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2005年(主日A年) 2月6日 年間第5主日
イザ 58:7~10 Iコリ 2:1~5 マタ 5:13~16
使徒たちは、十字架の上に成し遂げられたキリストの御業を、父なる神による 「世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:19) る救いの御業であったと宣教しました。
教会の信仰にとって十字架は中心的な出来事であり、それはキリストの地上の歩み全体の総括であります。
十字架はイエスの生涯における偶発的な結末であって二義的なものであり、愛の人イエス、貧しき者の友イエスにこそ注目すべきだという人本主義的な理解が、20世紀の教会には広く浸透していました。
現代の教会はそのようにして使徒たちの伝えた福音から久しく遠ざけられて来たのです。
しかし、私たちは今朝、再び使徒パウロの言葉に直面しています。
「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Iコリ v.2)
主イエスの生涯のすべては、御自身をすべての人の贖いとして十字架に献げるという(Iテモ 2:6、テト 2:14、ヘブ 2:14-15, 9:12、Iペト 1:18-19)、ただ一つのことに向けられていました。
ですから十字架は主の受肉の総括であったと言うことが出来ます。
十字架から切り離された人本主義的なイエス理解は、使徒たちが伝える福音とは相容れません。
私たちは今朝、聖書を通して語る天上のキリストに直面しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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