25/02/02 07:50:46.39 RvcmnNe89.net
監修・文/瀧音能之
■北部九州説に影響した吉野ヶ里遺跡
近代の邪馬台国論争の中心となっていたテーマは、位置の問題であった。史科の少なさなどのためか、専門家のみならず古代史ファンも論争に関わり、邪馬台国が存在した可能性が日本中にみられるといってもよい状態になった。
しかし、位置論争はその後限界に達してしまう。そのため、その後の邪馬台国論争は、「魏志」倭人伝の解釈、分析を通した邪馬台国の社会や政治体制などの考察に移っていった。
そうした中で、昭和61年(1986)から発掘調査が始まった吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)は、再び私達を邪馬台国の位置論争へとよびもどした。
弥生時代の大規模環境集落である吉野ヶ里遺跡は、高殿や墳丘墓を含み、邪馬台国の中心地にふさわしい遺跡として注目をあびた。
現在では、遺跡や遺物の年代などから邪馬台国と関連づけることに疑問をもたれるようにもなったが、邪馬台国が北部九州に存在したという説に大きなインパクトを支えた遺跡であることに相違はないだろう。
一方で、近年の纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の発見は、邪馬台国近畿説をあと押しする大きなインパクトになっている。とくに、考古学的な立場からは、邪馬台国の中心地は纏向遺跡と考えてよいであろうという見解が、主流になっているようにも思われる。
纏向遺跡は、現在の桜井市の北部、三輪山の北西麓一帯を占める巨大遺跡であり、3世紀前半の弥生時代末期から古墳時代前期にかけて存続していたと考えられる。まだ調査の途中であり、全体像が明確になっていないが、東西2km、南北1・5kmという広い面積に及んでおり、住民の居住区とされるエリアからは、平屋や高屋などの建物群が検出されている。また、3世紀前半とされる居館城とされるエリアからは、当時では最大規模の掘立柱建物もみつかっている。
さらに、大河の建設など都市計画の跡もうかがわれる。九州から関東にかけての地域から搬入されたと考えられる土器も多数出土していて、纏向遺跡のスケールの大きさを感じることができる。
変わった出土物では、2000個にもおよぶ桃の種があげられる。これらは西暦13年から230年にかけてのものとされている。
桃は道教において不老不死の植物とされており、みつかった桃の種は祭祀に用いられたともいわれている。「魏志倭人伝によると、車弥際は「鬼道を事とし能く楽をまどわす」と記述があり、こうした呪術や宗教儀礼とあるいは結びつく可能性もあるだろう。
■纏向遺跡への注目度を高める周辺古墳
これらのことから、近年では纏向遺跡を邪馬台国の中心地と考える見解が有力になってきている。これに加えて、纏向遺跡の周辺にみられる古墳も注目されている。たとえば、箸墓古墳であるが、この古墳は以前から卑弥呼の菜といわれてきた。墳丘長280mの前方後円墳で、出現期古墳としては最大の規模をもっている。
『日本書紀』では、三輪山伝承にゆかりをもつヤマトトトヒモモンヒメの墓とされており、昼は人が造り夜は神が造ったと記されている。
箸墓古墳以外でも、纏向石塚古墳、ホケノ山古墳、纏向勝山古墳、東田大塚古墳、纏向矢塚古墳などの前方後円墳が見られる。これらはいずれも出現期の古墳であり、このことから前方後円墳の発祥地などとよばれている。
これらのことを総合的に判断して、纏向遺跡を中心としたエリアを邪馬台国の中心ととらえる説が強まっている。
たしかに、纏向遺跡が特別の遺跡であることは間違いない事実であろう。(以下ソース)
1/30(木) 16:00配信
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