20/06/07 10:58:20 3Vz0PhQF9.net
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■論理性の喪失と、お祭り政治
本稿で述べるのは、ブルーインパルスを飛ばしたことそのものの是非ではない。
この件を「医療従事者への感謝のため」とした政府の説明についてだ。
(中略)
強引なこじつけ、そして論理の飛躍―それが許されるのは、ブルーインパルスにせよ、オリンピックにせよ、
それが祝祭であり、日常から切り離されているからだ。つまりそこには「連続性」がない。
被災地の復興や医療関係者への支援・感謝といった営みが実効的なものとなるためには、日々の小さな積み重ねこそが重要となる。
その意味での毎日途切れることのない「連続性」が不可欠である。
しかし、ブルーインパルスやオリンピックといった「祝祭」は違う。
それらには、被災地との関係や医療従事者との関係においては、過去も未来もない。
ある一瞬、あぶくのような高揚が顔を覗かせるだけだ。
連続性がない一瞬の祝祭だから、その行為がなぜ「感謝」になるのか「復興」になるのか、誰も責任を持ってきちんとした論理を考えない。
(中略)
安倍政権の問題点は、政策そのものが「お祭り」的であることだ
安倍首相が打ち上げる花火は常に大きく、常に仰々しい枕詞が付く。
そして、なぜそれが必要なのか、論理的に考えれば意味不明なことも多い。
「アベノミクスの三本の矢」から始まり「デフレ脱却」「新三本の矢」「一億総活躍」「GDP600兆円」
「国難突破」「地方創生」「人づくり革命」「非正規という言葉をなくす」「空前絶後」……。
「働き方改革」のように定着したものもあるが、皆さんはいくつ覚えているだろうか。
これらの仰々しい言葉は、突然パッと花火のように打ち上がり、何の検証もされずに消えていく。
検証しようと思ったときには、次の花火が打ち上がっているからだ。前の政策が成功したのか失敗したのかも定かではない。
(中略)
しかし、具体性を欠いた政策を打ち上げ、ろくに検証もせずに矢継ぎ早に繰り出すことに、一体何の意味があるだろう?
具体的であるからこそ、我々は政府を監視でき、健全な民主国家が実現できるのではないか。
我々の日々の生活はお祭りではない。残念ながらスローガンで腹は膨れないし、問題は解決しない。
■フェスティバリズム(お祭り主義)
国会答弁は拒み、委員会は開かない。政策は打ち上げ花火で、検証させないように矢継ぎ早に新しいスローガンを繰り出す。
情報はできるだけ出さない。議事録も公開しない。
国会が閉じれば外遊に精を出す。芸能人とは積極的に会う。
安倍首相は、論理という日常と地続きのフィールドでの戦いを徹底的に避ける。
それは安倍政権における一つの戦い方のスタイルであった。このスタイルを作り上げることで、長年批判をかわし、政権を維持し続けてきた。
このような安倍内閣の姿勢はポピュリズムというよりも、古代ローマの風刺詩人、
ユウェナリスが語るところの「パンとサーカス」につながる、フェスティバリズム(お祭り主義)と読んだほうが適切ではないだろうか。
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