18/12/17 07:44:39.89 7odJJoE5.net
神そのものについても、神と呼ぶべきものは何かと言う問題もあります。
天理教では「神が出て」と、或いは「神が表に現れて」と、天理の神を、神自らが定義しています。
いわゆる、神ならば、そのご神体・ご身体はという事がとても重大です。
先ずそこから、ちゃんと理解したいと思います。
天理教の親神は「中山みき様」で、神名は「天理王命」、ご神体は「ぢば」「甘露台」です。
天理教の神は「十柱の神」で、分掌の神として、神名は、
「くにとこたち」「をもたり」「くにさつち」「つきよみ」「くもよみ」「かしこね」「たいしょくてん」「おおとのべ」「いざなぎ」「いざなみ」。
掌(たなごころ)には十本の指があって、その指一つずつが、それぞれに神名一つづつの守護の理に対応しています。
神を拝しますとき、その十本の指は、腹と腹をあわせて柱のように立てて祈念します。
親指は、月日・真実の神の理で、左親指はくにとこたち命さまの守護の理の指。
右親指は、をもたり命様の守護の理の指です。
左は父親、右は母親、親指の力添えが無いと、小指は中指は薬指は人差し指は、指としての機能が制限されます。
手錠をかけずとも、両手の親指を括れば、同等の効果になります。
元の親を離れた思案行動は、不自由なものであり、月日を親神として拝する事は、天理の基本です。
561:基本。
18/12/17 07:48:08.41 7odJJoE5.net
天理教の神は、神が表に現れたものであり、それに対して表に現れていなかったけれど裏には親神が守護していた神があります。
仏教、キリスト教、神道、八百万の神々、これらは、皆立教以前の、裏守護時代の神であり、それも月日が教え来たる、神です。
天理教の神の教え、つまり表に現れた神と、表に現れていなかった時の神と、神の教えそのものには、何の相違もありません。
同列というように考えても良いのです。
ただ一点、「をや」を説いているだけが、天理教の教えの特徴です。
「おやさま・天理王命様」の指の理は、「右小指」です。いざなみのみこと。
同じ十本の指に、同列に存在していて、一番かわいらしい指が、人間の親神の分掌の理の指です。
「小指は子や指」という諭しもありました。左小指にはくにとこたち様が右子指にはをもたり様が、お添いになって守護くださいます。
人間子供を誘導する、誘うという意味が「いざな」にはあります。
「いざな」「き・岐」は、左の小指ですが、「き」は、月様の、どこどこまでも突き通すというご守護の理が添います。
世人の道に導く進化の「岐路」を、守護してくださるのは、いざなぎ様で、「種の理」です。
「種」に存在する誘導の守護が、一貫した成人の道を、絶えず選択してくださっている。
そういう、「をや」の事は、天理教のみの教えです。
562:基本。
18/12/17 07:51:39.16 7odJJoE5.net
教理的に解説しますと、真柱の後継者は内とは限っていない。
初代真柱は、外孫です。
おやさまの逸話には、お子さんのいないご夫婦にお褒めになっている逸話があります。
育児・子育てと言う苦労をしなくても良いという意味で、良い心使いに結果と、そのように誉めておられます。
今の真柱さまと言うのは、遺伝情報的には、夫婦から生まれる子供の遺伝情報は、必ずしも、みき・善兵衛の遺伝子情報が濃いとは限っていません。
これも、重大な問題です。
みき・善兵衛は、いとこ同士の結婚であり、二人の祖父の生まれ変わりが、初代真柱です。
いとこ同士の結婚は、隔世遺伝の、遺伝情報保存の方法として、科学的に合理的です。
初代真柱とたまえ夫婦は、みき・善兵衛の孫の、いとこ同士の結婚です。
こういう観点に立つとき、現真柱の子が次の真柱と言うまちがった固定観念では、遺伝情報の濃さでない基準が用いられることになります。
子供は、無くて当然です。
563:基本。
18/12/17 10:25:56.92 7odJJoE5.net
>では、次の真柱様は、遺伝情報の濃い方といったら、誰ですか?
>血族同士でご結婚された方のお子様という事ですか?
>現真柱様は土佐家の血が混じっているが、二代真柱の魂ではないかという方が居られるが?
さて、個人情報保護の法律ができて、そういう問題は、内々でしか分からなくなっています。。
親神さまのご配慮です。
隔世遺伝と言う観点で、1が3、2が4という唱え方をしているのでしょう。
おやさまの教えでは、そういう遺伝情報の問題と全く別個に、生まれ変わっているかのごときに見受けられる生まれ変わりも説かれているかに見えます。
が、例えば、梶本家と言うものには、どういう遺伝情報が含まれていたのか、これは、調べようが無いわけです。
梶本の母が、辻家の出だったという記述がありますので、辻家からの遺伝情報が辻家の出の女性から、伝承したことは理解できます。
では、辻家と中山家はどんな関係だったのか、これは分からない。辻家と前川家もどんな関係だったか、分からない。
血族よりも、「いとこ」同士が、基本ですね。「同じ祖父母を持つ」です。
それは、女性であっても良い。
ただし、初代様の時のように、人間の思惑がかかると、実現しない場合があるので、つまらぬ詮索はしない事です。
「生まれ出る前から真柱」は、決まっている。
それは、内々では分かっていることでしょうから。
564:基本。
18/12/17 10:30:04.66 7odJJoE5.net
次の真柱が誰かにこだわると言う事は、おやさまが親神さまで存命だと言う事を、疑っている。不信感そのものですね。
お屋敷の事は、おやさまと真柱さまに信頼申し上げたらよいわけです。
ですよね。
そう言う事疑っているより、ご自分の陽気暮らしに専心なさるべきですね。信じて信仰している信者さんならね。
神の問題よりも、人の問題に興味が先行するのは、現実の親神さまを侮っているからですね。
神について、「しらぬ間はそのままや」という天理があてはまっていますから、
神について「教典」に書かれている程度は、暗記できていないと、知らぬ間はそのまま状態です。
しかし、「種無し」「天のお手入れ」と語られたお方は、少なくともその程度は知っておられるわけで、「種」はいざなぎ命様で、
進化の分岐においての守護と読まれたわけですから、
心一つにまこと真実の種が無いと、天のお手入れを、ご自分が頂くでしょうから、それから、思案されたら宜しいと思います。
神のお働きは、ご守護は、身の内に手入れ頂いて、お知らせ頂いて、一つずつ骨身にしみて分かるものです。
565:基本。
18/12/17 10:33:49.72 7odJJoE5.net
>お書き下げに書かれている「まことの心」が、わかる様で難しい。
>まこと真実について解説してください。
普通には、「真心」という意味に、「まことの心」の意味は理解されています。
そこで、「まこと」と言う言葉はお筆先で見ますと、本当の事と言う意味にて用いられています。
お指図でも「まこと難渋な道を通りた」のように、本当に、という意味で用いられています。
それが、基本となります。
また、「真実」は、おふでさきでは「しんぢつ」。「しんぢつの神」のように、これも、本当のと言う意味に使われています。
それは、分かりやすくいいますと「うそがない」「偽りがない」と言う事になります。
『人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。』
これが、おかきさげの本文にあります。
ここに、真の誠とあります。
おかきさげは。お指図が台ですから、お指図のお言葉で確かめることにします。
お言葉は、「初出」の用法が基本的な意味です。最初にそのお言葉の意味や用法がちゃんと示されてあります。
そこで、おさしづの用語検索で、「真の誠」を調べます。
ネット上にては、私の場合、TATENUI おふでさき、を利用させて頂いています。
そこで、「真の誠」をおさしづ検索しますと、次のお指図が「初出」となっています。
井筒梅治郎事情伺
明治二十一年十二月五日(陰暦十一月三日)
さあ/\/\/\、尋ねる処/\、尋ねるには一つの理を聞き分け/\。
さあ/\、世界皆兄弟、身は皆兄弟。さあ/\、真の誠の心が、心は皆々兄弟。さあ/\何かの事も治めてくれるよう。
さあ/\これまでは長々の処治めた。
又これから先は、何かの事も治めてくれるよう
566:基本。
18/12/17 10:38:28.21 7odJJoE5.net
『人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。』
真の誠の心が、心は皆々兄弟。と言うのが初出になっています。
おやさまが、人間の元を教えられて、親を教えられたと言う事は、皆々が兄弟であると知らされた事でもあります。
その、おやさまが真実の親神だと信仰するなら、心は兄弟であるのが真の誠の心と言う事に相違ありません。
おやさまの教えを真実と聞くなら、人間は皆兄弟と言う「本心」が嘘偽りないとき、まこと真実の心と、なる。
さて、そうした心が真のまことの心としました時、
『日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、
誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。』
このお言葉の深さが分かるのです。
おやさまは、常にまことの心であられた。つねに「皆私のこどもや」というお心と態度であられた。
それは、反対攻撃も、無理解からのあざけりも、誤解ゆえの悪口も、ことごとくまことの心にてお受けになられた。
一寸にはみな弱いように思う、そんなお姿でもあったわけです。
一列は兄弟であるという、真のまことの心が、おやさまの教えられた「真のまこと」の基本と言う事になります。
567:基本。
18/12/17 10:41:05.05 7odJJoE5.net
中西金次郎妻ゆき三十七才おさづけさしづ
明治二十一年十二月二十五日
さあ/\/\/\、だん/\の席をしい、又々の席も、だん/\の席もして、
なれど一日の日に生涯という心を定めて、一日の日を改めて、一つの席をするなら、一つの理を聞き分け/\。
さあ/\日々に常々に、誠一つは天の理、
誠一つの心に理があれば直ぐに受け取る。それ常々に真の誠という心多年々々にあれば、それ世界という。
めん/\常々真の誠あれば、自由自在である。
自由自在は、何処にあるとは思うなよ/\。
めん/\常々に、精神誠という心が自由自在や。
誠は天の理。
又それより内々睦まじいという心の理が、それ天の理である。
直ぐに受け取る、直ぐに返やす。
さあ/\又これより一つさづけ/\/\。
おさづけを頂きます時に、それは誰に対して用いるお授けかと言えば、病人さんにです。
では、その病人は、あなたの何なのか。
兄弟。互いがおやさまの子である兄弟なのです。
お授けの病たすけにおいて、自由自在にご守護いただきたいという願う心のまことは、
「きょうだい」であるという真実を、偽らないことて、まこと真実となります。
『常々に、精神誠という心が自由自在や』
病人におさづけをさせて頂くときだけの誠と言う精神では「嘘」。嘘でないことが、まこと。
これが、基本です。
568:基本。
18/12/17 10:44:35.31 7odJJoE5.net
『誠は天の理。
又それより内々睦まじいという心の理が、それ天の理である。』
「それより」、というのは、「一列兄弟」と言う人間の本心より、と、そのようにご理解下さい。
家庭内や、家族内々の睦まじさだけの事は、「嘘」。
面々勝手の陽気と言うようなものです。
根底に一列兄弟の自覚があって、おやさまの子としての本心に素直なままの「内々睦まじい」が、
本物の、まことの「睦まじい」であると、お指図は示しています。
「睦まじい」→「むっつ」。六。→「ろくぢ」。おやさまは、世界をろくぢに踏み鳴らしておられます。
さて、詐欺と言うのは、色は白と黒です。
右の薬指が、たいしょくてん命様の守護の理。黒の神様です。
生き死にの神様で、喪服は黒。
左の薬指が、かしこね命様の守護の理。白の神様です。
基本的に、誕生も死も、知らせは右薬指です。
病人のおたすけで、たいしょくてんの指に知らせがあったら、痛の知らせは「死・たすからない」です。
おやさまは、信仰者には「こじきはささぬ」。信仰者でないお乞食さんには可哀想にと、態度が二つありますが、
それは信仰者さんには「不自由なきようにしてやろう。神の心にもたれつけ」と、言われていて、
神の心にもたれつくことが最優先で、不自由の脱却になる天理ゆえです。
569:基本。
18/12/17 10:47:38.48 7odJJoE5.net
>口先だけの自分の考えも神の言葉だと錯覚していたただの婆。
この見解には、いささかの異論がありますので、基本的見解を語ります。
みきの言葉です。
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく 第8号 58
日和見な発言ではなく、「月日・みき自身も意味します」の「残念立腹」と、きわめて、はっきりと意思を明示しています。
> 神様は、お筆先に於いて、
> 1874年には、天火火の海、海は津波やと予言されています。
> 1875年には、雷地震大風水つきと予言されています。
> 1874年と1875年には、かやしについては、まだ刻限が来ていないと告げています。
> 神のかやしというのは、刻限が来たらという予言だということでした。
> 1880年に、明日から、と、言う予告は、神の一日は人の一年ですから、1881年からと言う意味です。
> 1881年から数え始めて43年後、1923年に、関東大震災が起きています。
> 1951年4月に、ぢばにて、ひながた甘露台の据え換えが行われました。
> 1951年4月から数えて、43年後の1995年に、阪神大震災が起きています。
> お筆先で、海は津波やの予言がなされた1874年から、43年を三回数えた、129年後、
> 2004年12月の大津波が起きています。
> 神の残念としての地震が、43年という理で現れると言う事、
> ぢば以外の場所でのおつとめも、教祖が許していたのだという、
山名の諸井国三郎先生の、龍頭の狂いが、「しん」の狂いといて、
「一人狂えば万人狂う」事情と、神様は見せてくれました。
みきの予言には嘘がないと、基本的には理解します。
みきは、みき姉は自分の事を「元の神」とも「実の神」とも語っています。
現実の世に、外れた事の無い数理の予言を的中させているのは、
未来を当てたではなく、未来そのものを現実に守護したという事です。
570:基本。
18/12/17 10:51:02.84 7odJJoE5.net
おやさまの、予言の書。おふでさきは、神のお言葉の聞き取り書・原典おさしづにて、
この道分からんから曇る。一寸曇れば何にも分からん、始められん。
晴れん心にもろ/\がどうもならん。これ一つ何でも晴らさにゃならん。
世界一遍に晴らそうと思えど、あちらから雲が出る、こちらから雲が出る。
今までの処存命の間、一々一つの事情委せ置いたる。
ふでさきにも出てある。十二下りの理にも出てある、
十二下り出て居る。
この事情からはい/\、この事情から聞き分け。
たゞ一度の道じゃあろまい。
通りたら分かる。
三年これまで楽しんだる、世界明らかと言うであろう。
遠慮気兼は要らんと言うたる。頼み置いたる一つの理、
十二下り一人の身体より治め来たる処、誰が頼りであるか、一人の目当てに入り込んだる、
中々大切、誰が大切、いかなる処も仕上げた。
入り込んだる身体というは、若き者であろうか、学者であろうか、智者であろうか、よう聞き分け。
この道始め掛けたる、草生えの中から始め掛け、どんな事も出てある。
もうこれ心さえ曇りが無いと思う。曇りさえ無くば何も怖わき恐ろしいは無い。
もう一段一寸掛かり掛ける。一度にも仕上げる
。一時の理一時は一代、一つさあ、一代も一年、一年も一代、これ事情にて悟ってくれ。
これまでよりだん/\思やんしてみよう。嘘は無い。嘘は一つも言うてない。
これ事情にて、互い/\の心を治めてくれるよう。
571:基本。
18/12/17 10:54:21.62 7odJJoE5.net
つまり、みき姉によれば、
「この道分からんから曇る。一寸曇れば何にも分からん、始められん。」と言う事で、
神の予言はあっても、「信者が、世界が、みきの教えを分からない」から、その曇りで、始められないと、
そういう事なのだそうです。
考えてみれば、おやさまの名が天理王命とさえも、正確に理解できていない、幼稚園児ばかりでは、
みき姉の理の発動そのものが、開始できないのは、当たり前です。
が、それは、おやである、みき姉そのものの責任でもある。
みき姉の責任その問題は、後にして、「十二下り」の事ですが、十二くだりは、予言であると言う事。
おつとめのお歌も「おふでさき」です。
十二下りの予言として、分かることは、曇りをはらす事になります。
572:基本。
18/12/17 10:59:45.26 7odJJoE5.net
晴れと曇りについては、次のようなお指図があります。
刻限御話(但しまさゑ縁談の話)明治二十七年四月三日 午後二時
『晴れた理は世界曇る。晴れるは世界では分からん。曇る晴れる理まで諭してある。』
これは、まさえさんの縁談についての、関連したお指図です。
相手は、信仰初心者で、未信者というところでしょうか、でも家柄は良く、文化人教養人でもあった。
それで、この縁談には、天理教NO1の、本席の娘の相手として相応しくないという、教内世論があって、
そんな相手なら、きちんと信仰を仕込めと言うような世論、・
又、反対に、相手がなかなかの家だから、高山のように感じて、似つかわしくないという見解、つまりそれは嫉妬なわけですが、
身分と言う考えなら、立場ごとに見方ごとに上下が違うわけで、神意は縁談をすすめるようにとあったが、遅れていたと言う事情があります。
おやさまは、当人の心と心だと、示されているわけですが、縁談事情にありがちな、本をただせばたかが大工。
曇りがあった。
世界では天理教を潰したいわけで、縁談つぶれるようなら、世界は晴れ。
世界が晴れなら、道は曇り。
こういう理と言う物があります。
世界一列の陽気暮らしを見たい親神にとっては、「世界の晴れ」は見たいが本音ですが、
大社高山が谷底をままにしつつ晴れを演出するという、
世界(道に相反する世界並みという意味での世界)の「晴れ」は、天理の道には「曇り」となる。
そういう理があります。
573:基本。
18/12/17 11:02:05.19 7odJJoE5.net
増野正兵衛身上伺 明治二十年六月二十四日(陰暦五月四日)
さあ/\何かの処、皆それ/\、皆障り、さあ/\どういう事を知らす。
尋ね事情、何かの処、さあしっかり聞き分け。何よの処、どういう処、踏み止まる。
取次々々、だん/\取次、しっかり取次、道付け始まる。
どういう大道々々、大道の掛かり。
どういう、何人々々、幾名、一人思案定め/\。
泥水だん/\迫り、泥水が澄まする。
治める処々、名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。
ふでさき通り皆出る。
今度道はいつどう、いつ見える、ふでさき皆知らせてある。
大きなふし見える。大きふしなら、大きな心据える。
大きなふし、大きなふしが出る。忘る一寸、どういう事、こういう事、泥水流れるなら、どういう事、
いかなる水の掛かり。
取次、これをしっかり聞き分け。
又延びるやら知れん。今度の言わん道の処に、ちゃと掛かって居るで。
みき姉、直命の、取次ぎ人。増野正兵衛先生へのおさしづです。
「一人思案定め」とありますように、正兵衛さん、あんた一人で思案を定めなさいと、みき姉さん。
どんな思案か、取次ぎ人として、おふでさきの予言を踏まえて、きちんと理を取次ぎなさいよよいう意味であり、
それは、「今度の言わん道の処に」、つまり、おさしづの無い神は何も言わん道の所に、かかっているよという、
責任の重さを伝えるおさしづです。
574:基本。
18/12/17 11:07:18.47 7odJJoE5.net
この、戦争と言う泥海事情を取次ぎ人として、
親神から聞き取り記録した、増野正兵衛先生は、
伊蔵先生が本席になる以前に、その意味のお指図を頂いていた、
正真正銘の神の選びし取次ぎ人です。
増野正兵衛身の障り伺
明治二十年四月二十四日 午後五時半
さあ/\遠く/\処、さあ/\それから遠く、何かの処も急ぐ。
身上一条の処は、又の道の、いつ/\まで身の障りという事で、なに大抵今までの処、どちら大変処、計り難なき。
やれ/\何でも、一日なりとも、一月なりと、日を送る。何の思案。
月更わる、日更わる。是非に押して/\、残念々々でならんで。残念の処に、残念がある。
残念の中に、何か幾分何かの処、又々それ/\処、何の楽しみも無き、一度の処と立て替える。
仕事場々々々、仕事場はあちらこちら、その時/\さしづ。
何を尋ねる。よう風吹くようなもの。どうやこうや、又々立て替えじゃで。
仕事場委せて置いた。席をすっきり、あちらから/\、こゝで一寸、仕事場にしようか。
席というは綾錦、身の内障り、だん/\もう成ろか、洗い替いせねば余儀無くの。ほんに席にては、十分何時なりとも、席にて伺え。
何時なりともあちこちと、立て替える。ほんに席さしづは仕事場。何時にても、どういう事も早く。
575:基本。
18/12/17 11:17:27.78 7odJJoE5.net
陰暦で言うなら、(陰暦二月十七日)という表記は、二月十八日の一日前になります。
二月十八日と言うのは、普通に言えば、おやさまの死んだ日です。
明治二十年三月十一日(陰暦二月十七日)午後十二時
刻限御話
内も世界も十分と思うであろう。さあ/\始め掛ける/\。どえらい山がある。
ろくぢ/\という事も聞かせてある。
山を刳り抜かねばろくぢでない。
さあ/\刳り抜くで/\。それ/\へも伝えて置かねばならん。よう聞き分けて、じいとして見て居るがよい。
1887年(明治20年)2月18日に教祖が死亡した。
1887、と、218と一目で分かるように、1887は1888の一年前です。
つまり、「八」は、「八方に開く」と言う数理ですから、1887は、八の前ですから、おやさまが扉開いて、刻限において、
山が刳り貫かれたと言うお言葉は、次の段階ならそうなると言う意味です。
おやさまは、1887年に扉を開かれた。二月18日は十分八方に開く理。
三月十一日の日付は、十分始まりの数理です。
山を刳り貫くお指図は、山をくりぬくことは十分始まりであるが、十分八方に開く一段前の、刻限だという数理の示すものです。
576:基本。
18/12/17 11:21:21.93 7odJJoE5.net
つまり、『さあ、さあ刳り貫くで、』は、今はじまりだけれど、理としての始まりで、実体としての刳り貫き開始は、その後に来ると、理解されます。
そこで、「さあ」と言うのは「あさ」の「朝の理」ですから、「さあ、さあ」と、二回の夜明けを、告げられていると理解するのが、基本的理解です。
おやさまの命日、26日は、1887年とそれは、25年縮めた命日ですから、
1912年が該当すると、思案されますが、そういう場合実年齢にて数えるのが基本ですから、
1798年(寛政10年)4月18日 (陰暦)- 前川みき生誕。
これから、115歳の定命を満年齢で数えますと、1913年になります。
おやさまの扉を開いた歳は、満89歳。
でも、実は、おやさまは、存命のおやとしての一年を足して、九十歳と、死までの年齢を数えるわけです。
明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。
このように、一(正月二十六日)二(二月二十六日)と、そういう一、二が、数理としてある。
おやさまが、天理教会をオープンすべく、扉を開くと言う126の次の年の126に一年祭妨害事件を引き起こさせた。
本席の出直しの時、百日のおさしづでは、明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
『もう立て合いの日の立て合い/\、日の立て合いは正月二十六日、二月二十六日、これ日の立て合いや。』
577:基本。
18/12/17 11:33:23.30 7odJJoE5.net
「一けふ」には、「あすにちからわをふくわんのみち」になると言う予言でありますが、
明日日というのは、一今日に対しては、
仮に言うなら、「二今日」と理解されます。
あるいは、「一けふ」とは、始め(一)においての今日という理解で読み取るべきです。
つまり、13号には、二つの「けふ」がある。
と言う事は、十三号の五月五日けふと、四号の五月五日けふは、
四号は「一けふまで」、十三号は「一けふまの明日日のおいてのけふ」と
このような時間経過があるという事になります。
さて、これは全く独自の基本的な見かたですが、「一けふまで」のおふでさきは、「13号にて完結している」と、このように見立てます。
「十三とは、十分身につく」で、教えが、十分身につく。
そして、四つは、「世の中」「世直り」ですから、
十三号までで、お筆先の教えが十分身についた。→十四号からは「十分世の中・十分世直り・十分幸せ」と、そういう構造と理解されます。
その区切りをお示し頂いたのが、「一けふ」という文字であり、
「一つは正月」。
正月二十六日を待つ。
その、正月には、「一けふ」いごの、道の容態になるという予言になっております。
578:基本。
18/12/17 11:36:04.15 7odJJoE5.net
「三つ身につく」。
三下り目
一ッ 日の本庄屋敷の 勤め場所は世の元や
二ッ 不思議な勤め場所は 誰に頼みはかけねども
三ッ 皆世界が寄り合うて 出来立ち来るがこれ不思議
四ッ よう/\ここ迄付いて来た 実のたすけはこれからや
五ッ 何時も笑われ謗るられて 珍したすけをする程に
六ッ 無理な願いはしてくれな 一筋心になりて来い
七ッ 何んでもこれから一筋に 神にもたれて行きまする
八ッ 病む程辛い事は無い わしもこれから日の寄進
九ッ ここ迄信心したけれど 元の神とは知らなんだ
十ド この度現れた 実の神には相違無い
十二下りでは、三下り目の十ドになって、元の神実の神と納得しています。
十二下り出て居る。
この事情からはい/\、この事情から聞き分け。
たゞ一度の道じゃあろまい。
天理教の信仰をしていても、元の神、実の神と相違ないと納得は、「三つ身につく」ことです。
579:基本。
18/12/17 11:39:05.23 7odJJoE5.net
・・・中山みきは、そうした方針に断固と妥協しない為に、政府からは、何度も拘引投獄という弾圧を受けました。
が、監獄から出るたびに、出迎えの信者は増えていくと言う、「節から芽が出る」という姿にて分かるように、
各地域での布教成果は上がり続けていて、
それは、権力との上手な妥協をしていた弟子たちの功績なのです。
そこで、神道の組織に参入する道を選んだ、初代真柱は、時の神道管長を招いて、政府の方針に従うと誓書を差し出します。
これが、応法の道と言われる天理教会の道の始まりです。
教祖が、邪魔だ。教祖を黙らせろと言うのが、神道の幹部の意見でした。
580:基本。
18/12/17 11:42:06.28 7odJJoE5.net
四ッ よう/\ここ迄付いて来た 実のたすけはこれからや
実のたすけとは、「世直り」「よんなか」(豊年の意味)「幸せ」「陽気」・・四の理。
四の理とは、資産、資本。社会資産と社会予算の、柱の理。
「家業第一」の基本を貫かず、いつも豊年教えたいおやさまの「四の理」。
そういう四の理の「四つ」に入って行こうとしないで、
「三つ身につく」で、三年の苦労で初代が身につけたものを、教会の財産資産を「私物化」し、世直しに向かおうともしなかった。
天理教団の四の理の間違いは、「四つ夜の中」。
四は戦争の闘いの、腹立ちの埃。
実のたすけは、いまだ行われず、三つ身につくことばかり求めての、
元の神実の神とも得心しない天理教団、開始から、ずっとそうでした。