21/01/17 12:09:06.38 ZPX2oD2i0.net
>>94
東京について,当時の避病院(伝染病患者の隔離病院)は1877年(明治10)
ごろから,深川富岡門前・浅草老松町・芝愛宕下町(以上府立)また本郷森川
町宿続き向ヶ岡・市ヶ谷富久町監獄支署地続き・北品川洲崎旧台場・本所緑町
学校地(以上東京警視本署所管)などに新設され,いずれも一か年半程度,
経過してから,解体ないし統合された13)。いずれも患者は一か所に20~30人
またはそれ以上で,大部分は公共施設に隣接した利用度の低い土地かまたは
場末町ないし近郊に位置し,簡略で粗末なバラック小屋に等しかった。
その後,常設の伝染病院は,1886年(明治19)以降,駒込・本所・大久保・
広尾などに開設される14)。
ところで,入院者の実態は「十中八九ハ人家稠密不潔狭隘ノ裏店ニアリテ消毒
薬サへ購求シ能ハサルノ貧民15)」であり,表3にみるように,力役・職工・
商業・農業の従事者で,換言すれば,筋肉労働者・小工場労働者・職人・小商人
などとみられ,その大部分はスラムに居住する小営業者と雑業層であったといっ
てもよい16)。「矮陋不潔の病室」に収容された患者に対して,
医療知識に乏しい医師は満足な手当もせず,放置するだけであり,時にはコレラ
類似症患者が真性コレラに「院内感染」した事例などは,一種の「棄民」政策に
も等しいものであった17)。
このため,警察権行使による強制入院をめぐり,各地で「コレラー揆」が
続発し18),後には患者の自宅療養が容認されるに至った。