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※マガジン9
By 雨宮処凛 2026年7月22日
山本太郎が政界を引退した。
2026年7月9日に開催された記者会見で、そう発表した。理由は、健康問題。
それを聞いて、ひとつの時代が終わったような、大きな喪失感の中にいる。
この原稿は、ただただそんな喪失感を分かち合える人と分かち合いたくて、書いた。
「なぜ〇〇について言及しないのだ」などという人もいるだろう。が、これは山本太郎について書く最後の原稿だ。いろんな偶然でその初当選から関わることになった人間が、最後に思い出を語ることを許してほしい。
私が山本太郎と出会ったのは12年。原発関係のイベントでのことだった。
それからすぐに選挙に立候補すると知り、脱原発デモ発祥の地・高円寺に構えられた選挙事務所や演説の場に応援に駆けつけた。
知名度抜群で反原発に前のめりな同世代。だけど前のめりすぎて危うさも見えた山本太郎を応援したいと思ったからだ。原発が爆発してから間もない当時、突如として市民運動の現場に現れた山本太郎は、多くの人にとって間違いなく「希望の星」だった。
しかし、12年12月の最初の選挙から波乱含みだったことを覚えている。
政治や選挙のど素人ゆえ、山本太郎には候補者調整などの発想が皆無だったからだ。そのことで選挙プロ界隈の人に怒られたらしく、「なんでみんな”選挙に出ろ出ろ”いうのに、ほんまに出たら怒るんやろ」とポカンとしていた。
それを聞いた時、この人は本当に一人で、周りでお膳立てやフォローするその道の玄人がいないまま活動しているのだと気がついた。
当時の私は反貧困の活動を始めて6年目。選挙については知らないことばかりだったけれど、国会とかその周辺について山本太郎よりは知識がある気がした。また、実際に山本太郎が議員になったらこれほど心強いことはない上、国会質問などで役に立てるという思いもあった。
しかし、12年12月の衆院選では落選。
そうして13年の参院選で、当選。
初当選の後、本格的に貧困問題のレクチャーをはじめ、多くの弁護士さんや支援者を紹介したのだが、驚いたのは、当時の山本太郎にはブレーンと呼べるような人がほぼいなかったこと(原発問題をレクチャーしてくれる人たちはいた)。
選挙中は多くの支持者に支えられていたのに、国会運営や多岐にわたるテーマの質疑についてのプロは皆無で、本当にわずかな人員(それもみんな素人)が手探りでやっているような状態だったのだ。
これはヤバいと本格的に質問作りなどに関わり始めたのだが、私にとってもそれが「国会」というものを知る大きなきっかけとなり、発見の連続だったことを覚えている。
さて、そんな山本太郎の13年の国会活動がどれほどハードなものだったのかはこの原稿で書いたので読んでほしいのだが、私には、常に「山本太郎は自分の人生を横において今、日本の政治をマシにするために身を粉にしている」という思いがあった。
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引退会見後、SNSなどでは「いつまでもいると思うな山本太郎」という言葉をよく見かけたが、どこかでずっと「タイムリミット」は意識していた。
なぜなら、多くの人にとって政治家とは目指すべき名誉職で「高給」だが、山本太郎にとっては大幅な収入ダウンであり、俳優の仕事の方がおそらく魅力的だろう。よって自らの利益のために続ける意味はない。
そういうところも含めて政治家でいてほしい人だった。その上勉強熱心で、困っている人を見ると放っておけない。
しかし、政治家で居続けたいだけの人間にとって永田町の仕事は楽なものだろうが(何しろ国会に出席するだけでそれ以外は何もしない議員も大勢いる)、山本太郎にかかる負担はとてつもないものだった。
少数の党ゆえ質問回数はぶっちぎりで多く、それ以外にも声がかかればあらゆる現場に駆けつける。そうして全国を回っての街宣やデモ。れいわ新選組を立ち上げる以前でさえ、端から見ていても過労を極めていた。そんな生活を続けていたら、心身ともに悲鳴を上げるに決まっているのだ。
さて、書きたいエピソードはいろいろあるが、これまでどこにも書いていなかったことに触れよう。
山本太郎が年末年始、炊き出しの現場を回っていたことは有名だが、私はそれ以外の場で―打ち合わせや会合出席など、複数人で行動を共にした際など―信じられない光景を何度も目にしている。
それは歩いているだけで(略)
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