【新潟】東北と近畿、文化の境界 古墳時代の遺跡、続縄文土器出土 「新潟は邪馬台国から大和成立時の東西の動向が把握できる重要地点」 [樽悶★]at NEWSPLUS
【新潟】東北と近畿、文化の境界 古墳時代の遺跡、続縄文土器出土 「新潟は邪馬台国から大和成立時の東西の動向が把握できる重要地点」 [樽悶★] - 暇つぶし2ch564:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:01:39.13 JhU2Ofpx0.net
地に鬼はいても道はない、鬼道は当時韓中だよ、卑弥呼は中国人だよ、中国人巫女、それが苦労して女王に祀り上げられ中華を忘れず朝貢 して来たもんだから魏の明帝は我甚哀汝といい親魏を与えたんだよ、倭人東夷には与えない称号だよ

565:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:10:45.37 Qw8FkuWk0.net
イタコはシナチョン起源!アホ過ぎて笑えるw

566:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:14:16.32 6onGveAE0.net
>>563
おまエラチョンコはエベンキだろが
なんの関係もないんだよボケが

567:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:15:45.93 6onGveAE0.net
歴史捏造のチョンコはきっしょいな
古代から日本人が半島を支配してたんだよボケが

568:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:16:35.25 6onGveAE0.net
もう一回植民地にしたろか糞朝鮮人

569:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:17:12.46 SMbNu2X+0.net
昔2chに貼ってあったやつ
天皇家は朝鮮人 史実一覧
国譲り = 日朝戦争
(日本縄文王オオクニヌシvs朝鮮人アマテラス。鉄器がほとんど無いオオクニヌシは惨敗。出雲大社は牢屋。アメノホヒ今の千家は牢番の朝鮮人)
神武天皇東征 = 日朝戦争
(日本縄文人ナガスネヒコvs朝鮮人神武天皇)
神功皇后は朝鮮人
(依羅神社の宮司は依羅族つまり朝鮮人、つまり真の祭神は牛頭天王 。はい、仮に天皇家が縄文人なら絶対にあり得ない暴挙ですね)
仏教は弥生時代に伝来
(朝鮮人天皇家による日本侵略とともに各地に牛頭天王社が建立、最古は大阪依羅連、今の大阪天美の阿麻美許曾神社)
ヤマト王権の豪族はみんな朝鮮人
(物部さえも氏寺がある仏教徒の朝鮮人、王朝内の日本縄文部族は大神神社の大神氏だけ)
とうぜん中臣藤原氏も朝鮮人
(水無月大祓詞で縄文肉食祭祀を全否定罵倒中傷。だって、中臣氏は仏教徒の朝鮮人だもん)
崇仏論争はデマ
(だって、物部も朝鮮人仏教徒だもん。藤原不比等による歪曲)
諏訪大社下社は朝鮮人
(日本縄文人の上社を監視侵略すべく朝鮮人天皇家が下社をスパイ機関としてゴリ押し新設。 日本人は下社を参拝しては、ダメダメ)

570:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:17:43.99 i0z6XQAE0.net
>>564
言わない
555 ニューノーマルの名無しさん[] 2021/02/24(水) 00:38:43.67 ID:JhU2Ofpx0
半島の百済を百残ともいうだろ?もうひとつあんだよ

571:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:29:32.66 Qw8FkuWk0.net
朝鮮人の思い描く空想朝鮮人はやっぱ有能だな
でもぶっちゃけ奴隷だよな?
古代より列島における奴隷の供給地といえば朝鮮半島だけどね
生口をしょっ引いて来たり、百済から工匠奴隷の献上があったりと
何かと便利で都合が良い地域だったのは確かだわな
中世倭寇も同様で朝鮮出兵時には供給過多で奴隷が市場に溢れ返ったし
そういった歴史が一定スパンで繰り返えされてきたわけ
それでも昔の半島人は良く日本に尽力してくれたと思うわ、今となっては我々の祖先でもあるしね。

572:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:36:02.35 SMbNu2X+0.net
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅

福井県の新羅神社(1)若狭地方の森羅神社
若狭地方は北九州・山陰・北陸などの地域と同様に日本海沿岸の古代日本の先進的地域であった。
若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。
弥生時代の水稲は朝鮮半島から直接に伝来したものであろう。
若狭地方は敦賀市から小浜市に渡る若狭湾に面した地方である。
湾内には敦賀半島、中外海半島、大島半島をはじめ数多くの入江や島が存在し、西隣は丹後国である。
当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。
秦氏については古代中国の秦氏の移民説や加羅氏族説など、異説が多い。
当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、 標記の方法を変えて新羅(しらぎ)信仰を
今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、 「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。
これらに 加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども 新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。
当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、 いわゆる古代三王朝の内、二王朝、
即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、 越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。
継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。
この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)
URLリンク(miidera1200.jp)

573:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:36:44.59 rv6we1Jy0.net
>>561
年代的には重なるから、卑弥呼の鬼道とは五斗米道伝わったものなのかもしれない。
そうでないかもしれない。
断定はできない。
三世紀編纂の『三国志』では、弁辰の条にも鬼の崇拝の記述がある。
「信鬼神 國邑各立一人主祭天神 名之天君 又諸國各有別邑 名之為蘇塗 立大木縣鈴鼓事鬼神」
鬼神を信じ、天神を祭る司祭を天君と名付け、大木を立てて鈴と鼓を懸けて鬼神をに仕える、
とのことで、ある程度の鬼の信仰がいかなるものであったかがイメージできる。
同書の倭人の条では、
「乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國」
鬼道とは記述されるが、信仰の内容は伺い知れない。

574:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:40:59.68 SMbNu2X+0.net
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅

福井県の新羅神社(2)若狭地方の新羅神社
社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、
『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。
地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。
『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。
『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。
従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。
『福井県神社誌』には、「創立年代不詳。境内より縄文式土器の破片が発見されているから、 弥生後期(一、二世期頃)には祭祀が行われていたであろう」とある。
当社は式内社に比定され、 『越前国内神名帳』には「従五位白城神」と記載されている。
更に、橋本昭三『白木の星』によれば「白城神社は延喜式にその名を記しており、 昔、朝鮮半島に栄えた新羅の人達が、
はるばる日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだといわれる」と述べている。
この伝説は、一種の天孫降臨を示すものであろう。
『南条郡誌』によれば「古名考」に「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。 今庄も古く今城と書けり。
此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云。 此即古の叔羅(しらき)川なり。叔羅は即ちしらきなるべし」。
また『神明帳考証』には「吉従按白城宿禰を祭るなるべし。武内宿禰の孫也」と記載されている。
白城神社前の白城神社橋を渡ると大きな石の稲荷鳥居があり、白城神社の額が掲げてある。 鳥居の柱には「文政十三年庚寅歳四月上旬」と刻んである。
その左手には樹高33mの黒松の巨木がある。 境内の広さはおよそ一千坪。鳥居の下を過ぎ、二十段程石段を登った台地状の場所の西側に拝殿があり、
たくさんの扁額が掲げられている。台地状の場所の右手奥に二の鳥居(石の稲荷鳥居)があり、 鳥居の下から十段程石段を登ると本殿がある。
本殿は大社造のりっぱな建物。南向きである。 本殿の西側に末社等が祭られている。境内は白砂が敷かれ、清潔な感じがする。
神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社。
例祭は七月十五日。白木祭(新羅祭であろう)という。
新年祭・新嘗祭。
特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、 これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。
現今の新嘗祭に相当する。更には、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。
「当区において祭礼情景を観る時、往昔の自己の氏神祭礼に 官人・傭人等が賜暇を得て郷土に気休する時の事を想像される」(『敦賀郡神社誌』)

575:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:42:10.45 dbaV59Tf0.net
このスレで「ぼくの考えたさいきょうの歴史」を長文披露してる奴らが、
リアルでも披露してて、周りから「あーはいはい」って呆れられてるんだろうな

576:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:46:06.93 SMbNu2X+0.net
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅
福井県の新羅神社 (3) 信露貴彦(しろきひこ)神社(敦賀市沓見(くつみ)に鎮座)
沓見には久豆弥(くつみ)神社がある。地名の沓見は古くは久豆弥であったのであろう。
沓見は敦賀半島の付根の中心部にある集落である。円塚古墳・横穴式墳墓が数個所発見されている。
敦賀駅からは車で二十分位の場所にある。沓見のバス停の前を左折し100m程進む。
道路の突き当たりが信露貴彦神社である。神社のある場所は山裾で標高が高くなっている。
東北部には農耕地が続き、そのはるか遠くに山並が連なっているのが見える。
神社の左隣(南側)には前宮司の龍頭(りゅうとう)家の屋敷があり、 「龍頭一夫」なる標札が掲げてあった。
夫人に話を聞いたが、大変親切に説明をいただき、帰る時には柿などを土産に頂戴した。
龍頭家の座敷には信露貴彦大神・久豆禰大神・八幡大神の三神の掛軸と供物や狛犬などが飾られていた。
今の宮司は前宮司の弟さんとのことであった。宮司の龍頭家は新羅系の家系であることから、 信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。
「宮司の龍頭家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっておる」(『今庄町誌』)

577:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:46:15.36 SMbNu2X+0.net
神社は三百坪位の境内であるが、境内地の境を区切る玉垣などはないので、 林の中に鳥居や神殿が立っているような印象を受ける。
神社の入口には信露貴彦神社と刻まれた背丈の高い石柱や二基の石灯籠・石の台輪のある大きな明神鳥居が立っている。
祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。 社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、
敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。
「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、 共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)
『敦賀神社誌』によれば、「按ずるに当社は往昔より白木大明神と尊称し、 推古天皇十年に創立し延喜式神名帳には越前国敦賀郡信露貴彦神社とあり。
元は当区南方字神所(かんどころ)・下の森地籍に鎮座したというが、 現地に奉遷の年代は不詳」という。
『福井県神社誌・遠敷郡誌・南条郡誌』には、「或いは今庄堺村荒井の新羅神社ならん乎」。
『古名考』「一説日野川の源である夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり。
故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ」。
『古名考書入』「合波堺村山上の社なり按に合波のは白鬚神社なるに 荒井は地名も古文書に見え社名も同じなれば寧ろ之を採る可き乎」としている。
『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、 南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。
従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。神社は拝殿と本殿からなる。 拝殿及び弊殿は妻入り神殿、木造瓦葺、白壁造りで庇がつけられているが、建物は相当古い。
拝殿の奥に七.八段の石段があり、その上の台地状の場所に本殿がある。 本殿のある台地は、石垣が積まれている。
石段を登った所に四脚門(これも妻入り、左右に木造の透塀がある)があり、 その数メートル奥に本殿がある。
簡素ではあるが千鳥破風造の屋根をもつ木造建築である。 瓦屋根。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。
例祭は五月四日。祈年祭三月二十一日。新嘗祭十一月二十三日。 五月六日の例祭日に行われる「王の舞」は天孫降臨の様子を表現したものともいわれている。
沓見祭といわれ、古代そのままの神事が行われるという。
金達寿は『日本の中の朝鮮文化』の中で「信露貴とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、 彦とはその男ということであろう。
新羅を白木(しらき) ・白城(しらぎ)としたのはいゝほうで、 信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである」と記述している。
当神社も、明らかに渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。
邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、 海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、
孫が稲飯命である。天日槍の後裔が新羅国王の祖として祭ったということを示したものであろうか。

578:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:50:52.32 Nzg+IKZf0.net
黒齒国「オチ」→越
山海経
黒歯の国がある。俊帝の子孫である。姜姓である。黍を食べ四鳥を使う。
殷の子孫
その北に黒歯国がある。そこの人は黒い。稲を食べ蛇をくらう。黒歯国の北に扶桑がある。
稲、コシノヤマタノオロチ
淮南子
その人の歯は黒く稲を食べ蛇をくらう。湯谷の上である。
湯之谷(魚沼)
東は黒歯に着く

579:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 01:59:14.42 j4DOTfKe0.net
東日本大地震は日高見国の呪い

580:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:10:16.65 SMbNu2X+0.net
金達寿「神社や神宮は古代朝鮮から渡ってきた。」
「広辞苑」をみますと、ただし、第一版です。第二版ではどう いうわけか、それを消しているんです。
ぼくなんかがそれを引用したりするからということもあったかと思いますが、一版を見ますと、「韓神の祭り」というのがありまして、
そこに上代において二月十一日に行われた 宮内省の内にまつられてある韓神社の祭と書いてあります。
二月十一日がどういう日かご存知ですね。今は建国の日と言いますが、昔の紀元節です。
つまり上代の二月十 一日には、宮中で韓神の祭りが行われた。
そればかり神楽というものがあります。宮中神楽です。宮中神楽でない神楽は里神楽と言います。
宮中の神楽はどういう神事かといいますと、韓神を招く神事です。
「三島木綿肩(みしまゆう)にとりかけ、われ韓神の韓招(からお)ぎせむや、韓招ぎせむや」という韓神を祭る神事です。
何がゆえに宮中で朝鮮の神様を祭るのですか。
「延喜式」を見ますと、園韓神の社というのは 三社あるんです。宮内省坐園韓神三座(くないしょうにますそのからかみさんざ)というのがそれですが、
韓神は百済の神で、宮内省に二社あります。
・・・文字から見ると、園というから公園の神様か、花壇の神様か、 今の感覚では思っちゃいます。これは一語ではなくて「ソの」という二語です。
つまり新羅を昔はソラボル、ソヤブル、ソナブルと言ったし、ソブルとも言った。
・・・ソウルは都という意味です。京都です。・・・・・ソというのは新羅の元号です。
このように新羅系の神であり、百済系の神が二座、宮中に祭られている。このことによって王朝の交代がわかります。
中国や朝鮮では、こういう場合は消してしまうんです。
日本は実に面白いです。神社もよく残っている。日本人はものの考え方が調和的ですから、捨てないのです。
ぼくは神社というものが嫌いだったんです。戦時中に強制参拝させられましたから。・・・・・ところが戦後になって日本の歴史をだんだん調べているうちに、
なんとこの神社が朝鮮から来たものなんです。しかも新羅から来た。これにはまた驚きました。
「三国志」にはっきりと出ていますが、新羅の初代王を赫居世(ヒョクコセ)といい、赫は名で、居世は様というほどの尊称です。
この王が亡くなって祖神廟ができたのが西暦紀元五年で、これが 487年に「神宮」に なります。
前川明久氏の「伊勢神宮の祭祀制」をみると、「神宮の称号の起源は新羅の神宮に由来している」というその神宮です。
では、神社の社はどうかと言うと、これは「居世」という尊称からきたコソだったものです。
先ほど、比売許曽(ひめこそ)神社のことを言いましたが、そのコソです。つまり神社は社(こそ)です。
伴 信友がはっきり書いているように「神社とは古曽のこと」つまり社(やしろ)のことです。
・・・・「社」は「こ そ」です。社というのは名前ではなくて、尊称です。
そういうことで神社は朝鮮で始まったわけですが、仏教が入ってきます。日本人は物事の考え方が非常に調和的ですが、
われわれ朝鮮人は悪く言うとあれかこれか主義で、対決的です。よく言えば論理的です。

581:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:10:46.30 SMbNu2X+0.net
日本の八百万の神々の大部分は、朝鮮半島から渡来した人々の氏族的な先祖信仰の象徴であり、石器時代から日本列島に存在したものではない。
例えば、スサノオ(素戔鳴尊)、オオクニヌシ(大国主命)、ハチマン(八幡)なども大陸からの渡来神である。
朝鮮半島からの渡来者が増加した4世紀以後(日本の古墳時代)に、朝鮮半島から来た人々は、
家と個人の信仰である仏教と、先祖・氏族の信仰である神と、二つを抱いて日本列島に渡ってきたのであった。
そして日本の居住地域に、寺と神社を建てたのである。
新羅人は、太陽神を祭った。太陽神と同時に祖先神を祭った。そこから神社が発生することになるという。
例えば伊勢神宮、これは皇祖神になっている。
伊勢神宮に行くと韓神山という山がある。その中に韓神社があります。伊勢には韓鋏という地名があります。
韓の発祥の地は丹後で、そこには天の橋立、一宮の籠神社があります。籠神社は元伊勢と知られています。
この籠神社を祭ったのが、天日槍の人たち。
「天日槍」については、新羅の王子という個人ではなく、新羅、加耶系渡来集団の象徴、新羅から渡来した矛や剣で神を祭る集団の象徴のようなもの、
新羅人は太陽神あるいは祖先神を祭り、いわば天日槍(矛)とはその為の道具だといいます。
日本書紀や風土記で記されてある「赤留比売」は天日槍の嫡妻ではなく、神を祭る巫女だといいます。
この巫女が後に大阪市東成区にある比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)に祭られる。
祭っていたものが後に神様として祭られる例は、天照大神があり、天照大神は大日?貴(おおひるめのむち)というシャーマンだったものという。

582:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:28:43.70 SMbNu2X+0.net
神社の起源と古代朝鮮~岡谷公二によると
神社信仰の成り立ちについて、近江の渡来人が祀った神社、渡来人とかかわりのある神社について、新羅=伽耶系が圧倒的に多い。
近江では、式内社142社 その約2割が渡来系で、そのうちの8割が新羅系だという。
では、琵琶湖に住んだ渡来人は、新羅人だったのか?
むしろ反対の見方が多く先日訪れた湖東三山の百済寺をはじめ石塔寺など百済系のものの方が多い。
近江のみならず日本のほぼ全土についても、弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から渡来してきた人々の多くは、
後に百済が立国する半島の西部より、新羅・伽耶の国々が立国した東南部、現在の慶尚南・北道の人々であった事は間違いないため、
百済より新羅・伽耶と倭の関係がより古いという。
近江系の神社は、どこの例外もなく古く。年代は多くは不明で確認する方法もないが、
ほとんどの神社の社域に一基以上の古墳がある事が証拠立てる理由だと言う。
この古さは、神社の成り立ちに朝鮮半島、特に新羅・伽耶が戒る役割を果たしていることを暗示する。
弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から渡来してきた人々が、稲作をはじめとする様々な文化技術を現地の人に教える一方で、
祭祀だけを現地のものに倣うとは考えられない。
日本で最も数の多い神社である八幡神社、稲荷神社が元来は新羅系の秦氏が祀った神社である。
このように新羅は、日本の神社信仰に大きな影響を与えているのである。
また、「天日槍」について、神社と古代朝鮮との関係を考える場合極めて重要だと述べている。

秦氏に混じって穢族(わいぞく)が伝えた
前田速夫は「狛犬の狛(高麗=高句麗)は貊族の「貊」が起源で、鳥居も「鳥竿」「ソッテ」の変形である。
新羅神社 百済神社 高麗神社など国名がそのまま名称に移行した神社は言うまでもない。
神社や社殿に付属する鳥居、狛犬が備わる以前は、対馬の卒土のような、あるいは沖縄の御嶽(うたき)のような、
聖なる森だったに違いない。」と、穢族(わいぞく)が秦氏と混ざり、南下して日本に伝わったと述べている。
魔除けの役割を担う狛犬は、平安時代末期、それまでは天皇の御座の左右におかれていた獅子、狛犬が神社の境内に進出したものであるという。
仁和寺の仁王門裏には、立派な角のある一角獣がいる

鳥居の原型
URLリンク(img.4travel.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)

583:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:45:38.84 O0SRElox0.net
文献に残る最古の鳥居の記述は12世紀
四天王寺の木造の鳥居を石造に建て直したというもの
四天王寺は創建当時から鳥居があったと言われている
インドのサーンチーの仏塔には鳥居にそっくりなゲートや狛犬にそっくりな像が残っている
鳥居もインドや仏教由来かもね

584:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:52:06.29 SMbNu2X+0.net
ソッテ 鳥竿
URLリンク(i0.wp.com)
URLリンク(i1.wp.com)

585:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 02:52:15.64 SMbNu2X+0.net
URLリンク(imagel.sekainavi.com)

586:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 03:00:01.16 SMbNu2X+0.net
◆韓神山と山宮祭場
 「韓神山は現在の地図に載っていませんが、元禄時代の絵図にその名が記されています」
 伊勢市中村町(なかむらちょう)の共有財産自治会が保管する「元禄二年」(1689年)の日付の入った「彩色絵図」。
現在の中村町と隣の楠部町(くすべちょう)による土地境界争いで、当時の奉行「岡部駿河(おかべするが)」が裁定した際に作成されたのがこの絵図だ。
 絵図には<加らかみ山森>とあるが、境界論争の古文書では<韓神山>と表記されている。
 「今のところ、これが韓神山の歴史的な初見です」
 石井副会長の執筆による論考「中村・楠部村境界争論の展開」(『伊勢郷土史草第9号』所収・1976年)によれば、当時の中村町文書には<韓神山>のほかに
<唐木挟(ときばさ)>という地名も見える。「挟」とは桶狭間(おけはざま)が「おけばさま」と読まれることがあるように起伏ある地という意味だろうか。
「唐木」は「韓から来た」(韓来)と解すこともできる。韓神山と唐木挟。いずれも江戸時代には存在した地名が今は消えている。
 石井副会長に案内された「韓神山」は伊勢市楠部町の五十鈴川のほとりにあった。竹林の茂る森の頂上部に「韓神社」の祠が建つ。
 「現在は地元の医師が管理しておられますが、江戸時代の地誌『楠部雑記』によれば、元の所有者は地元の有力者で、その後、
内宮神主である荒木田(あらきだ)一門の所有になったと記されています。近くに、その荒木田家の墓所があります」
 韓神山の南麓、荒れた森林内の倒木をまたぎながら道なき道を分け入ると、「小谷(おだに・尾谷)」と呼ばれる谷間(たにあい)の低地に二つの巨大な岩崖がある。
ここで荒木田一門は「山宮祭(やまみやまつり)」と呼ばれる同族の祖先祭を行なっていた。かつては岩前に多くの墓石が立ち並んでいたというが、今は荒れ果て、
<元禄十三年>と刻まれた墓石や五輪塔の上部が周辺に転がっていた。

587:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 03:03:57.62 SMbNu2X+0.net
◆荒木田氏と渡来の痕跡
 伊勢神宮内宮の禰宜(ねぎ・注3)を代々務めた荒木田家だが、その出自はよくわかっていない。
 伊勢地方には元々、伊勢神宮の創建前から朝鮮半島からの移住者が暮らしていた痕跡が多数残る。
津市の「六大A遺跡」では弥生時代後期から古墳時代の古式土師器(はじき)、韓式系土器、初期須恵器(すえき)、須恵器などが多数出土。
かつて「斎宮」のあった伊勢市隣の多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の「北野(きたの)遺跡」からも土師器、須恵器などが出土している。
 このうち土師器とは、百済王の子孫とされる「土師氏」の一族が製法を伝えたことからその名がついた。須恵器は朝鮮半島南部の伽耶(かや)諸国の流れを汲む硬質の土器で、
これが中世以降の陶器につながる。その伽耶(加羅・から)諸国の一つに「安羅(あら・阿羅)」がある。
 岡谷公二(おかやこうじ)は『伊勢と出雲』で、「荒木」姓は安羅から来た「安羅来」だと、平林章仁(ひらばやしあきひと)・龍谷大学元教授や金達寿らの指摘を紹介する。
「新羅」が「白城(しらき)」や「白木(しらき)」「信露貴(しろき)」などに置き換わり、神社名や地名に広く用いられているのと同じだ。
 荒木田氏も安羅から来て、祖先をこの地に祀ったのだろうか。
 荒木田氏の本拠地は現在の度会郡玉城町(たまきちょう)で、一族の氏神を祀った「小社(おごそ)神社」が残る。津市の「大乃己所(おおのこそ)神社」、
四日市市の「小許曽(おごそ)神社」など「コソ」とつく神社は大阪や福岡など全国各地に存在する。これも岡谷が前述の著書で詳細に述べているが、
「コソ」とは古代朝鮮語で社ないし聖地の意である。日本では「社」を「こそ」とも読む。
 小社神社の南を流れる宮川(みやがわ)の対岸には「園相(そない)神社」が建つ。「園」は、「新羅の神」とされる「園神」を想起させるが、実際ここの字名(あざめい)は「白木」である。
 奈良時代に書かれた『伊賀國風土記(いがのくにふどき)』逸文に伊賀(現在の三重県伊賀市)の国名の由来を述べた記述がある。
「伊賀国」は最初「伊勢国」に属していたが、国名が十余年定まらないことがあったと説かれ、次の記述が出てくる。

588:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 03:10:34.13 6onGveAE0.net
糞長文の糞エベンキいい加減にしろよボケ

589:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 03:14:09.66 SMbNu2X+0.net
<その間、加羅具似(からくに)と言われた>
 加羅具似(カラクニ)とは「韓国(からくに)」のことであろうか。
 「山宮祭は江戸時代まで行なわれており、明治を境に廃れていったようです」と石井副会長は言う。
 実は、荒木田氏も藤波家も、外宮の禰宜を世襲した度会氏も、国家神道への移行に伴い、神宮から排除された。やがて天皇家が中心に座った。そして韓神山は地図から消えた。
しかし、古代朝鮮半島との関連を示す残像はこうして各所に眠っているのである。
(文中一部敬称略)

590:通りすがりの一言主
21/02/24 06:52:45.85 586voG8l0.net
>>549
鳥居の他、千木・鰹木でググれ。

591:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:06:52.99 cSO7aazc0.net
哀れなエベンキ在日韓鮮人は未だに
40年前のたくさんの専門家でもないただの
地名のゴリ押し妄想付会だけで書いた
在日ハラボジの人たちが書いたホルホル本と
すでに学界では相手にされていない戦後の
忖度自虐史観の騎馬民族征服論などをもとに
書かれた化石を必死にブックオフで100円で
買ってマイブームで日本人に押し付けています

592:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:07:57.93 PwsVx12U0.net
「高天原はどこか」
縄文人は自然の恵みに感謝して、あらゆる自然物を祀る祭祀を行なっていた。
これが神道の原形であるが、 神道は稲作の始まりと共に日本に稲作を伝えた江南
(中国の長江下流域) の祭祀を取り込んで大きく発展した。
「記紀神話」に描かれた高天原とは、その神話を創作した人々の先祖が生きた
弥生時代の日本であったとも、日本の稲作の故郷と呼ぶ古代の江南であったとも
考えられる。
「航海民が祭った大物主神」
少彦名命が海の果てに去っていった後で、「新たな神が海からやって来て大国主
命を助けた」といわれる。
『古事記』に次のような話が記されている。
「大国主命が海岸であれこれ先行きのことを悩んでいるときに、美しい光で海面
や空を照らしながら近づいてくる神が現われた。その神は大川主神に『私の魂を
祀って戴けるならば、あなたに力をお貸ししましょう』と語った。
そこで大国主命は、その神の意向によって大和の東方の三輪山の上にその神を
お祀りした」
この神話は、大物主神を祭神とする桜井市の大神神社の起こりを説いたもの
である。
大物主神は大国主命と同一の神で、出雲の大国主命を守る「幸魂」つまり幸運
や思いもよらぬ奇蹟をもたらす神とされていた。

大物主神は、南方に広くみられる竜蛇信仰の流れをひく神である。古代の
ベトナムや江南には「竜神」と呼ばれる蛇の姿をした水の神を祀る習俗
が広くみられる。
そのためにそのような竜神が、人間の若者の姿になって人間の女性と結婚
する「異類婚」の神話や伝説も各地に残されている。

593:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:08:17.61 PwsVx12U0.net
「記紀神話の中の南方系神話」
天皇を中心とする朝廷の人々が最も愛着をもっていた物語が「記紀神話」である。
だから「記紀」神話を読み込むことを通じて、皇室の源流となる地域がどこで
あったかを知ることができる。
さまざまな話を集めた「記紀神話」中のかなりの部分が、南方的な信仰や文化の流
れをひいている。
前に紹介した北方的な要素は一部の神話だけに見られるもので、騎馬民族の文化
の影響は表面的なところに限られている。
そこでこのあと、 日本神話の中の南方的要素を持ち込んだのはどのような
人びとだったかを考えていこう。

「日本に移住した江南の航海民 」
皇室の日向に対する思い入れ『古事記』と『日本書記』の中に、日本人が北方
から来たという発想はみられない。
「記紀神話」などには、南方を日本文化の故郷とする意識が見え隠れして
いる。江南の航海民は、日本の南方から来て南方系の文化を伝えた。
そして「記紀神話」がまとめられた時代の大和朝廷の勢力の最南端が、
日向であった。
それゆえ皇室の祖先にあたる二ニギ尊が降臨した地は、日向の高千穂の峰で
なければならず磐余彦は日向から大和に来て初代の天皇になったとされた
のである。
皇室の先祖は、江南から来た移住者の首長であろうか、あるいは江南系の文化
を学んだ日本に古くからいた縄文系の首長であろうか。
武光誠 2019

594:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:10:27.94 4wOxE6Wc0.net
★日夜隙あらばデタラメの噓を流そうとするクラスター在チョンw
しかしコトゴトク日本の学校で勉強した日本人にやっつけられるw
304名無しさん@1周年 2019/12/08(日) 19:11:28.59ID:AGGczja90
太古日本列島に馬はいませんでした。
半島と日本が地続きだった時代、朝鮮民族が馬に乗って渡来し、原始的な生活を送っていた
日本人に稲作など文化を与えたのです。
URLリンク(twitter.com)

934名無しさん@1周年2019/12/02(月) 20:46:09.19 ID:iXWN4iIh0
江上の騎馬民族説は空想が土台になっていて
考古学的にも人類学的にも全く実証性がないもので
現在では盲説扱いとなっている
だが在日コリアンは、その盲説をカルト教義のように信じたいので
こういう記事を書いたりするのだろう
彼らには客観的事実や科学的根拠は通用しないようだ

♦♦日本の超一流学者 ♦♦
・田辺昭三
この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物。

・佐原真
かつて、騎馬民族征服説という仮説がありました。
騎馬民族の王侯貴族が組織的な騎馬軍団を率いて
日本にやってきて征服王朝をたてるということはなかった。
人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに
対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、果たした
のかもしれない。

・岡田英弘
完全なファンタジーであって、何ら史実上の根拠はない。
江上波夫が創作した、新しい神話。
騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれは全くの空想。
(deleted an unsolicited ad)

595:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:12:41.10 E8aKgLlf0.net
越の国と言えば継体天皇

596:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:13:21.80 5tB2fw7A0.net
日本書紀で扶余と記される百済は北方民族だろ
日本人のベースは南方海洋漁労稲作系
北方民族には入浴や沐浴、水泳の習慣が無い
また、稲作にまつわる儀礼や信仰もない
朝鮮人はさらに北方系で小さい耳たぶ、 9センチの勃起ペニス、
細い釣り目、薄い体毛など完全な寒冷地仕様であり、日本人とは赤の他人
日本で微かに見つかるC1a1などは四国の山奥に紛れ込んだ半島人のものだろ

597:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:15:36.80 5tB2fw7A0.net
◆近年の学術研究結果のまとめ
①日本ヤマト最初の国家官製規格の前方後円墳ができたときの纒向では朝鮮半島の遺物がほとんど出ない
②その時代から同一モデルを含め複数と考えられる半島王子と名乗る者が「聖人君子が日本におられると聞きまして参上いたしました」と
訪日するが、どれもよそ者でかろうじて任那からきたソナカシチは纏向染めの絹を土産に持って帰らせてもらっている
③倭王・武の雄略天皇は、 宋から半島の軍事顧問を任されている
④古墳全時代を通して朝鮮半島の使者で都まであがって天皇と会えた人間はほとんどいない
ほとんど全てが北九州で追い返しか、大阪湾の内湾南の難波館止まり
⑤厳格な都の中での肉食禁止令を徹底
⑥八乙女にしても八十島まつりにしろ、 国家祭祀の中心から外縁までの全てが
海洋性神話にもとづく内容
⑦伊勢内宮のアマテラス大神の御神体の八咫鏡がおさめられてる箱も御船代
⑧大嘗祭で建てられる高床式の屋代家屋の屋根が温帯~南洋の葉の束 (昨秋は秋篠宮様実費削減提言に沿って板葺き)
⑨古墳時代の天皇や大王級の御遺体を古墳に運ぶための葬送儀礼用の舟形木製箱
※ 朝鮮半島の文化要素がほぼゼロ

598:高篠念仏衆さん
21/02/24 07:21:31.38 QfYSWesZ0.net
華北平原より
高句麗の方が歴史あるんじゃないのか?
華北平原は海に沈んでた時代あるだろw

599:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:25:34.59 F5JmbReK0.net
851不要不急の名無しさん2020/04/27(月) 17:42:41.70ID:lT/6G2R0の日本人の普通の指摘
◆出張や旅行で誰もが経験する違和感
ソウルで見かけない顔 (棚田や南洋系舞踏のあるアジアの他国では見かける) 
坂口憲二
斎藤工
北村一輝
長瀬智也
草刈正雄
三船敏郎
妻夫木聡
阿部 寛
平井堅
古谷一行
長嶋茂雄
加藤剛
山下真司
片寄涼太
EXILE AKIRA
EXILE TAKAHIRO
柳楽優弥
千葉真一
金城武
長嶋一茂
加山雄三
村上弘明
中山仁
岡田圭右
村田諒太
桐谷健太
真田広之
加藤綾子
松下奈緒
黒木メイサ
磯山さやか
佳子さま
吉永小百合
鈴木紗理奈
新川優愛
宇賀なつみ
片平なぎさ
知花くらら
高橋メアリージュン
水野美紀
浜辺美波
中村アン
仲間由紀恵
柴咲コウ
伊藤聡子
三浦瑠璃
ゆきぽよ
深田恭子
桜田純子
長谷川潤
内田理央
白石美帆
内田有紀

600:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:31:57.78 F5JmbReK0.net
ちょっと意味不明な在日韓国人の ID:6V/UNPRL0 ID:SMbNu2X+0の火病(*´ω`*)www
894 不要不急の名無しさん2020/04/27(月) 20:07:28.53ID:r6po4jT0
>>851
金城武は沖縄と台湾 黒木メイサは沖縄アメリカ 北村一輝山田孝之は沖縄奄美の琉球人
知花くらら仲間由紀恵も沖縄で皆大和民族の血は入ってない、日本の中の超マイノリティーの
沖縄人は日本の典型ではない、九州だと浜崎あゆみ松田聖子武田鉄矢など典型が一杯いる

601:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:38:05.01 2BQG/7wO0.net
100ニューノーマルの名無しさん2021/02/23(火) 00:48:27.85ID:b8UI+84p0
【宮崎】「Y染色体で出身地」推定 … 警察職員、犯罪捜査に期待 
「同じ地域に住み続ける人が多い宮崎、 父系DNAで地理的分布が分かる」
野原寛文さん
URLリンク(cdn.mainichi.jp)

宮崎県警科学捜査研究所でDNA鑑定を担当する野原寛文・技術職員(29)が、男性のみが持つY染色体のDNA型を用い、
その人に縁のある県内出身地を推定する全国でも例のないデータベース(DB)を作り、全国の科捜研職員が競う日本法科学技術学会の
奨励賞を受賞した。 宮崎県の“陸の孤島”ぶりを逆手に取った。 今後、犯罪捜査や遺体の身元判明に資することが期待される。【塩月由香】
 ―どんなDB?
事件の遺留物や遺体のDNAデータを検索にかけることで、県内にゆかりのある人か否か、ゆかりがあるのならどの地域なのかがある程度
分かるというDBです。県内警察官らが提供してくれたDNAサンプルと、それぞれの出身地を照らし合わせた結果、DNA配列にある程度の
地域傾向がみられるという結果を得て、作りました。
 ―研究の経緯は?
私の母校の熊本大OBでもある清水健史・前科捜研副所長(3月で定年退職)が「同じ地域に住み続ける人が多い宮崎なら、父系DNAで
地理的分布が分かるのでは」と、2008年度ごろに研究を始めたそうです。17年度に3カ年事業として県の予算が付き、18年度に私が加わりました。
 ―大変だったこと
DNAのサンプル集めと解析作業ですね。清水さんたちが17年度に約600人分のDNAを集めていたので、さらに増やそうと、県内全13署を回って
口腔(こうくう)内細胞を提供してくれる警察官らを募りました。1人分でも多く集めたくて、学会直前の19年9月まで粘って最終的に計1705人分が
得られました。うち県出身者1285人分を約1カ月かけ解析しました。
―受賞の感想を
成果が出てほっとしました。多くの人の協力のおかげです。この研究成果に、大学時代から続けてきた難治性肺疾患の
解明研究の成果を加えた論文で、今年3月に熊本大大学院薬科学の博士号も取りました。

602:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:45:46.54 tMtg9Omx0.net
>>600
>金城武は沖縄と台湾 黒木メイサは沖縄アメリカ 
>北村一輝山田孝之は沖縄奄美の琉球人
>知花くらら仲間由紀恵も沖縄で皆大和民族の血は入ってない

在日韓国人の沖縄系やアイヌや蝦夷系等の元型日本人ヘイトが止まりませんな
民族病的精神疾患にしても重篤すぎますわ

603:ニューノーマルの名無しさん
21/02/24 07:53:30.96 Yo44j2mY0.net
>>576
万葉集は朝鮮語では読めないからねチョンさん?w
クラスターチョンさんでした?
老齢期に入ったチョンさん
もう人生終わりなんだから朴炳植とか藤村由佳でホルホルから卒業しないとねw


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