15/11/30 19:42:06.84 w/WI1wN0.net
> 実践してみれば真偽がその場で分かる
例えば、仮設としての、自分(ID:w/WI1wN0)の場合は
無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執に依存して
他に対して、自らを特別な存在として妄信している想いに依存して
(「変化しない」という意味での「我」は)存在しないにも関わらず
(「変化しない」という意味での「我」が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)が現れ(滅し)て
(五性各別)誰もが成仏するわけではないので、それ故に
想いの手放しの実践は難しい
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曹洞宗の僧侶 内山興正
坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
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(掴もうとしている、想いを手放し、そして)
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは、無常(無我)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません