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ローマカトリック教会20161120 - 暇つぶし2ch522:老クリスチャン
17/01/06 11:27:17.46 cOc7Dk7O.net
2011年(主日A年) 1月2日 主の公現

イザ 60:1~6  エフェ 3:2~6  マタ 2:1~12
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタ vv.9-10)

学者たち ・・・・・ 、彼らが異国の人たちであったか、それとも離散のユダヤ人たちであったのかは、この物語りにとって必ずしも重要なことではありません。
彼らが 「その方の星」(マタ v.2) を見たことが、一切の核心でありました。
だれにでも見える天空の星々の一つでありながら、しかも主が顧みてくださった人たちにはその同じ星が、「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」(IIコリ 4:6) となるのです。

人がキリストに出会うには、神の恵みが必要であるということを、私たちは感謝と奉献という形式の中で表現します(エフェ 1:3-7 参照)。
学者たちが 「贈り物として献げた」(マタ v.11) と書かれているのと同じことを、教会は奉献文で表現します。
そして学者たちと共に、「その星を見て喜びにあふれ」 るのです。

教会はかなり初期の頃から、主の公現の記念を降誕祭の後祭りとして祝って来ました。
東方から訪れて来た学者たちを、異邦人にキリストの救いが到来したことの象徴ということにして (福音書は何も言っていない、学者たちが三人だったなどということも)、
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ロマ 1:16) であることを学んで賛美しました。

マルティン・ルターの賛美歌集に収められた “来たれ、異邦人の救い主よ” も、明らかに当時それは、彼らドイツ人への主の限りない恵みの訪れを賛美する歌でありました。
今日私たちは再び、自分たちこそが外ならぬ異邦人であることを、正しく聖書から学び直す必要があります。
ひれ伏して幼子を拝んだ学者たちの話を、私たち自身に引き当てて、ご一緒にミサをささげましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
URLリンク(www.kuwaei2000.com) ●Archives● より


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