■キリスト教のやめ方■at PSY■キリスト教のやめ方■ - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト1091:く出てきています。 しかし、疑うことだけが真理を得る方法ではありません。真理というものには、一気に飛び込まないと得られないところもあるのです。 この世とあの世の間には、どうしても垣根があるので、その垣根を跳ばなくてはいけません。あるいは、溝というか、谷を跳ばなくてはいけないのです。思い切って跳ばないかぎり、つかめないところが真理にはあるのです。 「信仰を持つ」とは、そういうことなのです。どこかで跳ばなくてはいけないのです。 ところが、どう見ても、谷の幅がかなりあるように見え、跳ぶと落ちそうに思えるために跳べません。 これが普通の人間なのですが、この世に毒されていくうちに、だんだん、それがすごく難しいことのように感じられ、「向こうに行ったら、怖いことが起きるのではないか」と思うようなところがあるのです。 しかし、「真理は何であるか」ということを確信したら、その真理をガシッとつかまなくてはいけないのです。 1092:神も仏も名無しさん 18/04/23 23:18:42.07 8Mp3Ckyt.net 私と釈尊に共通する「過去・現在・未来を見通す目」 もう学問も駄目になってきているのですが、ものを扱う唯物論的な学問だけが駄目になったのではなく、宗教学や仏教学なども駄目なのです。 これももう哲学のようになってしまっています。 二千五百年以上前のお釈迦様の教えも、人間の頭のなかで考える哲学になってしまい、哲学をひねくり回しているようになっているのです。 仏教系の大学があっても、そこで教えていることも、そういうものです。 「とにかく座禅の作法を守れ」とか、「念仏を称えろ」とか、「『南無妙法蓮華経』と唱えろ」とか、とりあえず、かたちをつくることまでは教えるのですが、中身がありません。 中身については信じていないのです。 例えば、「お釈迦様は、ヨガの行者のように座禅をしていただけなのだ」と思い、「質素に生活して座禅をしていれば、それで済むのだ」というように考えている人が、けっこう多いのです。 しかし、それは違っています。 確かに、座禅をしたり精神統一をしたりしてはいましたが、釈尊の人生を見てみると、「菩提樹下で悟りを開いたときに、三明を得た。三つの明かりを得た」と、はっきり書いてあります。 三明とは何かと言うと、「過去を見通す目」「現在を見通す目」「未来を見通す目」の三つのことです。「悟ったときに過去・現在・未来が分かるようになった」と仏典にはっきり書いてあるのです。 「三明を得る」とは、そういうことです。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch