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●反日種族主義
遊興費を娼妓の人数で割った娼妓一人当たりの月売り上げは一〇二円で
した。そのうちの三分の一か二分の一を娼妓の分け前としてみると、
三四円か五一円です。当時、小学校を卒業して工場に勤めた女工の月の賃金
は、大体一八円程度でした。 そういう点を考慮すると、一九二九年当時の貸座
敷娼妓の待遇は、前章で紹介した韓国の一九五〇~六〇年代の慰安婦より、
遥かに良かったと言えます。
・軍慰安施設としての公娼制
成鏡北道の会寧も軍事都市でした。そこに一九一二年、徳川楼という遊廓が
開業しました。
『植民地遊廓-日本の軍隊と朝鮮半島』(金富子・余栄著、吉川弘文館、二〇一八
年刊)という本には、この徳川楼で一九二九年頃、日本人の女将と二人の子供、
また三人の朝鮮人娼妓が一緒に撮った記念写真が掲載されています。
一人の娼妓が一人の子供を抱えていて、まるで家族の団欒のような雰囲気です。
先に、一六四五年に蔚山府出身の軍官の朴就文がここ会寧で勤務しながら結んだ妓生
たちとの関係を紹介しました。私は、写真の中の娼妓たちを見ながら、その妓生たちの顔を
思い浮かべました。
朝鮮王朝が置いた軍慰安婦たちでした。その妓生制が一九世紀末まで続きました。
写真の
中の娼妓たちの出身地はどこか分かりませんが、歴史的には朝鮮妓生の系譜を継ぐ
存在でした。
朝鮮王朝が滅びてから、総督府が公娼制を施行すると、既存の妓生たちは娼妓という
新しい名前を得たのです。
軍慰安婦であるという属性に大きな変化があったのではありません。会寧に設置
された遊廓は、最初から軍慰安婦の供給所としての性格を持っていたからです。
その後、一九三七年に日本軍が公式に慰安所を設置すると、これらの遊廓は民間人の
出人りが禁止された軍専用の慰安所に変わります。
つまり、妓生制、公娼制、慰安所制はその本質的属性を変えないまま、一つの系列
として、ずっと続いて来たのです。 徳川楼の記念写真は、その歴史的系譜を他の何よ
りも明らかに物語っています。