15/05/06 16:07:58.71 8b78Ercr.net
>>527
あのね、仏教の経典には悟っていない弟子達の願望で書かれたデタラメな経典も
沢山作られたという事実を知らないといけませんよ。
「仏説」 と冠された経典に書かれてあることを全部真実だと思ったら、間違いなく
狂人になってしまうのですよ。
後の仏教徒たちはそれらの経典によって修行をして行き、それによって 「覚り」 を
得る弟子たちが沢山現れた経典だけが、本物の経典として中国、朝鮮、日本へと伝
えられて来たのです。 大乗経典に意味があるのは、それらを学ぶことによって 「覚り」
を得た人たちが沢山いるという事実があるからのです。
原始経典で神通力を説いている経典がたくさんあるのは事実ですが、実際にそんなこと
を再体験した弟子達は出て来なかったからこそ、原始仏教は衰退して行ったという事実
について、よくよく考えてみて下さい。
オウムに限らず、阿含宗などでも神通力を強調していましたが、教祖を始めとして、弟子の
誰一人としてそんな力を持った者はいないのです。 そして、それは当然のことなのです。
瞑想修行をしていると、遠くの情景が見えたり、他人が考えていることが解ったりすることが、
時として現れることも事実なのですが、それは自我が希薄になり、外界との壁が薄くなった時
に一時的に現れる現象に過ぎないのです。それを、「自分が得た」 と思う時点で、再び外界と
の区別が出来ることになるので、その現象も消えてしまい、元の木阿弥になってしまうのです。
この構造を理解できれば、仏教の修行において神秘的な現象にとらわれることの無意味さが
よく解るはずです。だから、大乗仏教では神秘体験を相手にしないように指導して来たのです。