14/07/25 13:06:22.94 7m4K0CeX.net
>>934
俺はこう思うんだよヴィパッサーナにラベリングを入れると、サマタになっちゃうんじゃないかって。
何かに注意を集中することが、サマタだろ?
それじゃ、「観」じゃなくなっちゃう。
歩行に注意を集中しようとしたら、歩行はゆっくりにしなければならない。
動作をゆっくりにしないと、注意を集中することは出来ないからだ。
しかし、それはどちらかというと、「観」というより「止」になるんじゃないか?
つまり、今ラベリングなどを取り入れながらヴィパッサナーをうたってるやつらって、
実質的にはサマタをやってるんじゃないか?
ある一点に意識を集中しようとしている限り、それをいかに日常行動で結合したとしても、
それは個々のサマタの結合に過ぎなくて、「観」じゃないんじゃないかな・・。
たとえば茶道は、部分的な動作をスローにして、一つ一つの動作を意識する・・・
これは、一つ一つのサマタの結合とも言えるんじゃないだろうか。
それに対して道元禅は、日常の行動に細かい規則をつけて、自然に片時なく意識が向くように仕向ける。
重要なのは、意図的に集中するんじゃなくて、自然に意識が向く・・・ただ見る(観)というような感じになってる。
道元が止観について言及しているものはないだろうか?
ちょっと調べてみる必要がある。