14/04/17 21:06:31.45 QMpM3UNG.net
>>917
私は救いを求めたのではなく、キリスト教の初歩的な教えを知りたかっただけなのです。
それともやはり、理詰めで考える人間は初歩的な教えを知るにも聖書を一通り読む必要が有るという事でしょうか?
しかしそれでは、少なくとも理詰めで考える人間に関しては「キリスト教の教えをよく知らないのに聖書を一通り読む
極めて限られた変わった人」しか救われないという事になりますし、やはり「機会の平等」にも程遠い事になります。
それともキリスト教においては、一般的な物事を、あるいはその人にとって海の物とも山の物とも分からない一宗教の教えを、
理詰めで考える事は罪悪なのでしょうか?
そもそも聖書を読むにしても結局は文字を読むわけですが、それは人による説得とどう異なるのでしょうか?
いずれも言葉を読解する作業であり、正しく理解するためにも、矛盾が無いか確認するためにも理詰めで考える事が必要になりますよ。
例えば漫画の設定に矛盾が無いかというのはよく取り沙汰される事ですが、読者が非日常的な作り話に対しても矛盾を嫌うのは、
リアリティが無いと話に入り込めないからです。
ましてやリアリティを感じるどころか、事実だと認めるか否かという問題になると、教義の「設定」に矛盾があるのは致命的でしょう。
教義を理詰めで考えるなというのは、そういった矛盾が見付かっても目をそらし、無批判に受け入れろという事に他なりません。
宗教に入信するにあたって、教えが本物かどうか冷静に判断せずに入信しろというのは、危険なカルトへの入信をも推奨する事になります。
そして、人生について真剣に悩む人間というのは、救いを求めるあまりに、救いと称するものを提示されるとその真偽を確かめず、
あるいはあえて矛盾から目をそらして、それが真の救いだと思い込もうとするのは本当によくある事ですし、
そこに付け込むのはカルトの常套手段です。
イエスとは、そんなカルト的手法でしか信じる事ができない存在だとおっしゃるのでしょうか?