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婚約内定発表から約4年のときを経て、ようやく成就する眞子さまの結婚は、手放しの「祝福ムード」とはいかぬままゴールを迎えそうだ。
2人の結婚をどうとらえればいいのだろうか。皇室の結婚に詳しい森暢平教授に寄稿してもらった。
眞子さまとの婚約が内定している小室圭さん(29)が近く、米国から帰国する。10月中にも自治体に婚姻届が提出されるはずである。
週刊誌やSNSにはいまだに「駆け落ち婚」への非難が多いが、バッシングを続けても2人が結ばれることには変わりがない。
それよりも、なぜ2人が結婚し、それに対し、あまりよくない思いを持つ人が多いのはなぜかを考える方が、生産的ではないか。
「『私』を抑えて国民のために尽くしてきたことで敬愛され、信頼を得てこられたのが皇室です。ところが眞子さまは『好きだから結婚する』というお考えを最後まで崩しませんでした。(略)『わがままを通した』ということ。
『私』を優先したことにより、裏切られたと感じる国民も少なからずいます」
静岡福祉大の小田部雄次名誉教授のコメントである(『週刊新潮』9月16日号)。申し訳ないが、共感できない。この論理に沿うと、滅私奉公が皇室の務めだということになる。
結婚においても好きな人を選んではならないということになる。天皇・皇族の自由意思は否定されるべきなのか。
(中略)
近代の皇室の歴史は、国民とのフラットな関係への志向(皇室平民化路線)と、権威化路線とのせめぎ合いのなかにあった。戦後皇室は基本的には、平民化路線へと向かっていた。
だが、近年、怪しくなってきた。それは、災害や経済的苦境が続き、日本の国際的地位が低下したことと無関係ではない。
人は、何かに確信が持てないとき、過去とのつながりを確認したくなる。正統性、伝統、国家というアイデンティティーにすがりたくなるのだ。
従来の通婚範囲から大きく外れた場所から出現した小室さんを受け入れにくいのは、私たちが、不安の時代を生きているからである。
■ありのままであるために必要
だが、その深層には、天皇に権威性を求めてしまう社会の変化がある。不安定な政治に飽き飽きする私たちは、不変なものを皇室に求めてしまう。
皇室は無私(わがままを言わない存在)だと信じたくなってしまうのだ。
そもそも、孫娘の結婚に、祖父の許可が必要な家庭など今の日本にはほぼ存在しない。皇室の存在意義は、日本の家族の鏡であることだ。そこからの逸脱こそ、皇室の存続にかかわる。
確かに、小室さんは同等性の原則からは大きく外れる。しかし、21世紀の私たちは、100年以上前の原則を皇族に押し付け続けるべきなのか
息苦しい日本で、若者たちは、相手の地位や年収や容姿といったステレオタイプ化した異性の魅力を重視していない。
一緒にいて居心地のいいこと、ありのままの自分でいられることが最も重要である。社会学はこれをコンフルエント・ラブ(融合する愛)と呼び、従来型の恋愛と区別している。
眞子さまが選んだ小室さんは、まさに、ありのままの眞子さまであるために必要な存在である。眞子さまの言葉を借りれば、
小室さんは「かけがえのない存在」であり、2人の結婚は「自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択」である。この言葉に、国民は戸惑っていると言う人がいる。
社会の不安を眞子さまの結婚への期待に置き換えるべきではない。
国民と皇族は違うという人もある。同じである。逆に、同じであろうとしたことこそ皇室と国民を結ぶ回路であった。皇族にもプライバシーもあれば、個人的な欲望もある。恋もする。
国民が総小姑(こじゅうと)状態になり、眞子さまの結婚に注文を付けること自体、異様である。『週刊朝日』を含めたメディア報道もおかしかった。
結婚を両親が認めたことも明らかで「駆け落ち婚」と呼ぶのはもはや適切ではない。仮に「駆け落ち婚」だとしても、そのどこが問題なのか。
彼女の結婚を見守ることしか、私たちがなしうることはない。
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URLリンク(news.yahoo.co.jp)