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■君も納得・マリヤ崇敬の間違い■ - 暇つぶし2ch555:老クリスチャン
15/12/31 12:02:19.08 fC3591ax.net
2013年(主日C年) 1月1日 神の母聖マリア
民 6:22~27  ガラ 4:4~7  ルカ 2:16~21
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5)
神の子イエスが "律法の下に生まれた者となる" ために、おとめマリアは用いられました。
マリア自身が "律法の下にある罪人"(ガラ 3:22-23)でなかったら、その子であるイエスが十字架の死によって "自ら呪いとなって、わたしたちを律法ののろいから贖い出す"(ガラ3:13)などということは起こり得ませんでした。
「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ロマ 8:3)
私たちは皆、イエス・キリストによる罪の赦しを必要としているのです。 そしてマリアは、そのような教会の "卓越した象型"(教会憲章65)であります。
「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」(民 6:27)
"祝福は神から来る" ということを正しく理解するなら、教会は多くの迷信や軽信を退けることが出来ます。 それは現状のカトリック信仰を矯正するのに、有益なことです。
しかし同時に、神は御自分の祝福を民の上に置くために、その器として特定の人々を用いられます。 「アロンとその子ら」(v.23)の役割は重大でありました。
「教会は使徒と預言者という土台の上に建てられています。」(エフェ 2:20)  「だれもほかの土台を据えることはできません。」(I コリ 3:11)
神が祝福を与えられるのであって、司教や司祭に祝福を信者に施与する能力があるわけではありません。 しかも神は、司教と司祭を御自分の器としてお用いになるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
URLリンク(www.kuwaei2000.com) ●Archives● より


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