16/09/17 01:07:22.40 Qg6mqJ/5.net
「非合理ゆえに信ずるのが信仰だ」ということを言い出した段階で、実は相当危険な状態になっていた
URLリンク(tanemura1956.blogspot.jp)
同様に、「なんか変だな、あやしいな」という疑いの心は、良い側面を持っています。
たとえば、それによって、犯罪や詐欺から身を守ることもできるのです。
「あの人悪いことしてるんじゃないの?」という素朴な疑いの心が、意外とあたっていて、あとで、犯罪の露見につながったりもします。
この場合、やっかいなのは、「その疑いを追及していくと、悪がその先に待っていて、悪との対決をしなければならない」羽目となるのです。
たとえば、私は会社で、「これ、おかしいね。帳簿操作してるね」と疑いの心を持ちました。
果たしてその結果は、その先に悪があったのです。
で、ここで話を幸福の科学に戻します。
大川氏は「疑いは悪魔の心である。疑いの追及は真理の探究とはいわん。私を信ぜよ、信ぜよ」というようなニュアンスのことをかつていいました。
そうするとですね、「素朴な疑問」が思いうかぶたびに、「いけない、いけない。これは悪魔の心だわ」ということで、自分にブロックをかけてしまい、その素朴な疑問を打消し、信じることに決めるんですね。
この結果どうなるかといいますと、例えば種村さんの「にせ守護霊の霊言」を信じ込んでしまい、盲信のほら穴に突き落されてしまう結果となるのです。
で、私は、この数年間一冊も本を買って読んでませんが、選挙後、ネットをみて、「どうも、なんとかの守護霊という霊言はうそくさいね」という疑いを持っていたのです。