21/01/17 12:07:27.16 ZPX2oD2i0.net
>>57
前述したように,
1877年(明治10)の西南戦争の勃発をきっかけとして,長崎→横浜→東京の
伝染経路により,東京を含めて,始めて本格的なコレラの全国的流行に直面し
た場合,民衆が祈祷や御符などの俗信や根拠のない浮説で10),適切な措置を
とりえないまま,パニック状態に陥っていた当時,政府は「虎列刺病予防法心得」
(1877年8月)を指示した。
それは内務省から各府県(東京を除く)と,東京警視本署を通じて布告された
最初でしかも体系的な通達であり,以後その一部が改補されながら「伝染病予防
規則」(1880年7月)として拡充される。さきの「心得」の要点は,開港場船舶
に関する検疫,患者の届出と隔離対策,予防細則から成り,後に避病院の設置と
運営,清掃その他の環境・予防対策が加わる11)。
こうして地方行政組織を通じてのコレラに対する隔離(クワランティン)・
防疫の法的対策が,一応整備された。しかし前述したように,そのころ,治療・
検疫・予防担当者の大部分が「漢医」であった限り,感染者への対策は患者の
「隔離」方式がその中心にならざるをえなかった。
近代医学の発展の過程で,疾病に対する社会の防衛対策が患者の治療から
積極的な予防体制に移行する以前の段階で,おもに展開した方法は病人の
「隔離」または「殺害」というやり方であったという指摘は12),さきの明治
政府によるコレラ対策の本質を示唆する。
その場合,病原菌に感染した民衆への具体的措置は,警察力を背景にした
「避病院」への強制収容がその中心であった。