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2005年(主日A年) 1月30日 年間第4主日
ゼファ 2:3,3:12~13 Iコリ 1:26~31 マタ 5:1~12
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。 腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(マタ vv.1-2)
主イエスが山に登られたのは、ひととき群衆から離れて弟子たちだけを教えるためであったと、マタイ福音書はここで説明しているように思えます(マコ 3:13、マタ 14:23 参照)。
そこで語られているのは主の弟子たちのあるべき姿であって、それはイスラエルの信仰の伝統を表現する数々の言葉でありました。
「心の貧しい人々」(マタ v.3) とは神への敬虔の表現であり、「悲しむ人々」(マタ v.4) とはイスラエルの慰められるのを待ち望む (ルカ 2:25) 人々を指しています。
「地を受け継ぐ」(マタ v.5) とは天の国に入ることであって、神の救いの完成を待望するイスラエルの信仰を表しています。
詩 37 には 「主に望みをおく人は、地を継ぐ。 ・・・・・ 貧しい人は地を継ぎ、・・・・・」 と歌われています。
「義」(マタ vv.6,10) はマタイ福音書では “メシア的苦難の僕” としてのイエスによって実現する贖い、救済史の目標である神の民の救いを意味しています。
「神を見る」(マタ v.8) は神の国の祝福の頂点であって(エズ・ラ 7:98、黙 22:4 参照)、心の清い人 (詩 24:4) への祝福のことであり、「平和を実現する人々」(マタ v.9) とはキリストによる和解の福音を宣べ伝える使徒たち (IIコリ 5:18以下) の姿そのものです。
このような “御国の福音の宣教者” としての使徒たちの姿を描くことによって、マタイ福音書は私たちキリスト者が何に耳を傾けるべきかを示しました。
使徒たちをこのような者として理解し、その使徒たちに委ねられた福音を正しく聞くことは、21世紀の教会にとっての緊急の課題でなくて何でしょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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