彼が違う、どういう事であろう。
身上どんと不足なれば、どうする事も出来ん。
どんと不足あるとて、さしづ一つで速やか。
何年幾年了えたら、身上どんと不足成ったらどうもならん。
修行の処、身上不足取次何も案じる事は無い。
修行のため、銘々身上磨きに出るのが修行。
通さにゃなろまい。修行という、心の身を磨きに出るのや。
修行、大切に扱うては修行にならん。そら水汲みや、掃除や、門掃きやと、万事心を磨くのが修行。そこでさしてくれるよう。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ここで言われているのは、「学問上の充分な修行は意味がない」と言う事と、
「身上磨きに出るのが修行」という事です。

701:基本。
18/11/26 14:16:30.52 D2bV2Iio.net
飯降政甚の伺 明治二十三年二月三日 これが先にあります。
さあ/\尋ねる処、身上一寸の事情、どういう事である。案じる。
たゞ一つ修行という、深きという。これからどうでも思う。
日々の処治まり難ない。それよりの事情計り出す。
日々どうでも思う、大抵何も一寸修行という。
修行の理は分かりて居る。
身上の事情あっては出来難ない。
速やかになる。暫くの処これどうであろ。
深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。
智者学者あっても何にも治まらせんで。一つの理を始め掛け、日々暮らさせたい。
思う道もう暫く。日々の理、事情より治まる理が無きという理を治めくれるよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、「深く修行」させようとしていて、病気になった。それでお指図を伺った。
神様は、そういう中を、「一つの理」を始めかけよと指図してありました。
「一つの理」とは、「天理」と言う事です。
「心の身を磨きに出るのや。」つまり、色々な状況を、心一つで健康において頂く修行そのものを、
心と身を修行せよと言うおさしづでした。

702:基本。
18/11/26 14:19:19.05 D2bV2Iio.net
肉体と精神の関係を、実地に通る修行と言うこと。
本席様は、下足をそろえておられて、深谷源次郎さんが、もったいないと、交代をもうしでたとき、なんと言われたか。
「これはあんたには出来ん仕事や。人の心のあっち向いているものを直しているのや」と、言われたそうです。
これが、修行です。
下駄をそろえるだけなら、修行では無い。履いていた人の心を揃えてあげられるように下足をそろえる。
こういう修行として、水撒きも拭き掃除も、なされるようにとお指図されました。
結果として、柾甚さんは、「書道は超一流」。道楽で散財、お屋敷からたたき出される寸前までになっています。
書道の訓練や、立派な後継者の修行が、とんでもない食わせ物と言う事は、事実が語っています。
柾甚さんには、「大工」の修行が、本当は神意でしたが、
高邁な宗教家にふさわしい教養の修行ばかりさせた、兵神の勘違いが、当時の高弟の共通した誤りでした。

703:基本。
18/11/26 14:22:09.93 D2bV2Iio.net
古記ではなく「子富貴」ですか?
初めて聞きました。
もう少し詳しくお聞かせくださいますでしょうか?
これは、基本が教理研究して、悟ったものであり、証明作業はこれからです。
教理的には、以前にザ掲示板にて おやさまの思想を述べた内容が基本です。
先ず、「から」「とふじん」とは、西欧・米国を示していたこと、これが基本です。
そして、西欧米国には「こふき」があり、それは「聖書」であることを、史実的に示しておきました。

704:基本。
18/11/26 14:25:07.21 D2bV2Iio.net
> 「とふじん=西欧人」の思想。それは、現代でも、アメリカにおいては、民意に深く根付いています。
> 聖書の執筆者の一人パウロが、「ローマ人の手紙」で書いたものは、ユダヤ教からキリスト教を経由して、
アメリカと言う聖書主義の国に、「割礼」の子たちを、数々排出しているという事。
それは、もう一方で、「マリアの処女受胎」を受け入れてしまう民を大勢生んでいるという事。
このような、「天然自然の理に反した思想」は、「高山の支配の道具」になっています。
おやさまは、「高山の真の柱はとふじんや」と、権力構造そのものを「大社・宗教と言う権威」として、
「取払いの思想」を語られているのは、その「オカルト利用の悪意」に対する批判からです。
イエスキリストの教えを「弟子。使徒たち」が、書き記したものが「新約聖書」として世界中に、イエスキリストの思想を伝えています。
おやさまは、神が「啓示=おつげ」として説き聞かしたものを弟子たちが書き残した書物の事を「こふき」と呼び示しています。
おやさまの思想では、イエスは「完成の意義」を伝えた神です。

705:基本。
18/11/26 14:30:26.96 D2bV2Iio.net
「聖書と言うこふき」、それには、「神の言葉=イエスの言葉」は含まれているけれど、実は弟子たちの思想の書。でした。
中でも、キリスト教社会の思想に多大な影響を与えたのは、「使途・パウロ」の思想でした。
パウロは、イエスキリストの死後の弟子です。
> URLリンク(ja.wikipedia.org)
> 『復古神道において大きな役割を果たしたのが国学者の平田篤胤である。
彼は法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を大成させた。
この平田派国学の流れから後に川面凡児や出口王仁三郎といった宗教家が多く誕生してくる。』

706:基本。
18/11/26 14:33:05.53 D2bV2Iio.net
> 『宣長没後2年経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようである。
没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。・・』
> 『夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ』。
これはまさに、オカルトの世界である。

707:基本。
18/11/26 14:36:06.67 D2bV2Iio.net
> 平田篤胤が本居宣長の、死後の弟子であった。
イエスキリストの死後の弟子が、キリストの「こふき」を「聖書」として書き記したという事。
その「こふき」が、世界の列強の海外侵略の、強い思想根拠となっていたことを、おやさまは、見抜いておられたということです。
このパウロが、「ローマ人の手紙」の冒頭に、神の教えを異邦人に伝える事を、神に対する神の子の義務だと説きました。
異邦人を、キリスト教によって、教化すると言う行為は、実は「奴隷」を増やし集める行為として、歴史に無数の悲劇を刻みました。
日本に来た宣教師が奴隷を本国に搬送していたのは、紛れも無い事実。
それで、日本の江戸幕府は、仏教による統治を敷いて、キリスト教を禁じたのであり、
明治の開国において、「大教=天皇教」を宣布したのも、その強迫観念に由来するのかもしれません。
「毛唐」と忌み嫌う思想の根底にあったものです。
死後の弟子パウロと、死後の弟子篤胤。
それは、元々の教えを、オカルト絡みで、政治思想に育て上げた、「祭政一致」の「こふき」の作者という事になります。
世界を支配している「パウロのこふき」、日本を支配した「国学のこふき」。
その根


708:は、旧約聖書の思想にあります。



709:基本。
18/11/26 14:39:25.16 D2bV2Iio.net
旧約聖書の説いている世界は、「絶対唯一の神の世界である」
おやさまは、八百万の神を仏を裏から守護して教えてきた。
旧約聖書は、キリスト教とイスラム教、ユダヤ教のルーツにあたる。
言うならば、「こふき」である。
「こふき」には、口述されたものを記録したと言ういみで「口記」だと文字を当てる思想がある。
それは、実は、おやさまの思想と言うよりも、弟子たちの解釈である。
また、同じく弟子の解釈として「功記」と言うような解釈もある。
新約聖書が書かれた事について、秀司の生まれかわりの中山正善氏は、死後百年以上たって「聖書」は作成された。
天理教でも、ちゃんとした書き物が書かれるには、おやさまが姿をかくしてから、百年は要するであろうと、書いた文章を読んだ記憶がある。
教祖直々の原典があり、それなのに、「天理教の聖書」が必要なのかと疑問に思った記憶があるが、それは、聖典といわれる宗教書とは、信者の信仰告白であり、
同時に、教祖の思想を伝えるものであるために、教祖が死なないと、作成されないためであると言うことだと思う。
聖書や仏教の経文は、弟子の作成した聖典であるからこそ、当時の信仰のありのままを伝えてもくれる。
神の言葉だけでは無いから、人間には理解されやすい。

710:基本。
18/11/26 14:43:01.52 D2bV2Iio.net
さて、旧約聖書の伝える信仰とはなんであったのか、神の思召しとはなんであったのか。
創世記に、それはきちんと「口記」されている。
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
{ 神の約束(15章)—土地授与の儀式}
{以前、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。
見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、
あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13・14~17)}
{ とすでに、神から土地の取得と、子孫繁栄の保証を告げられていたアブラムは幻の中で、再び神の啓示を受けます(15・1)。}
{それは、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15・6)からです。そして、神から命じられた通りの、犠牲の動物を準備します(15・9)。}
つまり、旧約聖書とは「こふき」を文字にあてはめると「子富貴」そのものだと分かります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

711:基本。
18/11/26 14:46:03.42 D2bV2Iio.net
長々と引用しましたが、現代の米国は聖書の「こふき」を信奉しています。
その「子孫繁栄の子富貴」の手段と統治術は、「大社」「高山」による我がままによって実行されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、旧約聖書とは「こふき」を文字にあてはめると「子富貴」そのものだと分かります。
絶対的唯一の神は、「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。
見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と、約束されています。
もし仮に、欲一つ無き農夫であったなら、「見える限りの土地」とは、せいぜい、農夫本人と、妻と子の、ささやかな土地の広がりに過ぎなかったでしょう。
「高山」に登って、そこから、見渡していたら、もっとたくさんの大地が手に入ると、「欲深くなき農夫」ではなかった族長のアブラハムは、「高い山に登ろう」とします。
神の言葉は、そのような意味だったのか、「問う」事が、全ての始まりにありました。
唯一絶対の神は、『あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。
大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
さあ、この土地を縦横に歩き回れがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』と、言われています。
それゆえに、「歩いた土地は全て自分の子孫のものになる」と解釈した事は、
船と、汽車と、戦車と、どんな機械を使って歩いた土地でも、自分のものになるのだという、人間のおごりを生んでいます。

712:基本。
18/11/26 20:51:07.90 D2bV2Iio.net
♪『Wonderful Christmas』ワンダフルクリスマス(ダイ


713:エーオリジナルクリスマ スソング) https://youtu.be/vMc-55oxpmI ダイエーのTVCM・動画



714:基本。
18/11/26 20:57:05.58 D2bV2Iio.net
文字については、原典として市販されています。
音については、ローマ字本があります。
第12号 101
このたすけ一寸の事やとをもうなよ これわにほんの一のこふきや
Kono tasuke chotto no koto ya to omouna yo Kore wa nihon no ichi no Koki ya
Do not think of this salvation as being trivial. It is the principal matter of the Divine Record of Nihon.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
音では、「Koki・こうき」ですが、文字では「こふき」です。
音での意味から、「口記」「功記」と文字が当てられています。
文字での意味では、「こふき」「子富貴」が一番似つかわしいと思います。
英訳では、the Divine Record of Nihon.→日本の神の記録。
そこで、「こふき」を文字通りに「子富貴」と読んで、西欧の「子富貴」の書物、聖書に対比したわけです。

715:基本。
18/11/26 21:00:31.76 D2bV2Iio.net
つまり、旧約聖書には、人間への神からの契約として、子孫の繁栄が書かれているわけで、それが「こふき」の一番の骨格です。
繁栄にいたる道筋としての、こふき、古記。
天理教の教えも、神と人間の約束としての「陽気遊山」があり、それに至る道筋があるのですが、モーゼが書き記したようなその記録が無い。
天理教の繁栄の歩みは、事実繁栄出来ていないので、記録がない。
神に言われたことを背いた、山名系の歴史とか、愛町系の神人伝とか、こふきに該当する「記録」が無いわけです。
おふでさきは、「違いがあるから知らせた、間違いの記録書」です。
おさしずも「功記」ではない。
サクセスストーリーが欲しいと言うのは、親神のお筆先に記された、こふきが欲しいと言う、趣旨そのものです。

716:神も仏も名無しさん
18/11/26 21:03:24.01 f4W94+dD.net
すいません、どなたか池田大作が死亡となってからの例の会を予想するスレを立ててもらえないですか?

717:基本。
18/11/26 21:04:01.17 D2bV2Iio.net
サクセスストーリーがない理由は、月日の言う事を聞かない弟子ばかりだったからです。
なに事も月日の心をもうにわ にほんにこふきほしい事から (10-87)
にほんにもこふきをたしかこしらへて それひろめたらからハまゝなり (10-88)
このはなしなんとをもふてみなのもの にほんのものハみなわが事や (10-89)
それしらずなんとをもふて上たるハ むねがわからん月日さんねん (10-90)
このところどのよなこふきしたるとも これハにほんのたからなるぞや (10-91)
一れつの心さだめてしやんせよ はやくこふきをまつよふにせよ (10-92)
しんぢつのこふきがでけた事ならば どんな事でも月日ひろめる (10-93)
月日よりひろめをするとゆうたとて みなの心ハしよちでけまい (10-94)
それゆへにとりつきよりにしいかりと たのみをくからしよちしていよ (10-95)
このひがらこくけんきたる事ならば なんどき月日どこいゝくやら (10-96)
にち/\にとりつぎの人しいかりと 心しづめてはやくかゝれよ (10-97)

718:基本。
18/11/26 21:07:38.35 D2bV2Iio.net
このみちハどふゆう事にみなのもの をもているやら一寸にわからん (10-98)
月日にハなんでもかでもしんぢつを 心しいかりとふりぬけるで (10-99)
このみちを上ゑぬけたる事ならば ぢうよぢざいのはたらきをする (10-100)
月日よりこのはたらきをしかけたら いかなこふてきたるとゆうても (10-101)
心よりしんぢつハかりすみきりて とんな事でもをやにもたれる (10-102)
このさきハせかへぢううハどこまでも よふきづくめにみなしてかゝる (10-103)
たん/\とこのみちすじのよふたいハ
みなハが事とをもてしやんせ (10-104)

719:基本。
18/11/26 21:25:40.22 D2bV2Iio.net
たん/\とこのみちすじのよふたいハ
みなハが事とをもてしやんせ (10-104)
つまり、この「こふき」作成ストーリーは、基本のわが事でもあるわけです。

720:基本。
18/11/26 21:31:31.69 D2bV2Iio.net
一れつの心さだめてしやんせよ はやくこふきをまつよふにせよ (10-92)
それにしましてもこのお筆先は、一見不可思議です。
こふきを造れと言う事と、こふきを待つようにと言う事は、どういう言う神意か。
です。

721:基本。
18/11/26 21:34:03.13 D2bV2Iio.net
こふきとは、神の教えそのものが、こふきであると知らされてあります。
しかし神のこふきは、旬が来ないと実現されない。
そこで、こふきを待つという事の意味が見えてきます。
「日柄刻限」。これが、旬です。

722:基本。
18/11/26 21:37:02.71 D2bV2Iio.net
そこで、こふき作成当事者としての基本は、神の教えを根を掘ることを、一意一頑として、年限かけてきたわけです。
わが事として、認識したのは、十八から二十歳の時でしたから、教理の研究をわが事として、
一貫の人生であって、こんなにも幸福な人生は無いと感謝しています。
126の旬に、正月に向けて、こふきの実体化に向かうために、
当スレに、甘露の研究を書き続けたのは、教理的な吟味、洗い直しでもありました。

723:基本。
18/11/26 21:40:09.59 D2bV2Iio.net
米国の正義は、敵国を裁判すると言う、宗教国家ならではの風習を国際化しましたね。
普通、戦争ですから勝者が敗者を支配するのは、常道ですが、「人道」という基準で、実は宗教基準で、裁判と言う方法で、宗教的優越を公開する。
「とふじん」の大社高山らしい、思いつきで、戦争の当事者として、浅ましいものでしたね。
おやさまが、世界の高山の胸元に風穴を開ける今、旬の到来を、陽気に遊山する「こふき」の開始と、基本的には悟っています。

724:基本。
18/11/26 21:43:32.62 D2bV2Iio.net
テクノロジー対オカルト
この闘いの、一面ですね。
西欧の才とは、テクノロジーであり、西欧においては神と科学は対立しながら、宗教は科学を容認しつつ、支配の武器に、用いて来ました。
繁栄は、洋才が、そしてこの世では無い、あの世の審判後には、宗教がという、二つの基準の幸福が、「とふじん」の価値観となっているわけですが、
それは、「空虚・から」の思想であり、おやさまの「ころり」を願うお気持ちは、切ないものです。

725:基本。
18/11/27 00:48:37.74 JIPZGlba.net
そこで、基本自身のなすべきは、『子』としての『富貴』そのもの。
自分が、わが事として通るために、通りつつ研究していた、
これからが、テクノロジー対オカルトの、基本のこふきに、なります。

726:基本。
18/11/27 00:52:04.06 JIPZGlba.net
『俺がするのやで』というお言葉があります。
みんなわが事と思うて思案せというお筆先をまじめにわが事と受け止めますと、この、「俺がするんやで」のお指図が、実感として理解できます。
すでに世界中の一列兄弟が、陽気遊山できるだけの、ご守護と言うものは、
この世にお与え頂いてあるのですが、大社高山が、谷底をままにする支配があって、
それで必ず奴隷状態の谷底を用意しながら、高山の繁栄は維持され続けているわけです。
そのカラクリはそんなに単純なものでは無い。
最初私は、もう少し安易に考えていて、
家業として事業を立ち上げる最初の段階で、金融資本、行政、司法と真っ向から対立するような、そんな経験を重ねました。
その経過は、長いストーリーなので、この場では語りませんが、これから、通る道の為の、大きな教訓として、残されています。
情報は、ことごとく管理されていて、新規事業を立ち上げることは、食われるための注文の多い料理店現象だと言う事です。
だから、こうして投稿していると言う事も、基本が「子富貴」に向かうと言う事は、
本当にそうなる目が出てきたら、徹底的に妨害されると、理解できています。
オカルトは、果たして、現代社会の支配の構造を打破できるのか、です。
そんなこと、おやさまが尽いてる限り、勝てるに決まっています。

727:基本。
18/11/27 00:55:04.52 JIPZGlba.net
その人は〇〇○銀行経営相談所の所長さんでした。
「基本さん。銀行と言うのは、一度記録に残ってしまうと、絶対忘れないものですよ」
「戦前に、銀行とトラブル起こした方がいて、戦後かなりすぎてから、ま、そのころは表向き円満なお取引先でしたがね、
ちょっとしたことから、きちんと潰されました。覚えていてくださいね。」
「所詮個人企業みたいなもので、恨みはとことん忘れないものです」
地元で、倒産した病院がありましたが、その経理担当者さんが語っていました。
『あの日、手形を落とすためのお金を持って、銀行に行きました。
そしたら、支店長さんが、応接室にと通してくれて、いろんな話をしていたら、「あ、もう時間ですね。不渡りです」と、やられました。』
やくざさんに追い込みをかけられていた方で、たすけて欲しいと相談に来られて、その時に聞いた話です。
地元の弁護士さんでも「あんたに協力したら、ご飯が食べられなくなる」と、正直に断った方もいました。
そういう、この世の常識の数々を学んだのは、とても良かったと思っています。
「難儀せねば難儀なるものの心わからん」と、それは実に本当の事でしたから。
警察さんとも、裁判所さんとも、行政とも、ずいぶん色々と、バトルしました。
当然ながら、やくざさんにも厄介が色々ありました。
社会の構造そのものに、批判的であると言う事は、敵ばかりです。
そういう中から、何をもって、富貴になろうというのか、まさに、行った所が袋井やという、楽しい道です。

728:基本。
18/11/27 00:59:49.27 JIPZGlba.net
あの頃、〇〇銀行の経営相談所は三社の面倒を見ていました。
その内の一社が、基本の経営で、
その内の別の一社は食品関係で順風万歩、TVCMでもおなじみとなり、地方の一中小企業から、上場企業になるという勢いでしたが、
ニュースを賑わした一寸したトラブルで、その美味しい部分は、大企業に吸い取られました。
あの頃、所長さんは、コンビニの地方展開プランを語って、私に質問するので、
「それを又潰すきで、別なコンビニを近くに用意しているのでしょう」と指摘すると、そのとおりです。良く分かりますねと、笑っていました。
『基本さん、物を作って売る次代じゃないのですよ。お金がお金を生むのです。者を作って売るなんて、時代遅れで巣よ。』
ご指導を頂きました。懐かしく思い出します。
投機の時代と言う事を、教えたかったのでしょう。
おやさまも、相場の必勝法を教えていたのではと、思われる節があります。
以前に、書いたことがありますが、秀司さまに博打を教えた従兄弟の家や、
言上の伺いを許されていた女性の家に、教えられていて、その間違いで、相場で損したと言うことがあったりして、道から離れたのではと、推察したりしてます。
辻忠作さんが、伊蔵さんから、米の相場の予言を聞いていた話は、再三述べたので、お分かりの方ばかりでしょう。
能力が本物なら「金が金を生む時代」には、天理をマスターしていたら、「金で金を生む」ことが可能なわけですから、
難儀の救済をそうした資金で行うなら、宜しいことです。
ところが、基本さんは、神様が失敗するけれどやれと言う知らせで、
〇〇銀行経営相談所の後ろ盾で、失敗すると確定の事業に三千万ほどの資金融資を得て、突入したわけです。
それはまさに、面白おかしいお話でした。

729:基本。
18/11/27 01:02:20.59 JIPZGlba.net
なにせ、工場長のお一人は当時の自民党長野県一の実力者の側近で村会議長、もうお一人は、
経営相談所のお墨付きの資産家で、勤勉勤労、西武デパートに一発で販路を空けてくれる。・
日本を代表する電子機器メーカーの80%出資の子会社が全面的に技術協力で、共同開発。
全国理美容協同組合が納入業者に指定、現金問屋の大手にて取り扱い開始、桂由美ファッションショウにて採用、・・・
絶対に失敗するおやさまのお知らせは、このような展開で、営業が開始されました。
では、なんで失敗したのか。
日本を代表する某メーカーの電子回路に、不良が発生した。
そこで、おやさまのお知らせだけを頼りに、原因を調べると、
実は製造をしていたのは、その下請けの一個人事業者であった。しかも、意図的に不良部品を使っていた・
さらに、基本の会社に修理した改良品を納品すると約束する一方で、基本以外の別のメーカーに共同事業を意図して、動いていた。
神様の知らせで、探偵社を雇って、密会の現場を写真の証拠に、また、銀行の担当者の会話を録音して、業務妨害の証拠にして、
銀行と企業に、損害賠償の請求をなし、1500万円は得たが、すべてのルートは絶たれていた。
和解のときの銀行の支店長の、哀れむような目は、とても印象深かった。
通れといわれれば、通ると、こんな目にあうという見本であった。

730:基本。
18/11/27 01:06:03.42 JIPZGlba.net
ともかく難儀の底に手を打って待つというのだが、膨大な負債で倒産した。
従業員は50名はいたので、社会保険料の焦げ付き額が長野県内最大であった。
どうしたか。
社会保険担当の課長は、すべての帳簿を改ざんして、なかったことにしてくれた。
社員の支払いのためにサラ金がちょうど開始されたので、最高限度額借りまくった。
やくざさんとは、融通手形の割引と言うだましあいをして、資金をつくり未払い工賃の支払いに当てた。
社会党系の労組にて労働債権確保をなして、やくざやサラ金に渡さず、労働の皆さんに解雇予告一か月分まで支払えた。
そのかわり、やくざの追い込みは厳しく、特に経営相談所推薦の工場長は、経理事務員を脅して
手形を乱発させて手に入れていて、それを渡されたやくざの追い込みはかなりだった。
窓をぶち破り事務所に侵入して、金目のものは盗んでいった。警察は、「あの人たちは悪い人じゃない」と取り扱わない。
結局、名古屋で別件の窃盗で逮捕されたが「元警察官」であった。
そう簡単な修行ではないことは、明白だったが、お上と戦えというお知らせがあったので、真剣にバトルをしたりもした。
基本は、おやさまが、失敗するがやれというから、やってきたのだが、そんなおやさまがというような話、誰が信じるというのか。
そんなものは、いいわけだとみなされて、「人の笑いを」紙はしっかりと楽しまれたであろう。

731:基本。
18/11/27 01:10:04.68 JIPZGlba.net
法廷闘争では、勝てそうな場所では相手を追い詰めなかった。
そんなことして,勝ってしまったら、おやさまの道は通れなくなるからだ。
長野県の公文書が書き換えられていると「証拠保全」の決定を勝ち取ったことがあるが、それはそれ以上、追求しなかった。
当時は、公文書公開関係のニュースが盛んに取り上げられていて、そんな事で時の人になったら、天理教研究家にはなれないからである。
警察にもわなを仕掛けられた。
裁判所とも争った。
それは全て、教理研究のためであった。
あらゆる場面で、頼みの綱は原典であった。身の知らせであった。
今なら3秒でわかることも、三日うなって、思案し続けた。
今より真剣であった。
おやさまのせかいろくぢへの執念の原因を体感した。
失敗するからと、予告されて開始した事業であったが、「八棟八商売」というご神言と「家業第一」が基準にあった。
そして、その理念は、大社高山との戦いなくしては実現しないという、当たり前に、関係者誰もが気がついた。
それは、連戦連敗の基本の事業への不信感となり、
つまり勝てっこない戦いをしている、ドンキホーテへの失望となって、何名かの同士は去った。

732:基本。
18/11/27 01:13:04.58 JIPZGlba.net
今している事業も「ためし」であるが、おやさまは、失敗するとは示していない。
だが、「失敗するよ」という仕事の時には、周囲は極めて熱く仕事にまい進したが、もう覚めていて、簡単に踊らない。
そして、旬を逃し、道に踏み迷う。
それだから今は、言うこと聞かないと病気になり聞くと治る人しか、スタッフにしていない。
教理の実験という、この世のためしという、おふで先を、研究する以上は、
「子富貴」として、おやさまにお見せしなければ、教理にはならぬから。
その意味で、甘露の研究は、甘露を得ることが、研究そのものと言うことになる。
基本の教理が、役に立つとすれば、それがきちんと証明されてからと言うことになる。

733:基本。
18/11/27 01:16:09.36 JIPZGlba.net
おやさまが扉を開いたとき、それが世界ろくぢの道の開始だと、誰も理解できなかっただろう。
真柱さまと、本席さま以外は、教団の先を案じていただろう。
本席が出直したときにも、初代真柱が出直したときにも、それが世界ろくぢの道の開始とは理解できなかったろう。
教団の先を案じてばかりの、情けないうから、やからと言う事だ。
今日は何日、「26日吉祥」と言い残して死んだ。
初代真柱は、おやさまの定命の115才に、間に合うように、神殿普請をして死んだ。
それは、世界ろくぢの道に進むための普請であった。
いさいをおやさまにお任せして通るという、天理教の当たり前が、実現したことがなっかたのに、なぜか天理教はそこにある。
それこそが、最大のご守護なのだろう。
安心してよいのは、旬が来ていると言う事だ。

734:基本。
18/11/27 01:19:05.52 JIPZGlba.net
「首」と言うのは、「手首足首」、うちわを振るときの動かす場所で、「かしこね命」さまの守護の理です。
やけどと言うのは、熱は面足命様のご守護の理で、強く加熱して「水ぶくれ」が出来ている状態と理解します。
皮膚ですから、金銭縁談の事情、また、埃としては「恨みに嫉妬」です。
左足のやけどですから、「道教え」と理解しますと、「やけどしなさい」になります。
通常は、「夜も寝れないほどの痛みの場合」はお叱りと理解して「左は神ですから、神の言う事を聞かなかった」事への手入れと受け取るところですが、
「おやさまに念のためにお聞きした」とのことですから、道教えで、かなり厳しい切羽詰った事情と示す痛みです。
熱は、埃は惜しみですから、神の教えを聞きながら、時間が過ぎても行動ができていない。
対立する相手は「熱」の事情、火が当たってのやけどですから、母親にぶつかって行けと言う道教えと理解します。
またやけどは、大量の水で冷やせば傷跡残さず治癒できるとされています。
薬では、漢方系の「紫雲膏」が最も有効な治療薬です。
つまり、母親と直接対決をしなさいと、基本ならば、そう理解します。
腫れる、膨らむというのは、ふぐの理で、たいしょくてん命様の、切る理。
ですから、分かれる切れるが、埃の実態にあって、不足を抱いていて言うとおりにはしないと言う状態に悟るわけです。

735:基本。
18/11/27 01:22:24.10 JIPZGlba.net
神様は、分かるように知らせて下さいますから、一つ一つ確かめるようにして、
何にやけどしなければいけないのかに、到達して、解決に向かわれるよう、念じております。

736:基本。
18/11/27 01:25:21.88 JIPZGlba.net
おやさまは、用木にては手入りすると仰せられています。
> 中南の門屋があって
> おやさまが、将来いきすがたのつとめ人衆をおさめるところや
> と聞いたことがあります。
「いきすがたのつとめ人衆」をどのように解釈していたかの事情ですが、「生き仏」と似た意味に理解していたのが当時の高弟の解釈であったようです。
この話題については過去に二チャンネル「天理」スレにて解説してありますので、その辺りから、基本を確認して頂けたらと思います。

737:基本。
18/11/27 01:28:41.16 JIPZGlba.net
おやさまの思想として「違いあるならうたで知らせる」という、思想があります。
> それよりも、異端さんが重宝にしてくれたことで、「甘露台三下がり」と言う神の、歌の教えが伝承されたということに、深い意味があります。 二
一ッ、ひろくもんよりさしかけてほんやのもよふしよふかいな 二ッ、ふしんするならぢどりからみさだめつけにやいかんでな
三ッ、みればよふばがじやまになるどこへなほしてよかろうぞ 四ッ、よふばひとつでいかんでなみいつゆうつはせにやならん
五ッ、いつまでしやんしてみてもいづれよおばがじやまになる 六ッ、むりにとれゑとゆはんでなこころさだめてとるがよい
七ッ、なんでもたちものとりはらいあとへたてるがよいほどに 八ッ、やしきないとはおもふなよもとのやしきがあるほどに
九ッ、このうらにいつまでもおいてもらふとおもへども 十ド、このたびぜひがないやかたもらふてたちかへる

738:基本。
18/11/27 01:31:10.69 JIPZGlba.net
この、二下り目には、「よふば」という、現在では教団教理の中では聞きなれない言葉が出てきます。
に下り目の意味を整理しますと、
広く門より差しかけて、本屋の模様をしようかい。 (本屋ふしんの準備とりかかり)>
普請の準備は、地取りから。
見れば用場が邪魔になる。どこに移築しようか。  (その為の用場の移築)>
用場は、一箇所ではなく、三四箇所必要だ。    (用場は数が必要)>
いつまで思案しても、未来には用場は邪魔になる。 (用場の将来・邪魔)>
無理に取れとは言わないが、(屋敷内の)用場は、心を定めて取り払え。
たちものを取り払いして、後に本屋を立てるのが良い。 (用場→取り払い→本屋)>
(用場は)屋敷内とは、思うな。元の屋敷がある。  (用場と本屋の関係)>
(用場)の裏に、神としておいてもらうと思っているが (神を裏に置く思案)>
このたびは是非が無いので、神は本屋普請をして立ち返る。 (本屋普請の意味) >
つまり、「用場」というものが、必要施設、言うなら必要悪として存在していて、
それを取り払わないと、「本屋」を普請できないという、「理」の責めが、歌われているということです。

739:基本。
18/11/27 01:34:41.96 JIPZGlba.net
そして、小寒様製作とも言われていると、この二つの点から考慮します。
資料は、「天理教フリーフォーラム」。私、基本の作詞作曲の4曲が、SONGコーナーに登録されている、
基本の三六二五初投稿の場所であった、サイトです。
その資料を利用させてもらいます。
窓なしの十畳の建物に小寒様が関与していたという資料があります。
この場所には教祖が、「末では、つとめの人衆のいきすがたを納める場所やで」と仰った。(飯降正甚)との話が伝わっています

740:基本。
18/11/27 01:37:23.67 JIPZGlba.net
 〈 窓なし倉といきすがた 〉について
  窓のない倉に、普通の人間は息苦しくて入りづらい。この門屋は、櫟本に嫁いでいた“こかん”さんが、3年の期限がきたので、早く帰って来て、教祖と共に神の御用に着くために計画された関連の建物といわれている。
  月日よりやしろとなるを二人とも べつまへだてゝ(別間隔てて)をいてもろたら 筆9-5 
 しかし、思惑通りのものが出来ずに、この程度の建築になったといわれている。
  “いきすがた”という言葉を、教祖は次のようにも語っておられる。
  明治18年6月29日(旧5/17) 神様の仰せ   
此手入トゆふハ、百姓の一にたすけたさの咄し。
・・・是ヲ誠トヲモエハ、150歳が、180歳が、200歳も、いきたとて、やまずしなずによわりなきよふの道ヲおしゑたい。
そふしてわかき年寄、男女にかぎらず。
此道ヲつけて、此 いきすがた ヲこしらい、唐天竺迄の人ヲ参詣ヲつけて、是ヲみせて、よふきゆさんのくらしをさせたいとの神のせき込。  
「山田伊八郎文書」御教祖様御言葉 敷島大教会編 s48

741:基本。
18/11/27 01:41:01.83 JIPZGlba.net
「生き仏様」として、窓なし蔵に、生き通しの姿で祭っていただけると、河原町初代たちはそれを目標にしていたのではないかと、伝わっています。
これは、「十畳の建物」ですから、甘露台三下がりの「ほんや・本屋」の普請には直接関係ありません。
しかし、ここに示された図には、「よふば」を示していると思われる部屋が、数々出ています。
参考になります。


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