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日本での公衆衛生制度の発足は,
明治初年における岩倉遣外使節団の海外視察(1871年4月―1873年9月)2)
を通じての西欧の医療制度とくにオランダのそれを参考に起草された「医制」
76か条(1874年8月)の公布を契機とする3)。
明治初期,民衆支配のための戸籍→警察行政および資本主義育成のための
勧業行政を中心に,いわゆる「大久保政権」(1874年に成立した最初の中央
集権的官僚支配体制)のもとで4),内務省が開設される時期までの医療・
公衆衛生行政は,当初,文部省の所管であった。
当時,医事行政の管理は西欧医学にその基礎をおく医学教育部門とあわせて
,廃藩置県後の太政官三院八省制の実現とともに設置された文部省がそれを
管掌し,公衆衛生行政・西欧医学教育・医師開業免許・医薬分業などの諸制
度が「医制」によって確立した5)。
こうして,文部省中心の集権的衛生行政機構が衛生局―地方官―「医務取締」
(地方医師)を軸に制度化された。しかし,当時の医師の八割強が「漢医」で
あった点に配慮すれば6),西欧の医事制度をモデルにした「医制」の完全実施は
,きわめて困難であったうえ,内務省新設(1874年)の直後,中央官庁の衛生
担当部門が文部省から同省へ移管されたこともあって,ほとんど実効を収める
ことはなかった。
ついで,内務省段階での公衆衛生対策は「教育勧業百般開明ノ事業皆衛生事務
ノ弛張ニ従テ伸縮セサルヲ得ス」7)とその重要性が的確に把握されるとともに
,かって東京府を含む京都・大阪の三都に限定されていた文部省の「医制」
(欧米の制度・文化の移植という点で,それは政策の試行錯誤の実験台の意味を
もった)を新設の衛生局の管理に移して全国に拡大したうえ,東京については,
全国警察機構のなかでも,とくに重視された「東京警視庁」の所管のもとにそれ
をおくことになった。
この時点から都市スラムにも配慮した内務省行政は,一方で「無告ノ窮民」
(最下層民)を救恤する「救貧」行政権を収斂すると同時に8)、他方で強権的
な警察権力を背景とした公衆衛生政策を展開した。
つまり当時の東京のコレラ対策は、内務省のもとで東京警視本署(1877年1月設置)
と東京府に両属していたことになる。