十十十 カトリック248 十十十at PSY
十十十 カトリック248 十十十 - 暇つぶし2ch117:老クリスチャン
16/12/23 09:53:38.84 UECjTAnC.net
2010年(主日A年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7~10  ヘブ 1:1~6  ヨハ 1:1~18
「御子は ・・・・・ 人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブ v.3)
キリスト教会にとって宣教とは、使徒たちの宣教の継続以外ではあり得ないことを、多くの人たちが忘れているように見受けられます。
福音の宣教が意味するものはもともと終末的な使信であって、神が約束しておられた救いが、時が満ちて到来したということの “しるし” なのです(マタ 10:7、ロマ 13:11-12)。
キリストがすでに 「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ 9:12) という使徒の証しの上にだけ、今日の教会はその宣教の唯一の土台を置くことが出来るのです(Iコリ 3:10)。
降誕祭の主役は、飼い葉桶に寝かされた “思い出の乳飲み子イエス” ではなくて、「二度目には、罪を負うためではなくて、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」(ヘブ 9:28) キリストです。
本当に神のことばを聞く者だけが、また本当にその日を 「忍耐して待ち望む」(ロマ 8:25) ことが出来るのです。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザ v.7)
イザ 51:9~52:12 というまとまりの中で、今朝の朗読部分を理解しましょう。
今や近づきつつある御国の到来の福音を聞くべく 「奮い立て」(イザ 51:9, 52:1) と、私たちは今朝のミサで呼びかけられているのです。
「地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(イザ v.10)
すべての教会の降誕祭のミサが、人の言葉ではなくて、神のことばを聞く喜びの祭典でありますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
URLリンク(www.kuwaei2000.com) ●Archives● より


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