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2011年(主日A年) 1月30日 年間第4主日
ゼファ 2:3, 3:12-13 Iコリ 1:26~31 マタ 5:1~12a
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」(マタ vv.11-12)
この世的な判断では “愚かな手段に見える宣教”(Iコリ 1:21) の内容である “わたし”、すなわちイエス・キリストのために、
“ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる ・・・・・” ということが、今朝の福音書の主題であることに、注目しましょう。
使徒後の教父たちの時代にその基礎が固まったカトリック教会は、その伝統を、世界教会となるにふさわしく守り、また発展させて行きました。
私たちがよく知っているように、人が救われるためには、“カトリック教会の教えを受け入れ、これに服従する” ことが、必要にして十分な条件であるという理解は、その出発の時点からのものでありました。
このカトリック教会の教えの内容、すなわち使徒継承によって教会が受け継いで大切にして来たものが、“聖伝と聖書” であるということと、
特に聖書に親しむことの大切さに現代人の目を開いた第二バチカン公会議の “神の啓示に関する教義憲章” の意義は、未だ十分にはカトリックの子らに理解されていないように見受けられます。
使徒たちが宣教し、歴史の教会が受け継いで来た “福音” への十分な理解と信仰から切り離されて、
それとは独立した道徳ないし倫理として マタ vv.3-10 が読まれ、目的と手段の逆転が起きてしまう ・・・・・ 、そのような過ちに、これまでいかに多くのキリスト者たちが陥って来たことでしょうか。
使徒パウロの、「キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように」(Iコリ 1:17) という願いが、今や現代の教会において再発見、再認識されなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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