21/05/10 20:25:56.39 x72tzA+Y0.net
ヤマトタケルと仲哀天皇を対比すると面白い
崇神の曾孫なのに父の景行天皇に疎まれソレでも神の加護により熊襲征伐の大戦果を上げしかも非業の死
一方その子の仲哀天皇は神が再三新羅を討ち宝を得よと命令するも聞かずにに不審死
ここには神意に沿うものは天皇になれず非業の死でも善で英雄、
逆らう者は天皇でも卑怯者で誅殺も可と云う武勇の価値観を示す
この神意に沿った神功と応神は、仲哀とは正反対に英雄となる
これは神話とは言え史実でも4世紀中盤に倭国は再三朝鮮に侵攻している
有名な広開土王碑は391年だがその20年前から倭国は百済を保護に置き、新羅や高句麗と交戦している
ではなぜ倭国がここまで百済に関与するのか
そもそも百済が歴史上明確に登場するのは4世紀中盤頃で、楽浪帯方の遺臣、扶余、倭人などの混成国家とされる
もともと絶好の貿易立地であり司馬氏内乱による権力の空白後に多数の勢力が貿易利権を求め
百済に集合したのが百済建国の実態であろう
このように倭人は百済建国から関与し大きな貿易利益を得たから
崇神子孫が相剋しても百済に出兵する必要があった
しかしこの倭人とは九州の女王国なのか奈良の新興崇神朝なのか定かでない
もっとも崇神晩年に任那使者が朝貢とある
新興の崇神を動乱の任那が頼ったとしても不思議ではないだろうね