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2011年(主日A年) 1月23日 年間第3主日
イザ 8:23b~9:3 Iコリ 1:10~17 マタ 4:12~23
「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。 パウロはあなたがたのために十字架につけられたのですか。 あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」(Iコリ v.13)
この “パウロ” のところに、現代のカトリック教会やキリスト教諸派で重んじられているいろいろな人名を入れてみると、私たちは自分の抱いている偏見にハッとさせられます。
いったい現代の普通のカトリック信者にとって、「キリストの十字架」(Iコリ v.17) はどれほどの意味を持っているのでしょうか。
あなたは “キリストの死にあずかる洗礼”(ロマ 6:3 以下、コロ 2:12) を受けたことによって、「神の栄光にあずかる希望」(ロマ 5:2) を得ていますか。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25) という証しが、あなたがたの間で確かなものとなった (Iコリ 1:6) と言えるでしょうか。
今日の普通のカトリック信者にとって、“キリストの十字架が空しいものになって” (Iコリ v.17) しまっているために、“信仰” や “証し” というキリスト教用語が、使徒たちが宣教したときとはまるで別な意味で使われるようになりました。
信仰の対象であるキリストの義が、証しの内容であるキリストの贖罪の恵みが (ロマ 3:21-26)、全く別な “世の知恵”(Iコリ 1:20) に置き換えられて理解されているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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