20/09/14 09:16:27.28 pn5TB8qj.net
>>1
【東海中学・高校の変遷】
戦前 … (私立)名古屋中より格下の二流私学。
当時から私立の他校(名古屋中、南山中など)と比較しても定員は多かった。
戦後…
小学区制(昭和24~30年、1949~1955)の導入と名古屋中の没落
(戦時中のキリスト教弾圧、空襲で校舎全焼、砂田橋の工業地帯へ校舎移転)で台頭、
一流進学校に仲間入り。公職追放された県立旧制中学の教員や軍人の受け皿にもなった。
旧大学区(昭和31~47年、1956~1972)
この時代は高校募集定員が多かった。併願合格の旭丘はじめ公立落ちも居たが、
一宮・(当時の)瑞陵に入れないレベルの生徒が専願で入学していた。
800人規模のマンモス男子校。特に昭和40年代後半には低迷した。
学校群(昭和48~63年、1973~1988)
学校群制度のおかげで再び躍進、県内トップクラスの進学校に仲間入りする。
しかしながら併願でも2群(千種・旭丘)と1群(菊里・千種)の滑り止め。
専願なら6群(中村・明和)レベル未満、7群(明和・松蔭)レベルでも入れた。
1学年500-600人。
複合選抜(平成元年~、1989~)
高校募集定員は40名まで縮小される。
複合選抜開始直後に急落したので、中学募集定員も減らして立て直す。
公立高校入試の内申重視、ゆとり教育にも助けられて、再び躍進。
(他私学の滝や南女も含めて)難関医学部進学者数がさらに飛躍的に上昇。
ただし高校入試では依然として旭丘の滑り止め。
滝が高校入試の入試日をぶつけてきた2001年入試以降は、高校募集の定員割れが常態化。