カトリック教徒が励まし合う場所at PSYカトリック教徒が励まし合う場所 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト150:マリー 16/11/05 08:33:01.53 KsVJxLUX.net >>149 ありがとうございます 今日はイグナチオ教会で片柳神父の講演を考えていましたが カテドラルにしようか迷います 151:神も仏も名無しさん 16/11/05 08:34:32.25 EKAckGkT.net >>149 今日の荘厳司教ミサ、よろしくね~! 152:マリー 16/11/05 08:52:23.89 KsVJxLUX.net >>151 私も荘厳司教ミサに行くことにしました 153:神も仏も名無しさん 16/11/05 09:27:35.11 EKAckGkT.net >>152 excellent! 目白駅です。 154:基地にゃん♪ 16/11/05 09:39:38.60 uY2Vwv3U.net >>150 イグナチオ教会には毎週 2回通っていたにゃん♪ アーメン♪ (´・人・`) 155:マリー 16/11/05 10:47:24.90 KsVJxLUX.net >>154 あ、アーメンに代わった~(^^) 156:基地にゃん♪ 16/11/05 11:18:23.09 uY2Vwv3U.net >>155 水の洗礼も受けているにゃん♪ アーメン♪(´・人・`) 157:老クリスチャン 16/11/05 11:50:27.30 thaoMYrK.net 2010年(主日C/A年) 11月7日 年間第32主日 IIマカ 7:1~14 IIテサ 2:16~3:5 ルカ 20:27~38 ニケア・コンスタンチノープル信条で "死者の復活" と書かれている部分が、使徒信条では "からだの復活" となっています。 この用語法は、"肉の復活" ではないという神学的な主張に基づいているのです。 それは初代キリスト教の宣教を、ギリシア的・プラトン的な霊魂不滅信仰から区別する明確な表象なのです。 西欧人でも日本人でも、人は肉体的に死んでも、そのまま引き続き霊の世界で生きているという考えに馴染んで来ました。 墓の中でか、霊の世界でか、はたまた天国でか、その同じ人が生き続けているという理解です。 当然、復活と言うことがあるとすれば、それはその人の生涯の "続き" ないし "第二幕" であって、"七人ともその女を妻にした" という過去を背負っているわけです。 それが "肉の復活" です。 そのような理解を前提にして、いわば色眼鏡で聖書に向かうことによって、多くの人たちが "使徒たちが伝えた復活の福音" を曲げて解釈して来ました。 共観福音書の "復活についての問答" は元来、そのような人々にとって実に挑戦的なテキストとして、そこに置かれていることに気づく必要があります。 「この世」(ルカ v.34) と 「次の世(来るべき世)」(ルカ v.35) との間には全き断絶があるのです。 それは "続き" でも "第二幕" でもありません。 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(ルカ 21:27) というような表現も、この断絶の象徴以外の何ものでもありません。 "天上の体と地上の体"、"自然の命の体と霊の体"、"土からできた人と天に属する人" という使徒パウロの対比 (Iコリ 15:35-49) の意味を理解する人だけが、 "からだの復活" という用語の神学的主張を受け入れることが出来るようになるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch