21/04/16 14:32:38.41 GkdQC9Yp0.net
>>646
正解
~ 魏志倭人伝の解析を怠るべきではない ~
URLリンク(i.imgur.com)
■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、
魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている
■中国に伝わる古い伝承記録から書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東)
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
①帯方郡から(記載漏れ?)
②南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など)
③南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸
④まず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ
⑤倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
⑥女王の使者が迎えに来る
⑦迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった
・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった
・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた
・倭人は