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ローマカトリック教会20161120 - 暇つぶし2ch979:老クリスチャン
17/03/24 10:14:40.33 JbV6PDX1.net
2008年(主日A年) 3月2日 四旬節第4主日
サム上 16:1~13  エフェ 5:8~14  ヨハ 9:1~41

イエス・キリストがその死と復活を通して成就された贖いの御業が、私たちの上に現れるため、また私たちがそれに与るために教会の歩みがある、と言うことが出来ます。
私たちの共にささげるミサが、いつもそこで受難と復活の主に人々が出会い、罪の赦しと永遠の命を受けて神を賛美する場所でありますように。

ヨハネ福音書は、この盲人がシロアムの池に行って目を洗って見えるようになったという話を、単なる事件の報告として伝えているのだと考えてはなりません。
そうではなくて、共にミサをささげている群である代々の教会に、ミサとは “遣わされた者” に出会う場所であることを教えているのです。
カトリック教会の典礼刷新を、すでに過ぎ去った過去のひとときの騒動ででもあるかのように、会衆の記憶の中で風化させてはなりません。
典礼の刷新は、私たち信者が日々新たにミサで “遣わされた者” に出会うことによって、常に前進して行くものだからです。

聖書で “遣わされた者” とは、先ず第一に使徒のことです(ヨハ 17:18、20:21)。
私たちがキリストの救いに与るのは、使徒たちの宣教を通してであって、他の道によってではありません。
カトリック教会が聖伝と聖書を教会に託された委託物と呼んで大切にしているのは、そのためです(神の啓示に関する教義憲章 10)。
その使徒は、キリストの証人(使 1:8)、またキリストの救いの御業の証人(使 10:39,41)、キリストの福音を委ねられた人 (ロマ 1:1 他) であって、
このキリストこそが “わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために”(ニケア・コンスタンチンノープル信条) “神から遣わされた方”(使 2:22) なのです。

聖書を学ぶことが、教養や学問としてではなくて、ミサと結びつかなければならないということを理解しましょう。
ミサで 「あなたは、もうその人を見ている」(ヨハ v.37) ことが大切なのです。
思想や学問として理解したり解釈することでは(ヨハ v.41)、「神の業がこの人に現れる」(ヨハ v.3) ことがないからです。

・・・・・ 以下、本文参照。
URLリンク(www.kuwaei2000.com) ●Archives● より


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