21/04/16 14:19:51.30 7HrmHfM20.net
>>629
百済が滅んだときと最初の頃とは範囲が違うね、
はじめはもっと北にあった。
都はソウルにあり、高句麗に負けて追い出された。
そんで南に逃げて今の扶余あたりに都を作った。
それが今遺跡になってるやつ。
それが475年。
その後、武寧王が倭国と結び王子を人質に出してまで支援を要請した。
6世紀になり継体天皇の時代、大伴金村が4郡を百済に割譲する事件が起きる。
金村は責任を取らされて失脚するらしいが、割譲したとちはそのまま百済になった。
その場所は、前方後円墳がたくさん出てくる地域だ。
つまり、6世紀なかばまで、そこは百済ではなかったということだ。
200年後、白村江の戦いで百済は滅びる。
任那も放棄し、元任那であった割譲した地域の住民も含めて、多くが難民となって
日本に逃げてきた。
もちろん、純百済人もいたことだろう。
ただ、全員が逃げてきたわけじゃない。当然だが。
取り残された大半の人は、その後新羅人。高麗人となり、
後に朝鮮人になっていく。
人口維持率は水稲稲作のほうが遥かに大きい。
反収が約3倍だからな。
こうして、取り残された倭人は後の韓国人になっていく。