20/11/25 21:06:27.18 vAYbKVgv0.net
>>592
栗を栽培していた痕跡は青森県三内丸山遺跡で発見されているよ
縄文時代中期は暖かい時代で食糧が豊富にあり、現在の青森でも十分食糧が得られたわけだな
ところが後期後半くらいになると寒冷化し始め、彼らは南に下り、縄文人の人口が少なかった西日本にやってきたわけだな
北部九州に来た青森人たちが半島や大陸との交易で知ったか、自ら半島や大陸に行って知ったかして水稲栽培が導入されたわけだ
だから、水稲栽培を谷間の土地で試行錯誤していた時の縄文土器は亀ヶ岡式土器の影響も強く受けて作られている(この頃には既に文様としての縄文は消えていた)
そして半島南端との交易を重ねるに従い、半島南部の土器作りの影響も受けて、福岡県板付遺跡かその前段階あたりで広い水田(灌漑施設を生み出したのだろう)と、
弥生土器が成立し、その土器と水稲栽培がセットになって南九州、四国、畿内まで広がったわけだな
背景には慢性的な食糧不足という事情があったからこそ、広い水田さえ作れば一年後には集団が食べていけるほどの保存の利く大量の食糧が得られるかもしれない
水稲裁判を受け入れざるを得なかったわけだな
縄文人とて馬鹿ではないわな