20/11/21 16:49:15.52 z57W7RPW9.net
衝撃的だった展示写真。これは3体のブタの下顎に棒を刺し貫いたもの。稲作の祭りに使われたと考えられている。ブタを飼育していたこともわかるし、この頃から豊穣を祈る習慣があったこともわかる。まさに、出土品は語る、である。
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邪馬台国はどこにあったのか? そして、卑弥呼は実在したのか?
いまなお、日本人がその謎に胸をときめかせるこの歴史テーマは、たった二千字で書かれた「魏志倭人伝」がもたらしたものだ。
邪馬台国は畿内なのか? はたまた九州なのか? さらにいえば、東遷説が正しいのか? そして卑弥呼の都とは?
そのヒントとなる魏志倭人伝によると、1700年以上前、「倭国」と呼ばれた我が国には、三十ほどのクニグニがあったという。諸説あるが、その中で、所在地がおおよそ比定されているのが、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市から福岡市西区)、奴国(春日市から福岡市)の、九州における5つのクニといわれている。
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●菜畑遺跡(なばたけいせき)~日本文化の原点、稲作発祥の地~
水田稲作はいつどこから伝播したのか。
私たちは教科書では「弥生時代に大陸から渡ってきて」と習った記憶がある。
が、しかし、ここ末盧国、菜畑遺跡の発掘調査で、その歴史観が見事にひっくり返った。ある地域の発展を考えるとき、稲作文化の伝播、つまり弥生式の文化をうまく取り入れたことは想像しやすい。末盧国も当然、稲作を取り入れて、さらなる発展を遂げたといっていいだろう。
その時代考証の結果が衝撃的なものだった。
中国から朝鮮半島を経て伝わった水田稲作がここ、唐津に伝わったのは、なんと通説の100~200年も古く遡ることになったのだ。弥生時代ではなく、縄文晩期といわれる2500~2600年前に伝わっていたことが、この菜畑遺跡の調査で判明したのである。そのあたりは、唐津市「末盧館」(まつろかん)のジオラマや出土品の展示を見るとよくわかる。
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この時の調査で、なんと日本最古の農工具と水田跡が発見されたのだ。
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さらに、である。遺跡から出土した炭化米を調べると、縄文時代晩期、約2600年前の最も古い米だということがわかった。種類は短粒米のジャポニカ種で、今日、私たちが食べている米の原種だそうだ。町のミュージアム「末盧館」にその実物が展示されているが、現代の私たちの主食である米の原種と思うと、とても感慨深い。どんな味だったのだろう? 食べてみたいものだ。
そして、同じ縄文時代の晩期の終わりごろの2つの水田跡も確認された。
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日本への伝播経路は、農耕の種類などから、長江下流域から華北、朝鮮半島を経て日本に伝わったというのが、現在のところ、研究者の間では主流の考え方だ。その伝わった最初の足跡が、ここ、菜畑遺跡にあるのかも…? 今まさにその地に立っていると思うとかなりワクワクする。
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私たちは教科書で、弥生人に縄文人が駆逐されたように学んだが、どうも違うようだ。
稲作を取り入れつつも、最初から稲作が上手にできたわけではなく、それだけですぐにムラの食糧をまかなうのは無理があった。そのため、それまでの狩猟・採集も同時並行で行われており、狩猟・採集はまだまだ大きな比重を占めていた。ここに縄文文化と弥生文化の相互補完関係があったというのだ。新参の者たちが戦ってその土地を支配するという短絡的なやり方では、その地理や気候風土に即した生活をすぐに築くことは難しい。だから互いに協力しあって、より良い暮らしをつくりあげていったのではないか。大和民族の気質を思うと、黎明期は、そうであってほしいし、筆者などは、むしろその方がしっくりくる。
土器の変遷がそれに一致していて、稲作が不安定な時期は縄文色が強く、稲作が安定的に行われるようになってくると共に、弥生式土器が定着していったという。祭祀が行われていたことや、ブタを飼育していたことものちの調査で分かり、まさに菜畑遺跡は、日本の農業の原点、始まりの地としての地位を確立した。
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魏志倭人伝の中でもその豊かさが描かれている末盧国は、邪馬台国とも、卑弥呼とも、緊密な関係があったように思う。だからといって、即、邪馬台国の秘密を解き明かすことにはならないけれど…。やはり九州は侮れない。(続きはソース)
2020.11.16
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★1:2020/11/20(金) 22:48:03.84
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821:ニューノーマルの名無しさん
20/11/26 16:48:21.96 MFZYl6zi0.net
古代から朝鮮半島からあらゆるものを盗んできた悪人の末裔が俺たち糞喰いジャップなんだよな
知ってた
822:ニューノーマルの名無しさん
20/11/26 16:49:35.44 iNTNhKP70.net
>>758
日本の最古の水田遺跡の菜畑遺跡から見つかる石包丁は摺り切り式の切り目が入れられたもの
これは朝鮮半島で特有の道具
伝来の流れを考えるにやはり道具から農耕の技術一式を半島をいったん経由していると考えるのが自然
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