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>>444
アジ歴比島野口大佐2【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071385100:陸軍省 第四十一軍司令部「第2章 作戦経過/2 「マニラ」市周辺の作戦(自2月初旬至2月下旬)」(3コマ目)
軍司令部との連絡は完全に絶たれた。連日連夜の敵攻撃は、耳を聾(ろう)し、目を眩ます強烈な砲爆撃をともない、崩れるコンクリート建物、焼け落ちる木造家屋の下敷に、血漿を飛散させて圧(お)し潰した。炎々たる猛火のなか硝煙に燻(くす)んで、死臭が地を這(は)う。
この砲煙弾雨のなか、こんどは在留日本人の老幼婦女子が逃げ惑い、夫の名を、子を呼び、親をもとめ、巷(ちまた)から巷を走る。まったくの阿修羅、阿鼻叫喚─。しかも戦線は日毎に縮少され、追いつめられた。
悲劇はこれにとどまらなかった。米軍の鉄環がジリジリと縮められていくにしたがい、米軍に呼応して起(た)った比島ゲリラが、勝手知った市街に潜入し、日本軍残存将兵の背後から襲い、老幼婦女子の惨殺をしはじめた。
ゲリラに掴まったが最後、たとえ幼児といえど、それが日本人である限り容赦しなかった。「みろ! マニラを脱出できず、集団軍の後方に逃げられぬ日本人老幼婦女の無惨な最後を、だから敵抑留市民をも全滅させておくべきだったのだ!」「かつての尼港事件、通州虐殺事件の比どころか、この大量虐殺になにをもって報いたのだ。ひとりよがりの人道主義など糞くらえだぞ」
と怒り、報いるに暴をもってした米軍を呪った近藤大尉も死んだ。おし黙ったまま、キリキリと痛む胸を押え、みなごろし、虐殺に耐え、比島ゲリラを押えられぬ米軍を憎悪しながら、小田少尉も、斎藤中尉、長原少尉も戦死し、私もまた重傷の身を、最後の総攻撃に参加して斃(たお)れた。野口大佐、林中佐以下も折重なって自決、ここにマニラ市街戦、大殺戮は終った。