21/05/04 15:05:43.27 7xFwhCll9.net
日米両政府が1996年に電撃合意した米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還は、様々な思惑に揺さぶられ、当初想定した通りには運ばなかった。普天間固定化の25年の源流に何があったのか。返還合意当時、防衛庁防衛局長として、米側との折衝にあたった秋山昌広・元防衛次官(80)が振り返った。
95年に沖縄県で米兵による少女暴行事件が起きました。当時、日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)のため、米国にいましたが、「これはえらいことになった」と思いました。
米国は当初、「協定の改定は難しいが、思い切った運用の改善をする。それで何とか収められないか」との意向でした。しかし、沖縄県の大田昌秀知事は在沖縄米軍基地の整理・縮小という姿勢をはっきり打ち出してきました。防衛庁としても、「これは基地の問題だ」という認識でした。
「5年ないし7年以内」の返還で日米が合意できた背景には、95~96年にかけて起きた台湾海峡危機がありました。米国の意識が中国、台湾へと向き、沖縄の米軍基地の存在意義も変わったのではないでしょうか。沖縄を今後も安定的に使用するためには、普天間を返還しなければいけないという発想があったのだと思います。
…続きはソースで。
URLリンク(www.asahi.com)
2021年5月3日 17時00分