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●反日種族主義
一九一六年に公娼制が移植されたあと、時間が経つにつれて朝鮮人たちも、徐々に
積極的に遊廓に出入りするようになりました。 おおよそ一九三○年代の半ばからだ
と思います。
少数の日本人のための特権的売春業が、多数の朝鮮人のための大衆的売春業に発展し
たのです。
そのことに関連して、仁川にあった敷島遊廓の例を紹介します。表19-2が『束亜日報』
で報道された関連情報です。
敷島遊廓は、朝鮮人楼と日本人楼とに分けられていました。
一九二四年、日本人楼は朝鮮人楼より繁盛していました。朝鮮人楼の娼妓が九五人で
あるのに対し、日本人楼の娼妓は一一五人でした。
遊客の人数も一万八四人対二万二九七一人という差がありました。
遊客一人当たりの消費額にも約二倍の差がありました。
ところが一九二七年になると、朝鮮人楼のほうが、 娼妓の人数や遊客人数において
日本人楼を凌駕しました。日本人楼は業所数そのものが一四軒から八軒に減りました。
『東亜日報』の報道によると、一九三四年に花町の海岸六万坪余りを埋め立てる五カ年
計画が立てられ、一九三六年に京仁産業道路の建設が始まって、労働需要が急増し、
全国から労務者たちが仁川に集まって来ました。
敷島の朝鮮人楼が繁盛したのは、そのことが原因だったようです。
要するに、植民地的開発によって所得水準が高くなるにつれ、朝鮮人も徐々に日本風
の商業的売春に関わるようになったということです。特権的売春業が大衆的売春業に
移行したのです。
このような時代の流れは、日本でも同じでした。一九二〇年代、日本の京都地域の成人
男性は、ほぼ一カ月に一回遊廓を訪れました。このことを以て関連研究者たちは、
「大衆売春社会」が成立したと言っています。
朝鮮でも「大衆売春社会」が始まっていたということができます。一九三七年の
日中戦争の勃発と共に、日本軍が駐屯した全ての地域に軍慰安所が開設されたのも、
このような時代の流れに乗ったからだということができます。こうしたことから、
本章の冒頭で、日本軍慰安婦制度を、ある日、突然できたものと理解してはならない、
と言ったのです。