14/06/22 05:05:15.19 5NAXSrJE.net
自我(より正確には五蘊のうちの想のことだと思いますが)が止まって
くるほどの集中ができているということは、それだけ強い尋と伺がある
わけですから、それを正しい対象に正しく向ければ、一気に瞑想が
進む可能性はあると思います。
尋とは、瞑想対象に心を向ける働き。
たとえば雑念に囚われていたことに気付いて、その度に膨らみ、縮み
に意識を戻す。その戻す働き。
伺とは、瞑想対象に向いた心を他に逸らさない働き。
雑念に持って行かれないよう、対象を見続ける、その集中の継続性。
これが、慣性の法則で動き続ける物体のように、意識が自動的に
瞑想対象にへばりつき続けるようになるまで続けていくと、次の段階
に進んでいけます。
そうなる頃には、身に喜を、心に楽を感じ始め、いつも雑念や妄想を
していた心が、その思考を止め始めるのを見るはずです。