【日刊ゲンダイ】 菅官房長官「虚飾の履歴書」 生家は豪農、名士の父は元町議 [影のたけし軍団★]at NEWSPLUS
【日刊ゲンダイ】 菅官房長官「虚飾の履歴書」 生家は豪農、名士の父は元町議 [影のたけし軍団★] - 暇つぶし2ch455:不要不急の名無しさん
20/09/11 15:57:41.68 kTaq4rrp0.net
菅義偉の生い立ち
秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後の雄勝町、現、湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿いに家があったイチゴ農家に
長男として生まれる[5]。現住所は神奈川県横浜市神奈川区金港町1丁目[6]。
家族は父、母、姉2人、弟1人。父、菅和三郎は第二次世界大戦末期、満鉄職員として当時満州国の首都
だった通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮いちご」の
ブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集
出荷組合組合長などを歴任。2010年に93歳で死去すると、旭日単光章を叙勲されている[7]。
母や叔父、叔母は元教員であり、2人の姉も高校教諭となった[8][9][10][11][12]。
雄勝町立秋ノ宮小学校(現、湯沢市立雄勝小学校)卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現、湯沢市立雄勝
中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、
第3学年では進学組に所属した。後に、「フライデー」から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した
北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時教員に
だけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校へ
の進学を勧められたが断り、高校卒業後、集団就職で上京する。「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち
上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感して2ヶ月で
工場を退職。その後は大学進学を志すようになり、朝は築地市場、夜は新宿の飲食店でアルバイトをして
生活し[13]、上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学する[14][13]。
なお、複数の週刊誌等で第二部(夜間学部)の出身であると報じられることがあるが、菅本人が2016年の
インタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と
述べており[3]、実際には第一部(昼間)の出身である[15]。法政大在学中には警備員や新聞社、カレー屋の
アルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で、大学の空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している[13][16]。
1973年、大学を卒業し、建電設備株式会社(現、株式会社ケーネス)に入社した。
横浜市会議員へ
1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長
中村梅吉の秘書を紹介され、自由民主党で同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。
以後11年にわたり秘書を務めた[8][要出典]。1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める[17]。
1987年、神奈川県の横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政
に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、
秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、
「影の横浜市長」と呼ばれた[8]。

1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し、新進党公認・公明推薦の上田晃弘、
旧民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した[18]。


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