生活保護の食生活を報告せよ610at OKIRAKU
生活保護の食生活を報告せよ610 - 暇つぶし2ch450:今日のところは名無しで
15/10/26 21:33:05.28 .net
>>441
死ねよキモい

451:今日のところは名無しで
15/10/26 21:33:47.10 .net
そやコピペは豚やで

452:今日のところは名無しで
15/10/26 21:34:26.55 .net
まぁ、こいろうってことですべてが丸く収まる

453:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:34:45.23 .net
久しぶりにかわいい椎名林檎にしよ
URLリンク(www.youtube.com)

454:今日のところは名無しで
15/10/26 21:35:13.94 .net
丸くおさまる糞釜うどん

455:今日のところは名無しで
15/10/26 21:36:02.36 .net
>>447
何とかうどんって好きだなw

456:今日のところは名無しで
15/10/26 21:36:16.47 .net
ナマポは切腹しろ

457:今日のところは名無しで
15/10/26 21:36:21.15 .net
>>446
ナースのやつ貼ってよ

458:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:36:36.10 .net
URLリンク(www.youtube.com)
透明人間

459:今日のところは名無しで
15/10/26 21:36:38.78 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

460:今日のところは名無しで
15/10/26 21:36:51.20 .net
>>448
うんマイブーム

461:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:37:04.05 .net
>>450
包丁のやつ?

462:今日のところは名無しで
15/10/26 21:37:16.52 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

463:今日のところは名無しで
15/10/26 21:37:54.06 .net
国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな
いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。
何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行
ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸
春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも
した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな
かった。
ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった
のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、
それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし
ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん
で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。
ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その
時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました
か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、
いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく
なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。
しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の
内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。
しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき
ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。
ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛
とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、
胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる
のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。
それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな
いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手
方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正
ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。
チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表
URLリンク(www.joseilbo.com)
ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑
URLリンク(www.joseilbo.com)
「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が
歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁
重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分
は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。
「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ
ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」
などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し
明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村
山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし
ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。
もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。

464:今日のところは名無しで
15/10/26 21:37:59.44 .net
日々の食事の話題を楽しく語りませう
画像があれば嬉しい
雑談もおkですがスレ違いはホドホドに
雑談もおkですがスレ違いはホドホドに
雑談もおkですがスレ違いはホドホドに
雑談もおkですがスレ違いはホドホドに

465:今日のところは名無しで
15/10/26 21:38:11.99 .net
このコピペ
ちんたらちんたら
何やってるの?バカなの?死ぬの?眠たいの?寝な!

466:今日のところは名無しで
15/10/26 21:38:31.16 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

467:今日のところは名無しで
15/10/26 21:38:41.20 .net
ワロタ

468:今日のところは名無しで
15/10/26 21:38:45.53 .net
>>454
拡声器のやつ

469:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:40:08.52 .net
URLリンク(www.youtube.com)
浴室

470:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:42:51.93 .net
>>462
これは芸術やで

471:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:43:55.43 .net
椎名林檎のほんとの凄さが分かったのはやっぱり罪と罰
URLリンク(www.youtube.com)

472:今日のところは名無しで
15/10/26 21:45:15.36 .net
>>464
いいよねでも本能のが好き

473:今日のところは名無しで
15/10/26 21:46:47.03 .net
椎名林檎は正しい街だろ

474:今日のところは名無しで
15/10/26 21:49:11.80 .net
>>466
それ知らない

475:今日のところは名無しで
15/10/26 21:51:53.87 .net
>>458
コピペ寝たなw

476:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 21:52:33.67 .net
だいぶ消されてないわ

477:今日のところは名無しで
15/10/26 21:53:30.30 .net
>>469
こいろうが歌ってくれてもいいよ

478:今日のところは名無しで
15/10/26 21:54:50.51 .net
国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな
いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。
何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行
ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸
春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも
した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな
かった。
ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった
のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、
それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし
ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん
で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。
ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その
時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました
か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、
いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく
なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。
しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の
内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。
しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき
ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。
ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛
とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、
胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる
のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。
それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな
いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手
方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正
ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。
チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表
URLリンク(www.joseilbo.com)
ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑
URLリンク(www.joseilbo.com)
「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が
歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁
重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分
は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。
「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ
ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」
などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し
明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村
山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし
ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。
もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。

479:今日のところは名無しで
15/10/26 21:55:23.43 .net
こいちゃん歌って?

480:今日のところは名無しで
15/10/26 21:55:33.11 .net
国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな
いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。
何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行
ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸
春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも
した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな
かった。
ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった
のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、
それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし
ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん
で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。
ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その
時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました
か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、
いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく
なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。
しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の
内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。
しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき
ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。
ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛
とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、
胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる
のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。
それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな
いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手
方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正
ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。
チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表
URLリンク(www.joseilbo.com)
ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑
URLリンク(www.joseilbo.com)
「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が
歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁
重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分
は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。
「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ
ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」
などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し
明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村
山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし
ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。
もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。

481:今日のところは名無しで
15/10/26 21:56:19.38 .net
国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな
いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。
何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行
ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸
春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも
した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな
かった。
ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった
のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、
それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし
ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん
で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。
ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その
時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました
か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、
いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく
なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。
しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の
内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。
しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき
ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。
ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛
とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、
胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる
のは


482:相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 http://www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 http://www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。



483:今日のところは名無しで
15/10/26 21:57:24.61 .net
>>467
にわかw

484:今日のところは名無しで
15/10/26 21:59:03.56 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

485:今日のところは名無しで
15/10/26 22:01:02.50 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

486:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:01:33.49 .net
URLリンク(www.youtube.com)
すべりだい

487:今日のところは名無しで
15/10/26 22:02:47.05 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

488:今日のところは名無しで
15/10/26 22:07:56.15 .net
コピペも休憩してジュースの素で一杯やれよ

489:今日のところは名無しで
15/10/26 22:08:42.95 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

490:今日のところは名無しで
15/10/26 22:11:08.71 .net
>>481
息子元気にしてる?

491:今日のところは名無しで
15/10/26 22:11:25.42 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

492:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:13:25.90 .net
URLリンク(www.youtube.com)

493:今日のところは名無しで
15/10/26 22:13:34.99 .net
>>483
息子おいしそうにご飯食べてる?

494:今日のところは名無しで
15/10/26 22:13:52.17 .net
こいろうもうつべ貼りいいわ

495:今日のところは名無しで
15/10/26 22:14:10.54 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

496:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:14:21.35 .net
椎名林檎の歌だけは生で聴きたいと思うわ

497:今日のところは名無しで
15/10/26 22:14:41.64 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

498:今日のところは名無しで
15/10/26 22:15:15.40 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュー�


499:Xの素が置かれていたものでありました。  私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる 徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、 粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。 で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。 冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。   このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、 やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。 特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、 水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。   こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。 さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、 おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。  ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して 中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。  それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。   ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。  「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、 合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」  つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです



500:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:15:34.64 .net
貼ってるのはパソコンで貼って後でベットで聴きたいのもう一回聴くねん

501:今日のところは名無しで
15/10/26 22:15:50.02 .net
「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ~、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
 子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
 私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
 
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
 
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
 ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
 それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。 
 ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
 「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
 つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです

502:今日のところは名無しで
15/10/26 22:16:34.83 .net
>>491
自分にメールしとけやw

503:今日のところは名無しで
15/10/26 22:17:02.99 .net
URLリンク(www.zakzak.co.jp)
朴大統領がまたもやお約束の謝罪要求だ(ロイター)
 韓国がまた“難クセ外交”を展開してきた。11月に開催予定の日韓首相会談をめぐり、安倍晋三首相に慰安婦問題で「謝罪姿勢」を示すよう要請してきたのだ。
日本政府は「前提条件のない首脳会談の実現」を主張しており、土壇場で調整が難航している。安倍首相は韓国側の要請を断固拒否する構えで、朴槿恵(パク・クネ)大統領の対応が注目される。
 日韓首脳会談は、ソウルで同日に行われる日中韓3カ国の首脳会談に合わせて開催される方向だ。日韓両政府は、共同声明案の協議など事務レベルでの調整を進めてきたが、韓国側がまたも、ウンザリするような“難クセ”“いちゃもん”を突き付けてきたのだ。
 政府筋によると、韓国政府は日韓首脳会談について、慰安婦問題で安倍首相が反省、謝罪する姿勢をしっかりと示すよう要求しているという。
 韓国は今年7月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が世界文化遺産への登録を決めた「明治日本の産業革命遺産」をめぐっても、日韓外相会談での合意を一方的に無視し、「強制労働」を声明に盛り込もうとした。
安倍首相はこの対応に、今も強い不信感を抱いているとされる。
 そもそも、日本政府が韓国側の「謝罪姿勢」要求に応じる理由は一切ない。
1965年の日韓請求権協定で法的に「完全かつ最終的に解決」しているうえ、日本政府は韓国側の求めに応じて、アジア女性基金を通じた元慰安婦への償い金や、首相のおわびの手紙を届けることなど破格の対応をしてきたからだ。
 このため、首相周辺は「慰安婦や歴史認識問題で、日本は何度もだまされている」として、韓国側の要求を拒否する構えだ。
 慰安婦問題に精通する拓殖大学の藤岡信勝客員教授は、韓国の「謝罪姿勢」要求について、「言語道断だ。日本が謝罪する理由は一切ない。それを前提とするなら、日本は首脳会談に応じる必要はない」と一刀両断したうえで、
「朴氏は壊れたレコーダーだ。口を開けば『慰安婦、慰安婦』という。慰安婦と言っておけば国内の支持を失わない。『


504:対日カード』がこれしかないのだろう。極度の政治的言語の貧困に陥っているのではないか」と指摘した。  さらに、「(朴氏が今月訪米した際)ベトナム戦争当時、韓国軍兵士から性的暴行を受けたというベトナム人女性らが、朴氏に謝罪を求めた。朴氏はまず、この問題で自ら謝罪するべきではないか」と語った。 http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20151026/frn1510261900010-n1.htm 関連スレ 【国連委】韓国が「慰安婦」に言及 日本政府の早期の取り組みを求める [10/13](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1444747333/ 【ハンギョレ新聞】 朴大統領、慰安婦問題が韓日首脳会談の前提条件でないと示唆…6月から方向転換[10/17] [転載禁止](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1445077625/ 【韓国】 約3年ぶりの韓日会談、安倍首相の「慰安婦解決」への決意を期待する/東亜日報社説[10/17] [転載禁止](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1445061540/ 【慰安婦問題】 「安倍総理は慰安婦問題を解決せよ」~日本の市民団体「慰安婦問題解決の会」韓日首脳会談控え要求★2[10/21] [転載禁止](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1445441801/ 【慰安婦問題】菅官房長官「日本の方針に変更はない」 政府主導の基金設立「そのようなことはない」[10/24](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1445646876/ 前スレ 【日韓】朴大統領が慰安婦問題で謝罪要求 日本、謝罪要求「拒否」の構え 日韓首脳会談直前に韓国また“難クセ外交”[10/26](c)2ch.net http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1445859739/ 2015/10/26(月) 20:42:19.88



505:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:17:09.36 .net
URLリンク(www.youtube.com)

506:今日のところは名無しで
15/10/26 22:17:45.87 .net
URLリンク(pub.chosun.com)
最近の遺伝学は私たち民族のルーツがバイカル湖にあったことを見せてくれる。その後、南下し
て遼河文明とアルタイ語を誕生させた。このように遺伝学の発達は化石からDNAを抽出し、人類
の遺伝子地図を作成しながら人類の起源と移動経路について説得力ある仮設を提供している。
(中略:氷河期やバイカル湖の話し等)
紅山文明は中国の黄河文明より約2千ないし1千年ほど昔と見られる。その後、朝鮮族と匈奴族
に分かれる。朝鮮族が建国した国が古朝鮮だ。朝鮮時代に蛮夷と呼ばれた満州一帯の民族は実
際のところ全部一つの血筋だ。シン・チェホ先生の‘朝鮮上古史’に朝鮮族と匈奴族は3000年前
には兄弟同族という内容がある。
○ モンゴリアンは全て兄弟民族
歴史的にバイカル湖はユーラシア遊牧民族の発源地で彼らは全部モンゴリアンの子孫だ。紀元
前200年から漢を圧迫し、北側草原地帯に大きな国を建てた匈奴族はもちろん中国に北魏、北周、
随、唐を建設した鮮卑族の故郷もバイカル湖周辺だ。また、4世紀後半、ローマを脅かしたフン族、
6世紀後半20年ぶりに満州から西側ビザンチン帝国の北方地域、南側ではヒンズークシに達する
世界で初めてユーラシア東西南北にかけた大帝国を作った突厥族も同じだ。
(中略:その他の民族興亡史)
これらは根本的に遺伝子がほとんど同じ人々だ。ただし地域により時代により自らを呼ぶ呼称や
中国人がこの民族を示す時使った漢字の発音が違っただけだ。数千年間、人類の生活と文明に
最も躍動的な遊牧民族の拠点、核心地域がバイカル湖地域だ。すなわちバイカルがすべてのモ
ンゴル人種の根源地であった。
○ 私たち韓民族が遺伝学的にもモンゴリアンの原形質を最もよく継承している
中国東北3省と雲南省一帯の少数民族、チワン族(壮族)もモンゴリアンだ。モンゴル、中南米の
インディオ、ベトナムもモンゴリアンだ。中国南部に降って行ったモンゴリアンは南方系民族と共に
中国文明を作る主流勢力になった。
URLリンク(pub.chosun.com)
▲東アジアの遺伝子地図
遺伝的に見て、我が民族のルーツは大きく二つだ。約70%は北方系、30%は南方系で、ごく一部に
ヨーロッパ人とその他のグループが混ざっている。しかし、今はすでにこの二系列の人々が完全
に結合し、もはや我が国の人々は一つの新しい民族になったと見られる。
氷河期が終わって遼河付近に南下したモンゴリアンがこの地域に住んでいた南方系の人々と混
ざりながら新しい文明を発達させた。その頃、食べ物が豊富な渤海湾と韓半島海辺と川岸に多く
の人々が暮らしていた。その後、彼らが遼河文明とアルタイ語を誕生させた。
遺伝子追跡による人類移動の道を見れば韓国人と日本人、モンゴル人、チベット人、トルコ人は
エスキモー、アメリカインディアンと遺伝的にも言語学的にひとつだ。いわゆるアルタイ語族だ。言
語学的に見る時、これらは約8000年前に分かれたと見られる。
そして特徴的なのは韓半島とインド南部人の遺伝子地図が似ている点だ。古代から二カ所の間
に人の移動が多かったことを意味する。それだけ両地域間に海上往来が多かった証拠だ。伽揶
王国に嫁いできたインド公主(王女)ホ皇后の話は神話だけではない。
私たち韓民族が遺伝学的にモンゴリアンの原形質を最もよく継承、発展させたという。人類が持つ
ミトコンドリアDNA遺伝子を活用して糖尿病を研究し、このDNAから人類の移動が分かる事実を
知って韓民族の起源を追跡したイ・ホンギュ医学博士の言葉だ。韓国人とバイカル湖周辺に住む
ブリヤート人が血縁的に非常に近い事実は、モスクワ遺伝学研究所のチャカロフ博士によっても
究明された。
文|ホン・イクヒ世宗大教授 <このコラムはコラムニスト個人の見解です。>
ソース:朝鮮pub<DNA遺伝子を活用して韓民族の起源を追跡して...韓民族の話(6)-バイカル湖のモンゴリアン>
URLリンク(pub.chosun.com)


507:&nNewsNumb=20151018575&nidx=18576



508:こいろう ◆UCCvAhpw.M
15/10/26 22:17:55.85 .net
椎名林檎って別人みたいに変わるのが凄いよな
見た目とか不陰気が

509:今日のところは名無しで
15/10/26 22:18:24.17 .net
【経済裏読み】韓国、今年もノーベル賞ゼロ” 初受賞の中国に先越された焦り…反日から一転「日本に学べ」(1/3ページ) - 産経WEST
URLリンク(www.sankei.com)

 「スポーツの試合で言えば『21-0』の大差」と韓国紙、朝鮮日報(電子版)が報じた。ノーベル賞の自然科学分野の日本人受賞者は、医学・生理学賞の大村智・北里大特別栄誉教授と
物理学賞の梶田隆章・東京大宇宙線研究所教授が加わり21人になる。一方、国内総生産(GDP)に占める研究・開発(R&D)投資の割合が世界1位の韓国はゼロ。例年「なぜ日本ばかり
なのか」の類の記事がメディアを賑わすのだが、今年は冷静な分析や日本への称賛も目立つ。中国の研究者が先に受賞することへの焦りも背景にあるのか。
 日本人は「常軌を逸した科学者」と称賛?
 韓国メディアは毎年10月になると、自然科学分野のノーベル賞受賞者ゼロをめぐる原因分析、政府などに対する責任追及、叱責に余念がない。もちろん、日本への羨望もある。今年もそうした
報道があるにはあるが、例年に比べるとメディアの受け止め方が冷静にみえる。
 たとえば朝鮮日報(電子版)は、日本人のノーベル賞ラッシュを「日本特有の職人気質(かたぎ)も一役買っている」と分析。そして地方大学や地方企業で、日本の「マッド・サイエンティスト(常軌を
逸した科学者)」たちが、誰もしない「常軌を逸した研究」を続けた末にノーベル賞を取ったのだと指摘する。
 実際、青色発光ダイオード(LED)の発明で2014年に物理学賞を共同受賞した米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授は、創業者が研究を全面支援してくれるという理由で
日亜化学工業(徳島県阿南市)に入社。誰もがあきらめて見限った研究に20年以上も没頭した。02年に学士で化学賞を受賞した田中耕一氏も実験が存分にできるという理由で京都の企業・
島津製作所に入社した。

510:今日のところは名無しで
15/10/26 22:19:00.31 .net
>>491
それやったら自分で立てたボッチスレやれやデブ
そんな事も理解出来んのかw

511:今日のところは名無しで
15/10/26 22:19:06.65 .net
ふんいき

512:今日のところは名無しで
15/10/26 22:19:16.63 .net
第70次国連総会参加のために米国ニューヨークを訪問中のパク・クネ大統領は28日午後(現地
時間)今回の海外出張の最後の日程でニューヨーク韓国文化院で開かれた国家ブランド展示およ
びK-カルチャー体験行事に参加した。
在外韓国文化院が初めて開院した去る1979年以後、現職大統領が文化院を訪問するのは今回
が初めてだ。最初の韓国文化院は日本の東京に1979年5月設立され、ニューヨーク文化院は同
年12月に開院した。
パク大統領の今回の訪問は伝統文化に基づいた国家ブランドの重要�


513:ォを強調する一方、文化院 が韓流拡散を通した'コリア・プレミアム'創出の前進基地としてさらに多くの役割を果たすよう励ま すためだ。 パク大統領は'韓国伝統文化の再発見'を主題に開かれた展示物を見て回わり、代表的文化商品 に'優秀文化商品認証マーク'を直接付けた。この認証マークは国家ブランド示範公募展受賞作の 「太極ひも」をモチーフにして作ったもので今後、代表文化商品の品格を象徴するために活用され る予定だ。 パク大統領は「ニューヨーク韓国文化院を始め全世界にある韓国文化院が5千年の韓国文化の 魅力を知らせ、国家ブランドを紹介して、文化外交を上手くやってくれるよう願う」と頼んだ。また、 「デジタルと融合した韓国伝統文化を実感できるように立体的に感じることができた」と参観の感 想を明らかにした後「(文化商品)認証マークは誰が見ても一度に韓国を感じられる。初めて見て気 に入った」と評価した。 パク大統領は引き続き米国現地の文化芸術界・学界・スポーツ界・ファッション界要人などで構成 され新しく発足した'K-カルチャーサポーターズ'に会って「文化を通じて(韓米)両国国民が近づき、 深く理解できるように多くの活動をお願いする」と言った。 この日の行事に参加したサポーターズ16人中には昨年のミスUSA出身でテコンドー4段のニア・ サンチェスさんとパク大統領がフランス、パリ留学時代の下宿屋主人の孫であるエドガー・バード ビル氏が参加して目を引いた。サンチェスさんは「テコンドーコーチをして節度に魅力を感じた」と 話し、バードビル氏は「祖父母の(家でパク大統領が)ホームステイした時の縁を考える。(サポータ ーズ)の活動ができてうれしい」と感想を明らかにした。これに対し、パク大統領はバードビル氏に 「祖父ご夫妻にとても良い思い出を持っている。非常に暖かくして下さった」と話した。 キム・サンニュル教育文化首席はこの日の行事の意味について「ニューヨーク文化院は文化隆盛 の前進基地で、今回の展示は全世界の文化院のモデルとして活用されるだろう。2017年にはニュ ーヨーク文化院が(別途)独立建物で(誕生して)格に合う前進基地になるだろう」と話した。 一方、パク大統領がニューヨーク文化院に到着した時、在郷軍人会所属会員50人余りが建物の 両側で「大統領万歳」を連呼し、パク大統領は手を振って挨拶した。パク大統領はこの日の行事 出席を最後に去る25日から始まった国連を舞台にした首脳外交日程を終えて帰国の途につく。 ソース:(韓国語) 朴大統領初めての在外文化院訪問"世界に5千年韓国魅力知らせなければ" http://daily.hankooki.com/lpage/politics/201509/dh20150929091227137450.htm



514:今日のところは名無しで
15/10/26 22:19:36.55 .net
本物のコピペマン来たな

515:今日のところは名無しで
15/10/26 22:20:03.30 .net
 今月4日より開始された、「GA文庫10周年プロジェクト第3弾」となるTVアニメ『落第騎士の英雄譚』(TOKYO MXほか)。
同作の放送を受け始まったラジオ番組の最新回で、
パーソナリティを務める東山奈央(とうやま・なお)が座右の銘を明かしたところ、その言葉がリスナーの胸に突き刺さったようだ。
 2010年10月に放送された『神のみぞ知るセカイ』と『STAR DRIVER 輝きのタクト』の2作でTVアニメデビューを果たした東山。
以降、毎年多くの作品に出演し、
今年も『艦隊これくしょん -艦これ-』『ニセコイ:』、現在放送中の『Go! プリンセスプリキュア』(テレビ朝日系)に出演する大人気声優だ。
 ちなみに、“なお坊”“とうやまん”“奈央さん”などの愛称で親しまれる東山は、現在食欲の秋ということで
「すごくお腹が空くんです。ぐー。きゅるる。」と、食欲旺盛のようだ。
今月17日に更新された「Nao’s Blog」では、煎餅の詰め合わせ缶のようなものに入った大量の牡蠣を召し上がった旨をつづっていた。
 食べ盛りな東山が、黒鉄珠雫役として出演する『落第騎士の英雄譚』。
ステラ・ヴァーミリオン役で出演する石上静香と共にパーソナリティを務めるのが、
インターネットラジオ『石上静香と東山奈央の英雄譚RADIO』。その最新回が16日に放送された。
 その中で、リスナーから「心に残る言葉とか、好きな言葉はありますか?」というベタな質問が届き、
石上は「何に対しても感謝の気持ちは忘れたくないし、言っても言われてもいい気持ちがする」というベタな理由で「ありがとう」と答えた。
対する東山は、「(受験勉強のときとか)世界史で覚えなくてはいけないとことか、そんなに覚えなくていいとことか、
全部一緒くたにノートに纏めると努力してる気になるけど、点数に結びつかなかったり―」との理由から、以下の言葉を座右の銘に……。
「結果の出ない努力はただの言い訳」
 声優として成功している東山ならではのこの言葉。
同番組を聴いていたリスナーからは「カッケー!」「胸に刺さるわ」「確かに結果を出さないと意味ないよな」「せやな」
「ハッピーターン食いながら聴いてます!」など、共感や感動の声が上がった。
ただ、一部からは「厳しいw」「ストイック」「成功者だから言えるんだよ」といった声も。
 また、東山を嫌っている人なのか「言い訳というか徒労だろ」「結果を顔に出してから言うべき」「結果が出ないことがわかってるから、お前は努力をしないんだな?」
「努力しなくても結果出すのが、俺の主義だから」「自宅警備員にはキツイ一言」などのぼやきも見られた。
 過去のインタビューで、将来の夢を「ずっと声優を続けること」と語っている東山。結果の出る努力をし、これからも活躍を続けてほしい。
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)
石上静香と東山奈央の英雄譚RADIO | インターネットラジオステーション<音泉>
URLリンク(www.onsen.ag)
URLリンク(www.onsen.ag)
最新回 9:10~
東山「私は、座右の銘にしてるのは『結果の出ない努力はただの言い訳』っていうのを一応座右の銘にしてて」
石上「カッコイイ!」
東山「そうだねえ。たまに自分にグサッて来る時も言っててする時もあるんだけど、単純にさ、受験勉強をしてる時に世界史とか、なんかこう、覚えなきゃいけない所とさ、そんなに覚えなくてもいい所もあるけど
   全部一緒くたにしてノートにまとめたりするのって、すごい


516:努力してる気になるんだけど」 石上「うんうん」 東山「点数に結びつかなかったりするじゃん?」 石上「うん」 東山「そういう時にこの言葉良いなって思ったんだよね」 石上「ふ~ん、素敵~」



517:今日のところは名無しで
15/10/26 22:20:10.40 .net
>>499
そうだな、有効利用出来るじゃんなw

518:今日のところは名無しで
15/10/26 22:20:40.35 .net
テレビアニメ、劇場アニメなど、この秋話題の新作アニメに注目し、出演者のインタビューを通して作品やキャスト・スタッフの魅力を紹介する。
東京・新宿バルト9ほかにて、2週間限定で全国上映中のアニメ「サイボーグ009VSデビルマン」は、
石ノ森章太郎の「サイボーグ009」と永井豪の「デビルマン」の2つの人気作がコラボした劇場アニメ。
悪の組織により人間兵器として改造手術を受けた“009”こと島村ジョーら9人のサイボーグ戦士たちと、
悪魔の力を手にした“デビルマン”こと不動明がそれぞれの信念のため、戦いを繰り広げる。
「サイボーグ009」のメーンキャラクターで、サイボーグ003ことフランソワーズ・アルヌールを演じる声優のM・A・Oにインタビュー。
キャラクターの印象や共演者について、役を演じるに当たっての思いを聞いた。
―出演が決まった時の感想を教えてください。
出演が決まったと伺ったのは電車の中だったので、驚きのあまりその場に座り込みそうになりました。
オーディションを受ける時に、まず作品のタイトルに驚きましたし、出演が決まってからは、
これまで演じられてきた方が積み上げてきたものを壊さないようにしようと責任を感じました。
―キャラクターの印象や演じるに当たって意識したことはありますか?
キャラクターデザインを見た時に、少女の雰囲気を持ちつつ大人の女性にこれからなっていく途中なのかな?と思いました。
フランソワーズの能力で遠くの悲鳴が聞こえるシーンでは、取り乱すことはないけれど、割り切れるほど大人でもないという部分を意識しました。
動揺しながらも、その先に捜している敵がいるかもしれないと立ち向かっていく感じはとても難しかったです。
―収録現場や共演者の方の雰囲気はいかがでしたか?
大先輩がたくさんいらっしゃって、最初のアフレコは作品に携われることのうれしさの反面、あまりの緊張で胃が痛くなりそうでした(苦笑)。
ですが、いろいろアドバイスしていただいたり、他の作品で共演させていただいた方からは声を掛けていただいたりと優しくしていただきました。
―ジョーの印象や、フランソワーズとの関係性はどのように感じましたか?
福山(潤)さんが演じられたジョーは、芯があって自然と付いて行きたくなるようなジョーだと思います。
仲間思いで、熱い心を持ったキャラクターだと感じました。
ジョーとフランソワーズは恋人同士として描かれている作品もありますが、今回は仲間として助け合う姿が印象に残っています。
―それでは、ファンの方へのメッセージや見どころをお願いします。
オープニング映像までは2つの作品が転換しながら描かれるのですが、別々の作品だとは思えない仕上がりになっています。
それぞれの作品を初めて見る方にも、作品の雰囲気が伝わるようになっているので、“VS”がどう描かれるか、悪魔とは何かということも楽しみに最後まで見ていただきたいです。
そして、家族や友人との共通の話題としても盛り上がっていただけるとうれしいです。
URLリンク(amd.c.yimg.jp)
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)

519:今日のところは名無しで
15/10/26 22:20:43.64 .net
>>502
標的はデブやろな

520:今日のところは名無しで
15/10/26 22:21:08.85 .net
週プレNEWS
URLリンク(cdn.wpb.shueisha.co.jp)
あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』。
第11回のゲスト・さとう宗幸さんからご紹介いただいたのは、声優の山寺宏一さん。
“仙台の顔”といえる宗幸さんから大学の先輩後輩でもあるローカルな繋がりで、
モノマネに司会、役者etc.と大活躍する声優界の第一人者へバトンが繋がり…。
なんと超多忙な中、2時間にわたって、語り尽くしていただいたーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)
―同じ宮城県出身というご縁もあって、さとう宗幸さんからご紹介を。
「山ちゃん!これからも全国に、世界へ夢のある虹を架けようね」とのメッセージをいただいてます。
山寺さんは塩釜の生まれで、大学まで仙台なんですよね?
山寺 僕、学院大(東北学院大学)ですから。そのまま宗さんの後輩になるんですよね。
編集長も仙台なんですよね。何年生まれですか?
―僕は66年生まれなんで、ちょっと年下ですけど。
山寺 そんなに違わないですよね、僕も60年代生まれ(61年)ですから。
―大学受験の浪人の時、85年から東京なんで、ちょうどデビューされた頃ですかね。
山寺 はい、たぶんアニメのデビューがそう、85年くらいだ。
―正直、言い方があれなんですけど、いつの間にかすごく知られた存在になられて。
いつから山寺さんを意識したのかなっていう印象で…。
山寺 いやいやいや、全然、声優ですからね。基本的には地味なもんですよ。
―働き始めると、あんまりTVを観なくなるというか、夜型の不規則な生活なのもあって(苦笑)。
尚更、子供ものは観ないじゃないですか、ずっと司会されてる「おはスタ」もなかなか…。
山寺 普通観ないですよ。逆に朝まで起きてることはあってもね(笑)。
~略~
●山寺宏一
1961年6月17日生まれ、宮城県出身。声優、俳優、タレント、ナレーターとして活躍。大学卒業後、1984年に俳協養成所に入所。
85年にSFロボットアニメ『メガゾーン23』で声優デビューを果たす。
吹き替えでは数多の有名俳優の声を担当、「七色の声を持つ男」と呼ばれるほどで、日本で最もディズニーのキャラクターの声を演じていることでも有名。
また、テレビ東京の朝の子供向け番組『おはスタ』のメイン司会者に1997年から抜擢され、今年で19年目に突入。
2000年には、山寺の吹き替えのファンだったという三谷幸喜に声をかけられ、俳優デビューを果たすなどマルチな活動で人気を誇る。
現在は、日本テレビで放送中のドラマ『エンジェル・ハート』で、ホーリー役として出演中。
11月7日~8日(日)には、人気声優たちが舞台に立ち、無声映画のアテレコを行なう『声優口演 Special』に出演!
(撮影/塔下智士)
*全文はソースをご覧下さい
URLリンク(wpb.shueisha.co.jp)

521:今日のところは名無しで
15/10/26 22:21:08.98 .net
ふいんき(何故か変�


522:キできない)ってやつか



523:今日のところは名無しで
15/10/26 22:21:43.31 .net
おたぽる 10月24日 18時0分配信
 今月21日、北米最大規模のアニメ紹介サイト「Anime News Network」が、“『僕のヒーローアカデミア』のドメインを東宝が取得した”と報じた。これを受け、
「早くもアニメ化!?」とマンガ好きが騒ぎ出しているのだが、ファンの心中は「時期尚早」と穏やかではなさそう。
 昨年より「週刊少年ジャンプ」(以下、「ジャンプ」)で連載が始まった『僕のヒーローアカデミア』。
『逢魔ヶ刻動物園』『戦星のバルジ』を同誌で連載してきた堀越耕平氏が描くヒーローアクションである。
“3作打ち切られたら終わり”とささやかれる同誌において、前述の2作が“ややすべった”感がある堀越氏の連載3作目ということで、連載当初あらゆる面で注目が集まっていた。
 しかし、フタを開けてビックリ。ヒーローに憧れる落ちこぼれの高校生・緑谷出久が、
雄英高校の仲間やライバルと共に真のヒーローを目指すという「ジャンプ」王道の物語でありながらも、すべての不安が吹き飛ぶかのような面白さ。
ヒーロー好き&アメコミ好きの堀越氏の情熱が、作中いたるところに散りばめられていて、開始からまだ日が浅いながらも、
同誌を支える看板作品と化している。なお、累計230万部突破を突破する単行本の最新刊、6巻が来月刊行予定だ。
 そんな『僕のヒーローアカデミア』のドメインを、
今月20日に東宝が取得したとのこと。東宝といえば13日に、劇場アニメ『バケモノの子』『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語 ~サボテン大襲撃~』や、
『HERO』『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』などの作品により、“営業利益29.5%増”という第2四半期決算を発表したばかりだ。
勢いづく同社がドメインを取得したとなれば、仮に『僕のヒーローアカデミア』をアニメ化したとしても期待が持てそう。
 しかし、ファンはアニメ化を素直に喜べない模様。その理由は「ちょっと早過ぎだろ。
勿体ないわ」「久々にマジで面白い作品だから、もうちょっと原作のストックが固まってからにしてくれ、頼む」
「原作ストック全くないじゃん。原作完結してからアニメ化したほうが、原作の余分な部分削ぎ落としたり付け足したりと改変できるし、
何より引き延ばししなくてスピーディーに展開するはずでしょ」など、時期尚早というものである。
 また、「東宝w」「東宝はやめろや」「東宝とかクソ確定でオワタ」と、東宝を嫌がる声もあれば、「東宝ならI.Gかボンズあるかな」「東宝だと、
アニメ制作はI.G・ボンズ・ディーン・トムス・ラルケあたりか?」など、制作会社をいくつか挙げた上で“アリ”とする声も見られた。
 まだアニメ化決定ではないながら、他にも「オリジナル展開入れなければいい」
「読んだことないけど、(蛙吹)梅雨ちゃんとかいうのがかわいい」「『ワンパンマン』のアニメ化に乗った感じ?」
「女の子がどんどんムチムチ化してる」「エロ枠のゴミマンガより、ずっと女キャラが性的なのがけしからん」など多くの声が上がった『僕のヒーローアカデミア』アニメ化の噂。
ドメインを取得した東宝には、オールマイトに「この…………っ!


524:!! 行動派オタクめ!!」と叱られない働きを期待したい。 (雑誌やマンガ作品に関して、言及のない限り、版元は集英社) http://amd.c.yimg.jp/amd/20151024-00010005-otapolz-000-1-view.jpg http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151024-00010005-otapolz-ent



525:今日のところは名無しで
15/10/26 22:21:51.40 .net
>>506
このコピペは間違いなくこいろうの方のコピペだね

526:今日のところは名無しで
15/10/26 22:22:51.90 .net
URLリンク(anibu.jp)
アニメをよく観る人であれば「野水伊織」という声優はまず知っているだろう。
少し昔であれば「そらのおとしもの」の「ニンフ」であったり、「とある科学の超電磁砲」の「フェブリ」、
最近で言えば「新妹魔王の契約者」の「野中胡桃」、「艦これ」の「翔鶴」「瑞鶴」などが挙げられる。歌手としてもCDを何枚も出しており、メディアへの露出もそれなりに多い。
しかし、「どのような声優なのかイマイチわからない」と思っている人もいるであろう。
確かに、最近のよくあるアイドル路線で売っているわけでもなく、実力派声優として売り出しているわけでもない。
しかし、野水伊織をどのような声優か知らないのは非常に勿体ない。今回は彼女の魅力をできるだけ綴っていく。
◆野水伊織は声優になる前から実は有名?
声優を始めた2009年より前から野水伊織はテレビに出演していた。その作品はまさかの「電車男」。
しかも、「鏡萌」というコスプレが趣味のネット住民の役で出ており、キャラの濃さが際立っていた。
さらに秋葉原ではメイド喫茶で働いており、看板メイドとして人気を博していた。
そう考えると彼女の芸歴は転々としながらも長く、様々な場面で活躍していると言えるだろう。
◆野水伊織の内向性から来る底の深さ
そんな彼女、つい最近まで自身の冠がついたテレビ番組をやっていた。
その名は「はにかみ女王 野水伊織のシャイでごめんね」。
何とも内向きなタイトルである。
しかし、この内向きさが彼女の個性を引き出しているとも言える。
例えば、よくTwitterで映画についてよくつぶやいているのだが、つぶやく映画がメジャータイトルではなく少しマニアックなもの。
特にホラー系が特に多く「ロンドンゾンビ紀行を観た」や「ムカデ人間3の囚人服つなぎ欲しい」など一般の声優のつぶやきには出てこないワードがたびたび登場する。
その他にも子どもの頃から聴いていたのは「筋肉少女帯」であったり、
座右の銘が「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」であったりと他の人にはないアイデンティティを持っている。
しかし、そのようなアイデンティティを持っているというだけでなく彼女はそれを昇華して執筆活動や演劇などで表現をしている。
彼女の内向きさはしっかりと武器になっているのである。
◆「野水いおり」は自分らしさ+α
彼女は歌手活動をしている際は「野水いおり」と名義を変えている。
「『野水いおり』のときは演者として出ている『野水伊織』より自分らしさを出すようにしている」と本人は述べており、自分に中にある音楽性を出している。
さらに、この「野水いおり」の時は自分自身だけでなく他のアーティストの音楽性と重ね合わせがされており、声優らしからぬ独特な音楽が作り上げられている。
例えば、新曲「D.O.B.」のカップリング「球体関節人形の夜」では筋肉少女帯の大槻ケンヂ作詞・橘高文彦作曲で、
耽美且つ中二病的歌詞


527:と幻想的且つドスの効いたメタルが野水いおりに彩りを加えている。 また、天体戦士サンレッドの曲でも知られているmanzoがライブのバンドマスターをしており、サンレッドの曲からは想像もつかない演奏技術と迫力で野水いおりを支えている。 このように他の声優にはない個性を持っている野水伊織。 ただ、彼女の良さは個性だけでなく仕事においての謙虚さや責任をしっかり持って取り組む真面目さも含まれており、ファンを大切にする気持ちは人一倍強い。 ぜひ野水伊織について知らない人はこれを機に触れてみてはいかがだろうか。 https://www.youtube.com/watch?v=8dfcLyb-W7U http://anibu.jp/26oct2015-iorinozumi-19500.html



528:今日のところは名無しで
15/10/26 22:23:57.13 .net
2015/10/19(月)6:01 Business Journal
URLリンク(p.news.nimg.jp)
 ロマンを感じる戦艦の筆頭として、今も数多くのファンから熱い支持を得ている「大和」。
艦名に「武蔵」や「長門」と同じく旧国名(地方名)が用いられているだけでなく、日本の旧国号にも重なることから、別格の存在感が漂う。
 主砲は世界最大の46センチ砲で、速力はこの規模の戦艦では驚異といえる27ノットを誇った。当時の日本が持っていた技術力、
知識、資源の結晶ともいえるスペックである。
 大和といえば、第二次世界大戦時に特攻のために沖縄に出撃したものの、目的地に到達する前にアメリカ軍に捕捉され、
執拗な攻撃を受けて撃沈されたという悲壮な最期も有名だ。戦場で活躍したという話がほとんどないため、
「“虎の子”として温存しすぎた」といわれ、「無駄な建造物」の上位にランクインすることもある。
 しかし、本来の設計思想を鑑みると、大和は温存されすぎていたわけではない。
大和は、日本近海での最終決戦を想定してつくられたものだからだ。
 当時の海軍は、真珠湾攻撃の成功後、ろくに補給基地もない太平洋を西へ西へと攻めてくるアメリカ軍を日本本土側におびき寄せる漸減撃退作戦を構想していた。
決められた地点で待ち伏せして攻撃しては撤退し、補給もままならない状態で進軍を続けるアメリカ軍がヘトヘトになったところで、自分たちの庭で一挙に撃滅するという作戦だ。
 全滅させるのは無理でも、「多大な被害を与えて撤退させることができれば、時間稼ぎになる」という計算もあった。
 その最終決戦に登場するのが、前代未聞の超大型戦艦・大和である。
長大な射程圏を生かし、疲弊したアメリカ軍を一方的に攻撃する作戦だったため、気軽に出撃させてダメージを受けることは避けたかったはずだ。
結果として大和は、その通信設備などを活用して司令部としての機能を担うことが多かった。
 しかし、大和が外洋に旗艦として出撃することができたのは、資源に乏しい日本軍が、兵器に万能性を求めていたという事情もあるだろう。
元来、船舶は用途に応じた設計が必要となる。例えば、航行するのが外洋か内洋かでは、重視するべきポイントやつくり方が異なる。
 大和は近海決戦用の迎撃兵器なので、波による船体の傾きを復元する能力や、波に対する抵抗力などは低いはずだ。
これらは、外洋航行の際に強化すべきポイントだからである。
実際、イギリスの戦艦などは北海やバルト海、地中海といった内海での航行を想定しているため、波への抵抗力は高くない。
 しかし、大和はこうした能力について外洋型戦艦並みであり、
浮力を左右する(洋上での船体の安定性に関係する)乾舷の高さは、長門の1.5倍を誇っていた。
●時代遅れではなかった大和
 大和は超巨大な船体にもかかわらず小回りが利き、全速力の27ノットで航行中に「回れ右」をする際も、
必要な移動距離は640メートルと短いものだった。さらに、船体が傾く角度は9度という安定性だ。
全長の3倍以下の移動距離で、ほとんど船体を揺らすことなく180度旋回することができたわけで、自動車でのUターンなどを思い浮かべれば、そのすごさがわかるだろう。
 大和は、これほどの高性能を有していたことで、日本の戦力が低下する中、武蔵と共に本来の目的外の部分で重宝されていたわけだ。
 大和には「航空機が主流となりつつある時代に建造された、時代遅れの産物」という評価もあるが、これも結果論的な視点だ。
大和が建造された当時は、航空機は潜在能力こそ認められていたものの、「海戦の主役はあくまでも戦艦」という考えが主流だった。
アメリカも同時期に次世代の超大型戦艦を構想しており、日本および大和は、決して時代の波に乗り遅れていたわけではないのだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)
URLリンク(biz-journal.jp)


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