22/08/06 09:58:36 fPZ3aC3v9.net
米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた
被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の
「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。
きのこ雲の下で何が 8月6日とらえた5枚の写真
湧き上がる巨大なきのこ雲を仰ぎ見るように捉えた4枚の写真がある。建物の軒や松の枝
が映り込んだカットはどれも少しずつ角度が異なり、刻々と形を変えていく原子雲を
フレームに収めようとした撮影者の心情が読み取れる。1945年8月6日、広島に原爆が投下
された直後、当時16歳だった深田敏夫さん(2009年に80歳で死去)が爆心地の南東約2・6
キロの地点から撮影した。
深田さんは旧制崇徳中を4年で卒業した後、在学中から継続する形で陸軍兵器補給廠
(しょう)(現広島大霞キャンパス、広島市南区)に動員されていた。「学友のなかで
カメラに熱中している者がかなりいて、私もその一人であった」(広島原爆戦災誌
1971年刊)。45年8月6日も、ズボンの後ろポケットには小型カメラを入れていた。
本人の証言や手記から、深田さんのあの日の撮影状況をたどることができる。
出勤途中にパンクした自転車を押して、汗だくで兵器補給廠に到着。ぎりぎりで間に合った
朝礼を終えて、その日の作業現場だった赤れんがの兵器庫前で指示を待っていると、突然の
閃光(せんこう)を感じた。とっさに建物の中に走り込んだ直後、爆風に吹き飛ばされた。
「兵器庫の中は、砂と埃(ほこり)で一瞬のうちに暗やみとなり、私はずっと更に奥の方へ転がされていた」
(抜粋)
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